旧宇部市立図書館【2】

公共施設インデックスに戻る

記事作成日:2017/8/29
ここでは、旧宇部市立図書館の外観および外構にある史跡類をまとめて収録している。
建物の内部は「旧宇部市立図書館【1】」に作成しているが、内部の写真が追加されればファイル番号を変更するかも知れない。
《 建物の外部 》
旧図書館周りにあるものに限定している。同じ敷地の郷土資料館エリアに存在するものは「郷土資料館|屋外の展示物」を参照。
現地撮影日:2017/8/26
【 玄関横の池 】
建物の玄関右横には、足洗い場のような長方形の狭いプールが存在する。これは建物の玄関周辺の写真を撮り直している過程に見つかった。


玄関横の室外機が置いてある近くに干上がった池のようなものがあった。
すぐ横は建物の勝手口に繋がる通路となっている。


中は栗石が一杯詰まっていた。
まるで砂場の痕跡のようでもある。


外枠のコンクリートに水平な跡が遺っているので、池だった可能性が強い。しかし池に特有な燈籠などの飾り物がないし排水口も見当たらない。そもそも池だったとしたらあんな大粒の栗石がごろごろしているのも変だ。

池のすぐ横に小さなコンクリート階段がある。
中庭のミニチュアをイメージしているようだ。


勝手口の方に背を向けて撮影している。
庭園の飛び石を模しているのだろうか…正方形のコンクリート板が並べられている。
これもちょっと意味が分からない。最近ではまず見かけない意匠だ。


ここまでを撮影して退出し、この長方形のプール状のものについて運営ページで題材投下してみた。ほどなくして読者からやはり池だったという情報が寄せられた。金魚が泳いでいたという指摘もある。[a1]もっとも学生時代は玄関横を何度も通っていながらまったく記憶がなかった。

判明してしまえばどうということのない小さな遺構であるが、この池に昭和期の設計思想の一つを見ることができる。建物に限らず駅や公園を含めた公共施設にはしばしばこのような小さな池が造られていた。池や噴水は和み空間を演出する象徴であり、公共空間に取り入れるのが一つの流行であったとも言える。
そしてこれも共通することだが、池の殆どが後年になって除去されたり土を入れて埋め潰し芝生を敷くなど改変を加えている。[a2]これは幼児の転落事故、藻の発生などの水質悪化に対するメンテナンスの手間もさることながら、小さな池が減ったのは溜まり水が蚊の発生源となっている事実が指摘されたことも大きな要因であろう。
【 手水石 】
正面玄関から郷土資料館へ寄った側の塀寄りに高さ1m程度の手水石が一基置かれている。


石質は霜降山などでよく見かける肌色基調のもので、搬出時の衝撃が原因なのかひびが入っていた。
近接画像はこちら


献や奉納などの文字は刻まれていない。いつ何処から搬入されたかは不明。
【 桃色レンガと未知の道標 】
旧図書館の郷土資料館寄りの外壁には、いつ何処から持ち込まれたのか不明な史跡類が置かれている。
奥の方に見えかけているのは郷土資料館を案内する進行説明板


土間のたたき部分に石柱数本とレンガが置かれていた。
レンガは通常のものではなく、いわゆる桃色レンガである。


桃色レンガの破断面の近接画像。
全国で一般的にみかけるレンガよりも色調がかなり薄いのが分かるだろう。


桃色レンガとはかなり地域性のある廃物利用を兼ねたレンガで、本来なら廃棄される焼却灰などを混ぜ合わせることで造られたものである。その特性から究極のリサイクルとも言われる。一時期製法が喪われていたが、平成期に入って史料や現物を解析することにより復元された。詳細な説明板が市立図書館の外構に現物と共に展示されている。

ただし桃色レンガに関しては現役の塀として使われている場所はまだ多く、それほど希有な存在ではない。ましてあまり価値があるとも思えない破片がこの場所へ存置されていることからして、何処か由緒ある場所のレンガ塀だったのかも知れない。

近接して4本の石材が置かれていた。2本は荒削りで2本は割と整っている。近い場所に置かれていることから同時に搬入されたのだろうか。


滑らかな方の石柱を調べたところ、文字が刻まれていることが分かった。[a3]
西 ふぢ曲などと彫られているようにも見える。
文字部分の近接画像はこちら


建物側の面にも文字が彫られていたが、石碑は一人では動かすのも難渋するほどに重く確認できなかった。

市街部周辺にある道標の絶対数はそれほど多くはなく、私設のものを含めても十数基程度である。この道標が何処に設置されていたのかは搬入者による記録がない限り解析は(たとえ道標の文字がすべて判読できたとしても)非常に困難だろう。文字が刻まれている石碑は、道路拡幅などにかかった場合でも近傍の分かりやすい場所へ移設されるのが一般的だからである。移設する場所がなかったために搬入されたものと思われる。

このように「本来あった場所から移動された史跡」は、出来るだけ早い段階で元々は何処にあったのかの記録を遺し、移動などの履歴を明示することが必要である。大事なものだからここまで搬入されたのだろうが、現物以外の記録がなければせっかく逸失前にこの場所へ救出されていながら詳細が分からず、史料として役立てることができない。可能であれば再度元からあった場所へ戻されるのが理想である。この道標について詳細が判明次第追記する。

---

【追記】(2017/9/1)

この道標は宮地町にある出雲大社宇部支部より北側、新橋へ降りる分岐路に設置されていた可能性がある。石碑は「琴芝小学校 三十周年記念誌」に琴芝校区に現存する道標2つのうちの一つとして紹介されているものに文字の刻み方がかなり似ている。
確定に至るには別の面に彫られている文字を確認する必要がある。ちなみに8月31日前述の記念誌に書かれていた現地を訪れたところ分岐点に道標は存在しなかった。もし現物だとすれば、車が当たるなどの理由によりここへ運び出されたものと思われる。
出典および編集追記:

a1.「FBページ|2017/8/26の投稿(要ログイン)

a2. 宇部新川駅前にはかつて円形の池があったことはよく知られている。現在は埋め潰され彫刻が設置されている。また、渡邊翁記念公園にも渡邊祐策立像のところは池だったが、現在は埋め立てられて芝生エリアとなっている。

a3. 時期を違えた写真が混在しているためこの写真は直前の石碑のものと位置が異なっている。文字を解読しようとして来訪者が動かしたようである。

ホームに戻る