子どもの文化

インデックスに戻る

ここでは、幼児期から現在に至るまで特に自身が体験した一人遊びなどについて収録する。本編は一般論としての記述のみならず居住地域や時代の習慣や自分史の一環としての記録も志向しているので、特段の必要ある場合を除いて個人的関わりの項目も分離せずそのまま本編に盛り込んでいる。当面は相載せ方式で記述し、分量が多くなってきたら本記事を総括として詳細記事へ移動しリンクで誘導する。主に学童期のものに限定されるので地域性がみられるかも知れない。
《 一人遊び・暇潰し 》
一人遊びとはゲーム性がなく自己満足のために行ったり、他者に披露するための落書きや制作物を含む。幼少期から社交性に欠け、また単一のことに熱中する性癖があったせいか多くのものが見いだせる。もっとも私のみが行っていたとは限らず同じことを友達などが実行していたものも含まれる。
【 空き缶竹馬 】
記事作成日:2015/2/8
空き缶の両端に小さな穴を空けて針金を通す形の竹馬。蓋のない方を下にして乗る。小学生時代、厚狭の家へ遊びに行ったとき作ってもらったのを覚えている。底面積が広いため竹馬よりも乗り方は容易で、高さがあればある程度の水溜まりやぬかるみの中も歩くことができた。
恩田の家でも一度くらい作ったことがある。しかし安全に歩くには直径の大きな缶でなければ作れず、みかんの缶詰のようなサイズだとひしゃげてしまったり変形して足を挫きかねなかった。
ちなみにホンモノの竹馬に乗ったことは殆どない。竹は田舎では容易に手に入る素材だったが子どもが乗りこなせる程度に丈夫な竹馬を作るのは結構な手間だった。後年、脚を掛ける部分の高さを自由に変えられるスチール製の竹馬が学童用玩具として売られ始めた。高校生以上だった頃に近所に小学生の子どもが引っ越して来て遊んでやったことがある。このとき子どもたちが乗り回していたスチール製の竹馬に乗ったことはあると思う。現代でも乗れるかどうかは分からない。
【 石磨き 】
記事作成日:2015/2/6
道端に転がっている石をコンクリートの土間などに擦りつけて平面を出す加工術である。


石の種類は特別なものではない。昭和期なら生活道路は概ね砂利道であり、そういったところから調達してくる。川や海に行ったとき拾うこともある。
自然界にある石はどれも不定形をしている。もっとも河川の中流域で見つかる河原の石は概ね角が取れて丸っこくなっていて平面を出すのが大変なので使われない。求められる課題は、普通の石を使って自然界では普通みられない整った平面を造ることである。究極にはできるだけ少ない数の平面で構成された多面体を造り出すことだ。

タイルやコンクリート塊など人工的に製造されたものは整った直方体などをしていて当然である。それになるべく近い形のものを何処にでも転がっている砂利から造るわけである。
どんな石でも一定の角度でコンクリートの土間などに押し付け前後に動かしていると、石が少しずつ削れて平らな面が多くなってくる。しかしある程度最初から面ができていなければ削る量が多くなるし、何よりも最初に土間コンクリートへ擦りつける段階で一定の平面を維持しにくい。これが常に一定でないと平面にならず曲面になってしまう。このためには最初から有る程度整った平面を持っている石を探す必要がある。原石の段階で数学的に言う凸多面体であることが望ましい。一部でも窪んだ部分があると、窪みが解消されるまで削り取らねばならず平面を造ることが難しくなる。

最初は荒削りの段階なので平らに均されたコンクリートの土間などで良い。何処にでもある素材と場所で、ある程度時間はかかるものの何処にでもある石ころがすべすべした平面を持つのは魅力的で、時として熱中する遊びになった。自分で思い付く筈もなく誰かがやっているのを見て真似したと思われるが、それが一体いつの事なのかまったく見当も付かない。

乾いた状態で擦りつけてもある程度進むが、少し水で濡らし適宜洗い流す方が効率的に進むらしいことが経験的に分かっていた。[1]そのため作業はコンクリートの土間があって水が容易に得られる場所でやっていた。


兄貴も面白がっていたようで、二人で小学校中庭に当時あった「虹の池」の外側のコンクリート縁を使って石磨きをやっていたところ、面白そうだと思って真似した子どもたちが続々と集まってきて気が付けば7〜8人が石磨きに興じていたことがある。

水を漬けて擦り続けると石から粉がこぼれて水と混じりネバネバした粘土状のものがでてくる。この状態でなお擦り続け、途中で石を引き剥がすと研磨面にこのような模様が出る。


更に擦り続けることによって次第に接触面の抵抗が強くなり土間コンクリートに貼り付いて剥がしにくくなる。このとき静かに石を剥がすとこのような模様ができる。


水分が少ないほど精密な血管模様ができることは経験的に知っていたが、何故そうなるのか分からず不思議でならなかった。
フラクタルなどという言葉を知ったのはずっとずっと後のことであるが

砂利道を丹念に探し歩いていると、あと少し削れば平面が容易に現れそうなこういう石に出会う。


そういう石を見つけるたびに暇なとき石磨きしようと思ったのか、古い引き出しの中には有望そうな自然石が沢山出てくる。うちの母は整った形の石は墓石の破片の可能性もあるから無闇に持ち帰るものではないと顔を顰めたが全く止める気がしなかった。


石の種類によっては平面が2つ会合するエッジは非常に鋭利なものとなった。特にガラス分を多く含む石は加工が難儀だが、出来上がった石のエッジを使えば普通の紙をささくれさせることもなくカッターナイフの如くスパッと切断することができた。


荒削りの段階なら土間コンクリートで充分だが、限りなく表面をすべすべにするために包丁を研ぐための砥石を使うことを思い付いた。これを使うと普通のコンクリート土間に擦りつけるより早く削れる上に精密だった。しかし元々は包丁を研ぐためのものに不定形をした小石を擦り続けたものだから、長く続けるうちに砥石の表面がデコボコになった。これが露見した暁には親にかなり叱られた。このデコボコになった砥石は今も親元のところにある。

幼少期および学童期にはこのような石を見つけると反射的に拾う性癖までついてしまっていた。これはなかなか抜けきらない。この歳になっても平面から構成される石は目立つので見つけるとつい拾ってしまう。この石は最近のこと千林尼石畳道を山田側から歩いていて見つけて持ち帰ったものである。


あいにく高校時代は文系に行った(と言うか行かされた)ので地学は基礎すらまったく学習していない。そのため石に関する組成や知識はほぼ皆無だが、石磨きを試したとき思いの外加工しづらい石があることは経験的に知っていた。
例えば上の千林尼石畳道で拾ったこの石は、土の斜面が崩れて風化しつつある露岩の見える場所だった。ここには平面的にスパッと切れたような石が沢山見つかるのだが、思いの外硬いようでなかなか平面が作れない。同様のものは別府の弁天池から流れる川の中で拾った石もそうだった。

他方、加工しやすく見栄えのするのは蛇紋岩系の石だ。はじめから平面が現れているものは少ないが、コンクリートの土間に擦り続けているとかなり早く削れてくれる。しかも丁寧に磨くと平面に石の中に含まれる微細な構造が現れてなかなか美しい。ただし柔らかい石の宿命からか、早く平面を作ろうと乱雑に擦りつけているとポロッと欠けてしまうことが多い。
審美性で言えば石灰岩が適度な硬さを持っていて砕けにくく平面を削りだしたときの模様も多彩で面白い。ただし入手できる場所が限られること、セメント原料として破砕されたものの破片が道路端に散らばっているので始めから削りやすい平面を持っているものが少ない傾向がある。
出典および編集追記:

1. 石をコンクリートの土間に擦り続けると微細な粉末が出てコンクリートの隙間に入り込む。これで摩擦が少なくなり削れるスピードが落ちるからだろう。

2. 本件をFBに提出してみたところ同様の行為について「まんてき」と呼んでいたという読者報告があった。漢字表記は不明とのことである。「FB|何だろう?(3)(2015/3/2)
【 コイン磨き 】
記事作成日:2015/9/18
上記に関して、従兄弟の家へ遊びに行っているとき従兄弟から裏山で採れる砂を使って十円玉に擦りつけると新品みたいにピカピカになると教えてもらい採りに行ったことがある。

場所は野山の家の近く、現在善和消防器庫がある裏手か児童公園裏の斜面あたりだったと思う。とにかく斜面から水が湧く場所があり崩れて青白い砂の層が露出している場所だった。何と言う種の砂なのか今でも分からない。真砂土よりは細かく水に濡れると粘土のようになった。スコップを突き刺すと容易に崩れるので、適当に袋へ入れて持ち帰った。
十円玉は年号の古いものはどれも濃茶色をしている。桶に水を張って十円玉を浸けて濡らし、同様に先ほどの青白い砂を水に濡らして硬貨に擦りつけると確かに明るい銅色になった。当時既にクレンザーなるものが市販されていたが、従兄弟はクレンザーで擦ったよりもこの砂の方がキレイになると話していた。
この砂を使ってギザ十のようなできるだけ年号の古い十円玉を選び、磨き砂に水を浸けて親指で擦れば新品のような色に戻すことができた。その意味で確かにキレイにはなったが、表面を削っているも同様なので艶はまるでなくなった。それでも特別な薬品や道具を使わなくても新品同様の色に還るというのが魅力的で、数枚この砂を使って磨いている。また、この時に磨いたと思われる異様に明るい色をしたギザ十が今もストックされている。磨き砂は棄てた記憶はないのだが長いこと手元には見つからない。

現行に流通している硬貨を磨き砂でキレイにすること自体特に法的問題はないのだが、学童期に切手コイン買い取りの広告を見たとき「コインは磨かないで下さい」と書かれていたのを見つけ、磨き砂で擦って明るい色に変えてしまうのは犯罪になるのだと誤解しそれ以降磨くのを止めている。
「磨かないでください」とは経年変化で変色したものが自然で人為的に変えない方が良いという意味である
【 ピラピラ漫画 】
記事作成日:2015/2/7
ページ数のある教科書の端に少しずつ違った絵を描き、ページをパラパラとめくった状態で眺めることでアニメーションを実現するもの。小学校高学年時に非常に流行った。

用いられるのは小学校の教科書でも割とページが厚い国語か社会だった。めくることでアニメーションを実現するので、少しずつ位置を変えて描く技術が要った。如何に面白い「作品」を作って友達に自慢しようかと知恵を絞って作品を考えた。退屈な授業のときに先生の話を聞かず教科書の端に書き付けたこともあったと思う。一般には「パラパラ漫画」と呼ばれることが多いが私たちは「ピラピラ漫画」と呼んでいた。
何十ページと少しずつ違った原画が要るので、細かな絵の入った漫画など描きようがなかった。そこで人間は専ら棒球モデルで表現された。絵の稚拙はこの際目を瞑って発想の奇抜さや面白さが問われた。よく題材にされたのはロケット打ち上げのシーンで、友達が登場したロケットが宇宙を目指して出発するも途中で燃料が切れてそのまんままっ逆さまになって墜落してTHE ENDなんて塩梅の作品である。

多分、小学6年生時代に悪ガキに見せるために自作したと思われる作品があった。それは些か卑猥な内容を秘めていた。

注意以下の記述にはアダルトな内容および個人の体験が含まれています。承諾頂ける方のみ「閲覧する」ボタンを押してください。

同種のことをやった人は少なくない。大抵は「パラパラ漫画」と呼ばれるのだが私たちは何故か表題のように呼んでいた。残念ながら小学校時代のすべての教科書は処分しているので現在では記憶しか残っていない。しかし見せる相手の有無とは関係なく授業中の暇潰しとして中学校時代の教科書でも描いた記憶がある。
【 顔遊び 】
記事作成日:2015/2/26
小学5〜6年生時に流行った奇っ怪な遊びというかおふざけである。その名の通り、自分の顔の作りや特性を活かして出来るだけ相手が笑える面白い表情を人為的に造り出すものである。
いったいに子どもはカメラを向けられると、わざと変な顔を作って写りたがる。現代では「変顔」と呼ばれている。原理的には同じものだが私たちのときは単一種ではなかった。両手を駆使して顔のパーツを不自然に移動させ、あるいは舌など他の部分も用いて如何に相手が笑える顔を作れるか鏡を見て研究する学童もあった。そういう学童は特に受けの良い変顔を作品と位置づけ、作品その1、作品その2…などと番号をつけて演じていた。

名前は伏せるがこのカテゴリにおいて達人が居た。彼に依れば作品その1は両手を頬へ押し付け、左手と右手の手のひらをそれぞれ頬に強 く押し付けた状態で反対方向に回す。そのことで目や鼻、唇の位置が大きく移動し変顔を作るというものである。
作品その2はもう一人別の達人によるもので、同様に両手を頬へ押し付けて手のひらを回すようにして頬を押し下げる。そうすると唇が大きく開くので、舌を伸ばして目を大きく開くとかなり奇っ怪な表情ができあがる。
作品その3は再び最初の達人による発案で、これは一風変わっている。まず最初に普通というよりはかなり真面目くさった顔つきを作る。それから左手の平を自分の方へ向けて額の辺りからスローモーションで下の方へ動かす。このとき一瞬口の部分が隠れるのを利用し、手のひらが下へ動いて再び口が現れるまでの間に下唇を突き出し、更に舌先を下唇と同じ程度に突き出す。このとき舌先にやや力を入れてある程度の厚みをもつように演じる。現代となっては些か人種差別的だが、上手に演じると土人の唇のような顔に変身する。もの凄くシンプルだが手のひらで隠される短い間にサッと変わるためにインパクトがあり、大変に面白い作品だった。達人は鏡で何度も練習して舌先を唇の上に重ねる位置や出し方、舌先の厚みの見せ方を研究したという。

顔遊びは専ら男児のおふざけ的遊戯だが、女児もたまにやってみせる子が居た。よく見かけたパターンは両手の人差し指・親指をそれぞれ目尻と唇の端にあてて人差し指は押し下げて親指は押し上げる。この所作で垂れ目で両唇が上がった顔はおたふくそっくりで面白かった。
稀であるが男児では仲の良い友達同士で相手の顔を変形させて変顔を作ることもあった。
【 瞬間芸的遊び 】
記事作成日:2015/11/26
冬場の寒いときは手袋をして学校へ行くことが認められていた。当時はおしゃれなカラー手袋といったものは少なく男の子は殆ど軍手を使っていた。
椅子に座り、室内履きのズックは履いたままでその上から軍手を両足にはめる。そして両脚を挙げて「僕アヒル〜」とひょうげることがあった。軍手の指が分かれている部分をアヒルなどの水かきに擬えたものである。アヒルをアピールするために両足首を振ってピラピラさせることもあった。発案者は私ではない。小学3〜4年生の頃やっていたと思う。

軍手は2つまとめて指の部分を中に押し込めば当たっても痛くない球状になるので、教室の中でソフトやろくむしをするときのボール代わりにされることがあった。
【 マトリョーシカ紙箱折り 】
記事作成日:2015/2/7
正方形の紙を用意して適宜折り、ハサミで4箇所切り込みを入れて組み立てることで丈夫な蓋のない紙箱を作ることができる。これは一般的によく知られており今でも折り方は知っている。サイズの異なるこのような箱を沢山作り、大きい箱を開けると中くらいの箱が現れ、その箱を開けると小さい箱が現れ…という塩梅のものを作るのに凝ったことがある。いわば紙箱版のマトリョーシカである。最初に何処で見たかはまったく覚えていないが、同じ物を作りたいと思ったのは確からしい。ただしマトリョーシカ紙箱というのはここでの説明用の呼称で当時はそのようには呼んでいなかった。

初期の取り組みでは新聞の折り込み広告からサイズの異なる正方形の紙をできるだけ多く切り出し、それぞれを組み立てて小さい順に合わせるというものだった。しかしこれだとどうしても似たサイズの箱が沢山できてしまう。あまりにもサイズが近すぎると箱を合わせたとき一辺の長さに余裕がなくきつ過ぎるものとなる。そこでランダムに作るのではなく始めから一定サイズずつ小さくなる異なった正方形を用意することを考えた。
一辺が10cm程度の箱の場合、他方の辺の長さが±3mmよりも小さくなると組み立てるとき支障する。この差違を折る前の正方形のサイズに換算して正方形の紙を切り出した。また、作られた箱は正方形の稜線が明瞭に出ている方が美しいし組み立てやすい。そのためには用いる紙は光沢のある広告が好適と分かった。折るときは仕上がりのラインになる部分は爪を立てて擦りつける程に強く折った方が外観がきれいで安定する。

ひとたび手順が確立したならあとは単純な反復作業だった。中学生時代の夏休みに従兄弟の家へ遊びに行ったとき半徹夜して大量生産したことがある。このとき作られたものは一番外側の箱は一辺が20cm近く、一番内側に格納された箱は一辺が1mm程度で尖った針を使って組み立てている。全部ばらすと100以上の箱から成っている。捨てた記憶はないから押し入れに格納された段ボール箱のうちのどれかに入っているのは間違いないと思う。
小さい方はおのずから限界があるが、大きい方は何枚か紙を貼り合わせていくらでも大きな正方形の紙を準備できるから、あとは根気さえあれば1,000箱を越えるものも作れる筈だろう。しかし現在のところこの種のマトリョーシカ紙箱のギネス記録がどれほどのものであるかは分からない。
【 鉄棒遊戯 】
記事作成日:2015/5/22
年齢を問わず人間の心の中にはどこか刺激を求めるところがある。学童の場合は往々にしてそれは危険な遊戯の試技という形になって現れる。身体的技能を要したり心理的な危険が伴って実行が難しいほど、それをやり遂げたときの達成感があるし周囲から賞賛を浴び友達からも尊敬の目で見られる。失敗すれば笑われるのみならず自分が痛い目に遭ったりときには大怪我に至るものすらあった。

特に流行っていたわけではないが、小学5〜6年生の頃に鉄棒を使ったある遊戯を誰彼となくやり始めた。鉄棒に両脚を掛けて上体を揺さぶりその反動で鉄棒から離れ、空中で体勢を入れ替えて着地するというもので、当時の私たちは「じたつ」と呼んでいた。この名前の由来や漢字表記などはまったく分からない。ただ上級生からの伝承によりそのように呼んでいた。[1]
鉄棒運動は体育の実技授業に取り入れられ、逆上がりがその筆頭格である。前後の連続回りや足掛け回りなども授業で実施され、評点の対象にもなっていたと思う。ただし「じたつ」は授業では一切触れられなかったし、学童が試すのも先生が制止していたと思う。その理由は危険な事故が起きやすいからである。

両脚のみ鉄棒に掛けて逆さまにぶら下がり反動を付けて飛び降りるため、適切なタイミングで足を離さなければ頭から落下してしまう。この種の技は出来る・出来ないが明瞭に分かれるし、恐怖心の克服も必要なため出来る学童はそう多くなかった。女児でも鉄棒は体育の授業で求められたが、じたつの出来る女児は皆無だったし誰も試そうともしなかった。男児でもやりこなせば相応な尊敬の目をもって見られた。

他の鉄棒運動とは異なり、着地までに時間的余裕ができる高い鉄棒の方が容易なのを知っていたので、私たちは木造器具庫の横の砂場に設置された一番高い鉄棒で試技していた。学童期はジャンプしてやっと鉄棒を掴めるくらいの高さだった。しかし足を掛ければ着地まで高さがあるので身体を入れ替えるのが容易だった。

「じたつ」が出来るようになったのがいつか覚えていないが、恐らく小学4年生の頃にはできていたと思う。恩田の家には池を造る前まで高低2つの鉄棒を設置していた。親父が逆上がりなどの練習をするために造ったのだが、この鉄棒でも近所の子どもたちが集まって試技していた。その後鉄棒を撤去して鯉の泳ぐ池を造ったのは小学5年生の頃なので、家の鉄棒で遊んでいたのは小学3〜4年生頃である。

体育が殊の外苦手で殆ど何もできない子どもだったが、「じたつ」が出来ることで一目置かれた感があった。身体で覚えてしまえば着地に失敗することはまずなかったし、鉄棒から足を離して空中を舞うのはスリルを含んだ爽快感があった。自分は最初に両脚を鉄棒へ掛ける状態から始めるシンプルな「じたつ」のみをやりこなした。足は揃えて鉄棒にぶら下がるのが美しいのだが、自分は両脚をクロスさせていなければこなせなかった。それでも男児でも出来ない子の方が半数以上いたので得意げになって何度もやってみせた。
着地も上体を揺らした反動で降りると鉄棒が背中向きになる。ある程度慣れてくるとそのまま着地するのではなく空中でひねりを加えて鉄棒の方を向いて着地することができた。それほど難易度は高くないが、空中で姿勢を入れ替えるには滞空時間が必要で、そのためには勇気を出して上体を大きく前後に揺さぶって最高地点でパッと両脚を離す必要があった。

両脚を掛けたところから始まるスタンダードな「じたつ」に対して更に難易度の高いバリエーションがあった。両脚を掛けてぶら下がるのではなく最初に鉄棒の上へ腰掛けた状態から始まる。このまま身体を後ろへ落とし素早く両足の膝裏で鉄棒を掴み、その反動で一回転して着地するというもので、「本じたつ」と呼んでいた。
「本じたつ」は極めて危険な遊技で、身体を後ろへ倒すとき確実に両脚で鉄棒を掴まなければ後方へ頭から落下する恐れがあった。後頭部を打ちつけることが致命的なことは早くから親に教えられていたことで、それ以前に自分は恐怖心から試技することもできなかった。兄貴は自宅の鉄棒で仲間の前で「本じたつ」を披露していた。

明白な禁止令が出ていたわけではないが、学校としては危険なのでやらないようにと注意をしていた。その際の説明も子どもたちが呼び慣わしていた「じたつ」という語を使っていたと思う。体育の授業など先生の目の届く所ではやらないにしても注意された位で容易に止めるような学童ではなかった。痛い目に遭うなら自分の責任と考えてマスターしたがっている学童は多かったと思う。
小学5〜6年生のとき、確か昼休みにやはりこの一番高い鉄棒で友達と「じたつ」をしていた。僕も彼もスタンダードな「じたつ」はこなしたのだが、この様子を見ていた知らない中学年くらいの児童が試技し、ものの見事に失敗して顔から落下した。鉄棒の下は砂場だったが酷く鼻血を出していたので、私たち二人で保健室へ行けよと言ったことがある。簡単にできそうだとばかりに試技するとこのような怪我を負うことは普通だった。

運動神経の極めて鈍い自分がどうして「じたつ」をマスター出来たのかは今となってはよく分からない。ただ、失敗して酷い怪我を負った経験がないので、低い鉄棒から始めて両脚を鉄棒にかけた状態で地面に両手をつき、両脚を外して降りるときの要領を体得することから始めたと思う。降り方を覚えられたなら徐々に高い鉄棒へ移るのではなく充分に高い鉄棒へ移った方がやりやすい。特に身体が柔軟だと上体を思い切り反らせることで顔を上方に保てるので、その分だけ空中で身体を入れ替えやすくなる。

中学生になってからも何度か友達と小学校へ遊びに行っているので、その折りに一度くらい試技したと思う。最後に試技したのがいつかはもう分からない。今の年齢では筋力こそついたものの体重も体脂肪も相当についてしまっているので、やりこなせるかどうか自信がない。怪我の元なので敢えて鉄棒をみつけて試技しようとは思わないが、この種の運動記憶は小脳レベルで刻まれる。「じたつ」の試技こそしていないものの、実生活においてつまずいて転んだとき無意識に空中で身体を入れ替えて怪我の少ない体勢を取るなどの好影響に貢献している可能性はあるかも知れない。

もう一つ、「じたつ」ほどの難易度がない遊戯として「ひこうき」があった。両手で鉄棒を掴み両脚を開いた状態で両手の外側へ足の裏を押しつける。そのまま前後に身体を揺らして反動をつくって鉄棒の下をブランコ飛びの要領で前方へ飛び降りるものである。
出典および編集追記:

1. これは現在の鉄棒運動では「こうもり返し」や「こうもり飛び降り」などと呼ばれているものである。香川学園高校で女子が体育の授業の一環として行っているのを見たことがある。「FB|2015/5/21のタイムライン
【 花壇ブロック乗り 】
記事作成日:2015/2/8
タイトルだけでは多分何のことか分からないだろう。実物は写真を見ていただくのが一番早い。
写真は宇部線の芝中第3踏切付近に積まれている円筒ブロック。


昭和期に作られた花壇ではよくこのような円筒形をしたブロックが縁取りに用いられている。あまり知られていないだろうがこの円筒柱は花壇用素材として造られたものではなくコンクリートの圧縮強度を調べるときに採取されたサンプルの廃物利用である。コンクリート構造物を造った後で一定期間経過後、専用のコア抜き機でくり抜いたものをサンプルとする。これを縦に置いた形で破断に至るまでの荷重を調べる。したがって街中で見られるこの種の円筒形コンクリートはすべて微細なひびが入っている。[1]

何がきっかけか不明だが、中学1年生のときこのコンクリート円筒柱を横に倒し球乗りの要領で乗ってバランスを取りつつ転がす暇潰しをしていた。昼休みに遊んでいたと思われる記述が日記にみられる。[2]後日、花壇に置かれていたものを外して遊んでいると疑われ、知らない先生に元の場所へ戻しておけと叱られ学校で遊ぶことは止めている。しかしよほどお気に入りだったらしくこれと同じ物がないかと父に尋ねて取り寄せている。

身近なところでは当時鉄工所社宅のグラウンドの端に花壇があり、そこに使われていた。余っているものを球乗りの要領で家の前まで乗って進んだことがある。最初はバランスを取るのが難しいが、慣れれば体重を巧く移動することである程度の段差を乗り越えることもできた。身体で覚えたことなので今でも恐らく乗れる筈だ。
両側に縁のある円筒形なので真っ直ぐにしか進めないと思われがちだが、慣れれば下地が土の地面やコンクリート、アスファルト路面などとは関係なく何処でも向きを変えることができる。円筒形の片方の端に重心を移動すれば反対側が少し浮くので、例えば左へ曲がりたいときは左足を左端に移動し右脚をやや浮かせる。すると円筒柱の右側が動きやすくなるので、左足の下を軸にして右脚で円筒部分の右端を後ろから押すようにすることでその場で回転することもできる。こんな技をマスターしたところで殆ど何の役にも立たないだろうがバランス感覚が身に付くとは言えるかも知れない。遊んでいて転んだことは何度かあったと思われるが、足を挫いたことは一度もない。
出典および編集追記:

1. 破断に至った荷重はセンサーで自動検知されるため明白に目に見える形でひびが入っているものはなく、外観はまったく普通の円筒状である。そのため強度を保証する必要がない場所で通常のコンクリート円筒柱の素材として流用されている。

2.「日記・第4巻」昭和53年1月17〜18日
【 葉笛 】
下校時によくやっていたこと。民家と道との境界にはしばしば低木が植えられていて、春先になると鮮やかな黄緑色の葉をつける。[1]


その葉を一枚ちぎり取り、葉脈の通っているのとは直角方向へ半分に折る。


そして葉脈に対し半分ほどは強く押しつぶし半分は軽く折り曲げたままにする。


その折り曲げた側を口に含んで強く息を吹き込むとブィーッと音が鳴る。押しつぶして葉が2枚接触した側が震動して音が鳴る原理である。下校時にこの葉をブイブイ鳴らしながら歩く学童が散見された。

実際に葉をちぎって鳴らしている音響主体の動画。
[再生時間: 3秒]


音を出すのに特別な技術などは必要ない。普通に息を吹き込めば重なった葉が震動して音が出る。ただし前年度から越冬した濃緑色の葉は堅いため折り曲げると両方側ともつぶれてしまいやすい。春先に現れた新緑の葉は柔らかくて折り曲げやすい。
出典および編集追記:

1. マサキという木の葉である。「FB|2015/3/25のタイムライン
【 連鎖メモ 】
記事作成日:2021/4/13
前後に何の脈絡もなく突然に思い出したので、忘れないうちに書き留めておくことにする。

謎解きゲームの類として、ある場所Aにヒントが隠されているというメッセージを置く。Aに行って周囲を探すとまた別の紙片があってBの下に置かれているというメッセージがあり、Bへ行くとCという本の何ページ目に挟んである…というメッセージの連鎖を楽しむものである。

解く方はメッセージを忠実に辿るだけだが、仕込むのにとても手間がかかる。本のページに挟む場合では、数ヶ所辿らせた後でさっきの本があったすぐ隣りの別の本のページを指示する”ニアミス”を仕込むこともある。ノートを適当なサイズの紙片に千切るかハサミで紙片を作り、思い付いた隠し場所を書いて逆順に仕込んでいく。

たったそれだけのことだが、恩田に居た頃に兄貴とやっただけでなく従兄弟の家でも同じことをした記憶がある。従兄弟が書いた紙片の一部が段ボール箱(「バカみたい千円〜」などと書かれているはず)に残っているかも知れない。

最後のメッセージのありかに何か特別なものを置いておく。簡単に見つけられてしまうものでは困るので、紙幣とか本人が大事にしていたカードなどがやりやすい。当然ながらメッセージを仕込むときは探し出す本人が居ないときにコッソリやらなければ意味が無い。屋外でも可能だが、他の人がうっかり見つけ出してしまったり風で飛んでしまう場所を避ける必要がある。

屋外で実行するなら、誰でも行って良い場所で確実にメッセージを隠すことができなければならない。同種のゲームが市内で展開されたことがあった。このときゲームのことを全く知らないまま渡辺翁記念公園の茂みにメッセージを見つけてしまったことがあった。運用の仕方によっては市内の一定範囲を舞台とするオリエンテーリング的要素を持ったゲームに仕立て上げることができる。
《 占い 》
学童期から成人に至るまで個人的に見聞したことのあるものに限定して記述している。
【 相性占い 】
記事作成日:2015/2/6
今となっては誰から教えてもらったのかも分からない恋占いがあった。それは自分と相手の名前を数字で表現し、ある演算を行うことで得られた数字を元に相性の良さを占うというものである。


後年、この占い方式の手法が昭和期からあった「アキストゼネコ」に似ていることが分かった。[1]しかし数値化のプロセスは同様なものの途中からの計算がまったく異なるので、ここでは私たちがしていた方式について述べてみる。

最初に自分と相手の名前を平かな表記したとき母音のみを取り出して1〜5の数字に置き換えるところは同じである。しかしここから後のプロセスが全く異なる。私の名前を変換すると1155312という数列が得られ、例えば別項で述べた初恋の女の子の名前を同様に変換すると122315となる。
次に、自分と相手の数列から交互に1つづつ数字を取り出して一列に並べる。この操作では以下のような数列が得られる。
自分と相手の名前の長さによってはこのように巧くは組み合わさらないかも知れない。そのような事例は後述するとして、次のプロセスは上の数列を1桁の数字が並んでいるものとみなし、パスカルの三角形を造る要領で足し算を行う。隣り合った一桁の数字を足した結果の一の位のみを書く。
数学的に言えば法10の剰余系による演算

この操作を一度行う毎に全体の桁数は一つ減る。3桁以下になったときにそれを数値とみなし、100 以下になるまで続ける。こうして得られた数字が相互の相性をパーセント表示したものとされる。容易に想像されるように100 に近いほど理想的なカップルであり、0に近いほど相性の悪いカップルとなる。

先述の例では私の数列は7桁であり相手の女性の数列は6桁である。このような場合は交互に数字を並べる方法は一通りしかない。しかし自分と相手の数列の長さが同じ場合は、どちらを先に配置するかによって2通りの異なる数列が得られる。別の例として2534115という数列を持つ女性との相性を占うときは次のような2通りが存在する。
この異なる数列からはそれぞれ51と35が得られる。これに対して自然な解釈法を与えるとするなら、前者は自分から彼女に伝わっている好意、後者は彼女が実際に自分に対して抱いている好意となるだろう。したがってありがちなことだがこの占いは「彼女は私が想っているほど自分のことに好意は抱いていない」ということになる。

トランプ占いなどとは異なり、名前は所与のものであって結果は常に一意に定まり変わりようがない。したがって計算間違いをチェックしたいなら別として占うにしても一度きりである。そして固定された数字に関わるものだから何らの根拠もない。
しかしそれはあくまでも大人の思考形式だ。恋する少年少女はどんな些末な情報であろうがそれは一つの指針となり得る。そして数値的に良い結果を暗示するものなら妙な自信がつくものだし、悪い結果なら自分に自信を失うものである。

この占いは女の子への興味が芽生え始めた小学校高学年あたりからやったような記憶がある。そしてなお不思議なことに、クラスのあの娘やこの娘と何人かを試してみながら高い数字が出た記憶がない。理論的には50以上か以下かの確率は半々と思われるのだが学童期に自分が取り組んだ限りでは殆どが50以下の数字ばかりだった。もっとも悪いものでは1桁という最悪レベルなものもあった。
中学時代に話を戻せば、告白だにしなかった純粋片想いの子、告白したが友達レベルまでだった子、短期間だが実際に交際していた子があった。しかしその事実とこの占いが示唆する結果には(まあ順当な結果ではあるが)何の相関関係もみられなかった。実際どれも50以下の低い数字ばかりだったのである。

高校生時代、この占いのことを思い出したときはまだ低い数値しか得られなかったことを覚えていた。そしてこの占いで例えば100 が得られることはあるのか、特に私へ授けられた不変的コード1155312に対して最良の結果となる100を導くような数列は実際存在するのだろうか…と考えた。
手計算では大変だがこれは電算機で検証可能だ。特に私と同じ7桁で与えられる数列は5の7乗通りなので、前後配置の組み合わせ方を考慮しても全部で2×57通りをしらみ潰しに計算すれば判明する。この1桁数字を配列へ保持して法10による剰余系で演算させれば良い。そうしてたまさか100を導く女性側の7桁数列が判明すれば…そのような数列に変換され得る姓名を持つ女性を探せば労せずしてベストカップルが誕生…するのだろうか。

充分に大人になってから何人かの女性とお付き合いしたものだが、既にこの占いで相性を…なんて考えなど全然起こらなかった。自分と非常に相性が良い異性との出会いは運命的な要素が強く、現代とて占いの如く「祈るしかない」。しかし実際に出会って事が進み始めたなら、そこから先は占いなどではなく相手を変えずに自分が変わろうとする柔軟性の問題と気付くのには相当に時間がかかったようである。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - あきすとぜねこ
なお、社会人時代でネット上のチャットが流行っていたとき「あきすとぜねこ」の亜種と思われる「アキストラゼネンコン」について教えてもらったことがある。占いについて知らないメンバーからは「『空き巣とゼネコン』って何の関係があるんだ?」という声があがった。

2.「FB|何だろう?(1)
《 イタズラ 》
学校時代においてよく行われていた暇潰しの部類である。退屈な授業において行われることが多い。個人に対するイタズラなどは現在ではいじめではと言われる内容のものも含まれる。当時でも例えば特定の学童の上履きを隠したり身体的要因に基づくあだ名をつけてからかったりなどの事例はあった。ここではあくまでも笑って済ませられる範囲のものを掲載する。
【 先生の発するネの数を数える 】
授業中、特定の教師が話す「ネ」の数をカウントすること。かなり一般的に行われていたようである。中学2年生のときに友達がある先生の発する回数が多いことを指摘したのが始まりで、自分もカウントしたことがある。数が分かりやすいようにノートの端などへ正の字を書いてカウントすることが多い。

友達の指摘によれば、中学2年生のときの理科専科の教師は特にネが多いことが分かっていた。ある授業のとき自分は気付かれることなくカウントしていたが、同じ班の級友はノートの端に分かる形で正の字を延々と書き連ねていたために露呈し、背中をブッ叩かれてしまった。しかしネの数をカウントしていたことが直接の原因と言うよりは授業中に話を聞かずノートに落書きしているとみなされたこと、服装の乱れがあったからだった。ちなみに彼は消しゴム戦争で最終兵器を提案した同一人物である。
【 黒板遊び 】
基本的に黒板へチョークで文字を書くことのできるのは先生だけであり、学童がチョークを持たせてもらえることはなかった。授業で何か問われたときも席を立って口頭で答えるのみで前へ出てチョークで何かを書くという必要がなかったからである。チョークは黒板の溝のところへ置かれていたが、学童は勝手に落書きしないよう言い聞かされていた。

子供というものは大人の真似をしたがるものである。文字を書くときとは別に、黒板に連続的な破線を描きたいときはチョークの端をつまんで押しつけ、チョーク自身が振動することで破線が描かれるテクニックがある。このときチョークから機関銃のような振動音が発生し、学童たちは一様に面白がった。そして授業が終わって先生が教室に居ないときしばしば真似をした。チョークを振動させる周期に応じて破線の間隔は密にしたり疎にしたりできることを知った。チョークから指先に伝わる振動を味わいつつキレイに破線を描く快感を愉しんだ。

不測の事態と言えば、先生が普通に黒板へ文字を書いているときにチョークの当て方や硬さに依るのだろうか、ガラスを引っ掻くような甲高い音を立てることがあった。このときの音はそのまんま「チョークで黒板を引っ掻いたような音」と表現され、背筋がゾッとするほど嫌な音の代表格である。チョークのときほどの不快感ではないが、これと似た音は爪で黒板を引っ掻くことで近いモノが再現できた。嫌がって耳を塞ごうとするのにわざと黒板に爪を立てて不快音を発生させるイジワルも結構やっていた。
この種の音は磨りガラスに爪を立てて引っ掻くことでも発生した。現在では磨りガラスなど絶滅種だが、学童期はもちろん高校時代まで教室と廊下を隔てるガラスにみられた。
【 棒ずりホッケー 】
記事作成日:2015/2/10
中学2〜3年生のとき男子生徒の間で大々的に流行ったトイレ掃除のときの遊びである。
写真は当時使われていたのと同一ブランドの洗浄剤と、ホッケーのパック代わりにされたキャップ。


中学時代の掃除は午後最後の授業が終わった後に行われ、班ごとに掃除区域が分けられていた。組によって範囲は異なるが、校舎の両端には階段とトイレがあるため、これらの掃除は隣接する組の担当だった。[1]
トイレ掃除は汚くて臭く面白くない割り当て区域と思われがちだが実際は違った。教室はすべての机や椅子を移動して床をほうきで掃いて拭く手間が要ったが、トイレの場合は稀に便器へ汚物が付着している憂うべき事態に遭遇することはあっても概して掃除量は少ない。私たちの時代には既に中学校は水洗化されていたので、ざっと目視して便器が汚れていなければ棒ずりで擦る必要もなかった。ホースを使って床に水を流し棒ずりで擦ればそれで終了である。

トイレ内が臭うときや小便器からこぼれたものでタイルが汚れていたら、消臭を兼ねて塩酸系の薬品を床に撒いて棒ずりで擦ることもあった。原液を目地に垂らすとジワーッと音を立てて泡が出るのを面白がって眺めていた。[2]この薬品はなくなったら職員室へ行って申し出れば先生が新しいものを支給してくれた。労働量が少ないのでトイレ掃除はいつも短時間で終了した。

教室に戻っても掃き掃除に拭き掃除とやることが多い教室掃除班はまだ掃除をしていた。手伝ってやれば模範的な班にもなるところだが、早々に教室へ戻ると逆に手伝わされてしまうのでトイレで掃除時間が終わるまで暇潰ししていた。トイレは廊下の端で外から見えない場所で、うるさい清掃委員の女生徒も男子トイレの中までは入って来ないので掃除をサボって遊ぶにはうってつけだった。

誰が発端かは分からないが、床を擦る棒ずりをスティック、薬品のキャップをパックに見立ててホッケーを始める者が現れた。床に転がったキャップを棒ずりで突いて別の者がそれを弾き返すことで自然発生したのだろう。始めのうちは掃除時間が終わるまでの暇潰しだったが、あまりにも面白くてやがて掃除はパスして試合に興じるようになった。
奥に向かって細長いトイレはホッケー遊びをするには手頃なサイズのフィールドだった。些かゲーム性を帯びてくると、2人一組で壁側と出入口側に分かれて試合を行った。試合にはジャッジが付いてゴール判定する本格的なお膳立てだった。試合開始時にジャッジがキャップを両エリアの中央に落とすと、双方のチームが一斉に棒ずりのブラシでキャップを弾いた。奥側のチームは壁にキャップが当たったらゴール、出入口側はキャップが廊下まで飛び出したらゴールとみなされた。

床を擦りまくる棒ずりの音だけではなく、キャップが転がり壁に当たる音がもの凄かった。時にはすっ飛んだキャップが陶器製の小便器に当たってカーンと甲高い音を立てた。フィールドの片側は小便器がいくつも並んでいて金隠し部分が出っ張っているので、そこへ当たると不規則に跳ね返った。意図的に壁や便器に充ててランダムに跳ね返ったところを押し込むという攪乱戦法もあった。もっとも小便器や大便器の中にキャップが落ちたらファールとなった。ジャッジは掃除道具の火挟みでキャップをつまみ上げ炊事場で洗ってから試合再開した。
ホッケーはもの凄くスリリングで、参加している者だけでなく見ている者まで興奮に包まれワイワイ騒ぐだけに、いくら校舎の端であろうがその声は必然的に廊下や教室にまで及んだ。騒ぎを聞きつけてお前ら面白いことやってるなーと教室掃除の者が手を休めて見物に来る盛況振りだった。

清掃委員の女生徒が見回りに来た位ではジャッジも試合を止めなかった。掃除もせず棒ずりでホッケーを楽しんでいる様子を見てさすがに唖然としていたが、先生でもないので恐れたことでもなく平然と答えていた。
清掃委員:「あんたら、何しよんかねーっ!!」
男子生徒:「イスホッケー。」[3]
しかしさすがに担任を含めて各組の先生たちが見回りに来たときにはアラートが発せられた。そういう時のために交代要員がトイレの出入口で見張っていてお約束のコールで伝えてくれた。「おい!先生が来た!」
アラートを受けるとゲームはサスペンドとなって素早くキャップを適当に隠した。そして素知らぬ顔で棒ずりで床を擦り続ける。ある者は棒ずりを壁へ立て掛けてホースで床に水を撒き始めた。ちょうどそこへ先生が視察に来たときは棒ずりを持ってせっせと床を擦る掃除熱心な男子生徒たちの姿が伝わるといった塩梅だった。

トイレ掃除せずホッケー遊びしていることが担任の耳に入ったのか、やがてトイレの薬品を使うのを止めることになった。今ある分がなくなっても支給しないこととなったので、ホッケー試合のレギュラーメンバー(?)が常備されていた薬品のうち一本をトイレの天井の一角にあった点検孔から天井裏に隠した。このため私たちは最後の一本を貴重に使い、キャップを確保してゲームを続けていた。

中学生時代は3年間通じて最後のクラス(5組)だったので、すべての学年でトイレ掃除を経験するというある意味僥倖に恵まれた。しかし中学1年生ではやった記憶がない。2年生になってやり始めて、3年生になるとトイレ掃除のとき毎日欠かさずやっていた。恐らくもう一つの端になる1組でもやっていただろう。掃除区域は週単位のローテーションだったが、何故か男子はトイレ掃除区域が回って来るのを心待ちにするという奇妙な状況だった。
班には女子も居るので女生徒たちは当然自分たちのトイレの清掃をしていた。しかし隣りの女子トイレで掃除中に騒ぐ声や物音が聞こえてきたことはなかったので、さすがに試合チームは存在しなかったようである。やはり男の子は男の子であった。
出典および編集追記:

1. 組ごとの掃除の労力を公平化するため校舎の中ほどにある組は中庭や視聴覚室といった特別教室の掃除が割り当てられていた。トイレだけでは掃除量が少ないのでトイレと階段のセットだったかも知れない。

2. 塩酸系の薬品をかけて泡が出たところを棒ずりで擦り続ければ目地はどんどん痩せてしまう。しまいにはタイルが外れる。しかし当時は先生も含めて誰もそんなことを考えもしなかったようである。

3. 塩酸系の薬品の商標名を踏まえての発言である。
【 モップちゃんばら 】
床を拭くモップは木製の柄の先に金属製のバネがついた留め金が付属していて、雑巾を挟んで固定できるようになっていた。小学校時代は直接雑巾を両手で押さえて四つ這い状態で床を拭いていたが、モップのお陰で床拭き掃除が楽になった。

このモップを使って掃除もせずちゃんばらごっこをやっていた。雑巾の留め金を押し下げて雑巾を落としたら勝ちというものである。中学3年生時代、モップちゃんばらに熱中していて留め金が外れるのではなく留め金を固定していたモップの柄が根元から折れてしまったことがある。モップは一つの教室に何本もあるので普通なら発覚しようがないところだが、あいにく掃除道具の管理はクラスの衛生委員が行っていた。
幸い衛生委員は穏やかな性格の女の子だったので、常備数チェックのときにはコッソリと隣りのクラスから1本パクッてきて数合わせと口裏合わせに協力してもらったことがある。根元から折れたモップは直しようがないので、教室の床に設置された点検用の蓋をはぐって隠した記憶がある。やがてモップの数が足りないことが発覚したが、最後までシラを切り通した。
【 教科書のページ合わせ 】
個人の教科書などに仕掛ける非破壊的なイタズラで、中学生時代にクラスの友達へ仕掛けたことがある。本人が席を外している間に社会や国語などある程度のページ数をもつ教科書を2冊選び出し、向かい合わせにしてそれぞれのページを一枚ずつ重ね合わせていく。

数十ページ程度この操作を繰り返すと紙と言えども摩擦力が大きくなって2冊を引っ張っても引き剥がせなくなる。次の授業で教科書を使いたいなら大急ぎで一枚ずつページをめくって剥がさなければならない。面白がって例えばクラスの中でカップルに仕立て上げられた男児と女子の教科書をくっつけて同じようにした悪ガキもいたと思う。
もっと大がかりにと思って級友2人の英和辞典を1ページずつ重ね合わせていたところ本人が帰ってきて露見したことがある。このときは同じイタズラするにしてもよくもまあこんな面倒くさいことをやるものだと妙に関心され呆れられた。
【 個人の持ち物への落書き 】
良い子で通っていたので学童期は他の子にしたことはないが、自分の持ち物に対しては何度もされている。卒業文集に掲載した自分の似顔絵を彫った版画板に水彩絵の具で落書きされている。もっとも内容的には他愛ないもので今となっては当時の流行言葉を知るある意味一つの資料ともなっている。
【 学校の備品への加工 】
小学3〜4年生頃まで机は木製で2人分が横にくっついた形をしていた。上部は木製の蓋があって手前に引き揚げることで中に入れた教科書やノートを取り出すタイプだった。私たちが使い始めた頃から既に相当古く、無数の傷や落書きがあった。特に図工で彫刻刀を使うせいか彫刻刀で名前が彫られた机があった。また、彫刻刀セットの中には錐が付属していてそれを使って穴を空けようとした跡の机もあった。授業中暇なときその穴に棒を差し込んで回して続きを掘ろうとしたり、逆に消しゴムカスを詰め込んで埋めようとしていた。
【 カンニング 】
個人的には小学生時代は記憶がない。一時的に特定の科目で点数をあげても先生は理解度を概ね知っているからバレると考えていた。他の学童でもそういう話は聞いたことがない。
テストで出題されることが確実そうだけど似た項目があって覚えにくい項目は、机にそっと鉛筆で書いたり位はしたかも知れない。その他に鉛筆の木肌の部分や消しゴムの表面に別の鉛筆で書き、用が済んだら鉛筆は筆箱に仕舞い込み、消しゴムは文字の描かれた面をこすって証拠隠滅なんてことはやったかも知れないとは思う。もっとも大抵は苦労してメモしてもその部分はテストに出題されず無駄骨だった。
【 バナナモミモミ 】
給食におけるイタズラの最たるものの一つ。知名度は高くないと言うか級友グループで考え出したイタズラである。

給食でバナナが配られたとき、本人が席を外している最中に思いっきりバナナを外側から捏ねくり回し揉みほぐしておく。すると外側の皮は原形を保っていながら中身は殆どペースト状になる。給食が始まりいざ本人がバナナの皮を剥こうとした途端に中身がデレーッと流れ出る…それを見てワハハと笑うといったものである。やや悪辣な部類のイタズラなので、一人につき一度くらいしかやらなかった。
《 替え歌・流行り言葉 》
替え歌や悪口の部類の殆どが学童期時代による。特に音楽の授業で習う著名な文部省唱歌の歌詞をわざと悪いものに置き換えたり、口調の良いものに改造することは普通に行われていた。特段の節回しはないが内容や歌詞は一定していて悔し紛れに発したり悪口や罵詈雑言の部類として投げつけられるものもある。中には特定の職業や人々を中傷することになりかねない内容のものもあった。ここでは歴史的観点を重視し、現代ならいじめや社会問題といった大仰なものに繋がりかねないものもそのまま収録している。出典のないものや第三者による同様の経験を指摘した情報を欠くうちは、それらの項目は単なる独自研究の部類で有り得る。著作権のある歌やその歌詞をもじった歌の掲載には問題があるかも知れないが、記録の継承を重視しここでは略さずすべての歌詞を記載している。
【 ソーダ会社のソーダーさん 】
非常に有名な悪口ないしは軽口の部類で、一定年齢の世代であれば殆ど間違いなく知っているであろう。歌詞の内容や歌い方には地域によって揺らぎがあるものの節回しや音階はほぼ同じである。私自身および周辺の学童が唱えていたものは概ね以下の通りである。
〽ソーダー会社のソーダーさんが、
ソーダー飲んで、死んだーソーダー、
葬式まんじゅう、美味しいソーダー
宇部に於いてソーダと言えばかつての宇部曹達(現在のセントラル硝子(株))を指すことに他ならない。ただし私たちがこの軽口を知った当時でも、親が曹達会社に勤務している子どもへの悪口として使う事例は聞いたことがなかった。特別な意味もなく単に口調が良いということで子どもから子どもへ語り継がれる形で遺っていったと考えられる。

なお興味深いことに、同様の歌詞による軽口は宇部のみならず全国で石油化学工業の盛んな都市部でも観測されている。例えば四日市において同種の歌を歌っていたという報告がある。[1]
歌詞は適当に変形されて伝播しているようである。
【 瀬戸の花嫁の替え歌 】
特定の歌を題材にした替え歌でもっとも長く流行っていたものの一つ。口調が良く内容の面白さもあってかなりよく知られている。どんな具合に歌われるかは以下の数小節だけで理解できるだろう。
〽瀬戸ワンタンめん、日暮れ天丼、夕波小な味噌ラーメン、
あなたの島エビフライ、お嫁に行く海苔玉…(以下略)
要は各音節の最後の音を第一音に持つ食品名を続けて唱えて歌うというものである。細かなところでバリエーションがあるか最初の二小節部分はほぼ上の通りで固定していて地域性はあまりないだろう。

流行ったのは時期的にみて私が小学4年生のときのことである。口調が良いので折りに触れて子どもたちをはじめとして好んで歌われた。瀬戸の花嫁自体の知名度は低くはないが、現在では元歌自体が殆ど歌われることがないために唱えられることはまずない。ただし現代の中高年は殆どが知っていると思われる。自然発生的であり最初に誰が唱えたかは分からないが、もしかすると他テレビ番組の影響も有り得る。
【 運動会のときの応援歌 】
項目記述日:2017/6/17
主に小学校の運動会、あるいは大勢が集まって行う試合などでも歌われていた応援歌がある。元歌が何であったかは思い出せない。
〽八幡様に願かけて 御神籤引いてみたならば
いーつも 紅組 かーち、かーち、勝っち勝ち
かなり知名度の高いものであり、この歌詞には地域により多くのバリエーションがある。冒頭では八幡様を例に挙げたが、ここは歌われる地区の鎮守の神様や神社名に置き換えられ、紅組の部分も地区対抗合戦の場合は地元チーム名などに読み替えられる。[2]しかし「おみくじ引いてみたならば」や「勝ち」の連呼の部分、節回しは概ね何処も一定である。勝ち連呼の後にオー!と叫び、三三七拍子が加わることが多い。小学校中学年あたりまでは聞いていたが、中学生時代には耳にした記憶がない。また、現代の応援歌として歌われているかは調査を要する。
【 乗り換え歌 】
まったく異なる複数の歌の節回しが似ているために、無意識ないしはわざと元の節回しのまま別の歌へ移行してしまう現象をここでは「乗り換え歌」現象と呼ぶことにする。この呼称自体は説明用の後付けである。
小学6年生の音楽の時間に「ひゅるるじんじん空っ風」が紹介され、授業で歌った。その節回しが当時日本生命で歌われていた著名なCMのテーマ曲に非常に似ていた。前者は「赤城降ろしの笛が鳴る、ひゅるるじんじん空っ風…」で、後者は「ルールルルー…(略)… 日生のおばちゃん今日もまた…」となる。そこでこの場合はわざと「赤城降ろしの笛が鳴る〜、ひゅるるじんじん空っ風〜、日生のおばちゃん今日もまた〜」と歌うのが流行った。ちなみに列車が国境の長いトンネルを抜けて雪一色の景色となる小説「雪国」を彷彿とさせる日生のCMは当時好感度トップクラスで知っている人は多い。

同種の「乗り換え歌」としては童謡「カラス」と「もみじ」の類似性から「もーみーじー、何故鳴くのー?」も結構歌われた。この場合はもみじの最初の部分「あ〜きの(秋の)夕陽に〜」の3音節部分と「か〜ら〜すー」の3音節の類似性を突いたものである。
この他、子どもの文化からは離れるが文部省唱歌など以外でもこういった類似する歌を指摘した例として「知床旅情」と「早春賦」の最初のフレーズが極めてよく似ていることは学童期に気づいていた。
また、演歌では実に多くの曲が作り出されているが故にサビや歌い出しの部分が酷似する歌がいくつかある。それらをカラオケのときわざと指摘して混乱させることを結構やっていた。
出典および編集追記:

1.「Yahoo!知恵袋 - ソーダーさん」検索結果。

2.「わが里の故きを温ねて」(平山智昭)p.63 では戦後期の運動会の応援歌として歌われていた例が記述されている。
《 悪態・流行り言葉 》
ここでは、歌のようにまとまった音階の推移を伴わない言葉や悪口の類を収録する。悪態の中には短いながらも一定の抑揚を伴い歌うように唱えるものも存在する。
【 馬鹿が見る豚のケツ 】
甚だお行儀の悪い言葉だが、実際そのような場面で人をからかうのに使われた。愚直な学童をからかうとき、最初にまず空の一点を指差してこのように唱える。「おいっ!あそこに何かあるぞ!」この場合の台詞は一定しておらず単純に「あれを見ろよ!」と短く促すこともある。
そうしてからかわれた学童が指差した方を眺めるが、もちろん何もない。そして相手が何もないじゃないかと反論するより先にお約束の「馬鹿が見る豚のケツ」と唱えるのである。この唱え方はやや音程・イントネーションをつけるように「〽馬鹿がみぃーるぅー、ブタのけぇーつぅー」で一定している。

誰が言い出したのかはもちろん分からない。ただし何度も言っているとしまいには何を言ってもアイツは嘘ばっかりだと仲間から信用されなくなるという制裁があるので、同じ相手には一日に精々一度であった。それも前後の脈絡もなく唱えるのではなく、例えば何か相手の知らないうちにイタズラを仕掛けたいときなど一時的に相手の注意を余所へ向ける目的でも唱えられた。指差して視線が逸れている間にサッと椅子の下にオナラ音の出るクッションを敷くとか、机の中に怪しいものをサッと忍ばせるなどである。しかしこの言葉を聞いたのも小学校中学年あたりまでだった。言葉のバリエーションはあるかも知れない。知名度は割とある筈だ。
【 いつ言った?いつ?何処で?何時何分何秒? 】
これは単なる流行言葉や口癖の部類である。表題だけでも何を意味するか理解できた読者もあるだろうか。
約束していないことや自分が発言していないのが明らかな言葉を誰かから言ったことにさせられたとき、すかさず唱えるお約束の言葉であった。したがってこの言葉は一対一で何かの言い合いになっているときに出現しやすい。状況としては例えば、
A:「そんなこと(俺は)言ってない!」
B:「いいや!お前確かに言うた!」
A:「絶対、神に誓って言ってない!」
B:「お前がそう言うの一緒に聞いた奴もおったぞ!」
A:「じゃあいつ言うた?いつ?何処で?何時何分何秒?」
といった塩梅である。

むろんその発言を過去のいつにしたかを時分秒単位で正確に答えられるわけがない。したがってここでは相手に正確に答えることを求めているのではなく、むしろ相手が即答できないような問いを投げかけて反論を押さえ込み絶対に言っていないなどと強く否定したいときに出てくる表現だった。
これに対する相手の反応と言っても答えようもないことであり、大抵はうやむやになったまま片付いてしまうのが普通である。精々、小学校中学年あたりまでであり、高学年では殆ど唱えられるのを聞いたこともない。まして中学生ではこのような言い方は証拠も何もない幼稚な言いがかりとみなされるのがオチだった。
【 つけびん 】
記事作成日:2015/2/5
最終編集日:2018/6/27
ご存じな方ならこの一種独特なキーワードだけで何のことか気付くことだろう。
これは暇潰しや遊びと言うよりはからかいやいじめの部類である。現代社会だったら恐らく容認されない陰湿ないじめと捉えられかねないのだが、学童の世界は大人が想像するよりも冷酷である。

汚いもの、嫌いな人には触れたくないというのは子どもに限定されない発想である。そして学童の発想として汚いものに触れたらその物に汚染され、その状態は他の人に触れることで菌の如く伝染すると考えられていた。例えば汚い雑巾を知らずに触ってしまった級友が居たとしよう。実際に汚れるのは現物に触った本人の手なのだが、その状態を知ってしまった他の級友は触られると自分が汚染されるので触るなという明確な意思表明をする。このとき発せられる初期の伝統的な言葉は「鍵締めた」であった。即ち相手に触られる前に両手の親指と人差し指で輪を作り、それを繋ぎ合わせて鎖の如く形を作る。これは南京錠をモチーフとした動作である。もっともそうしたからと言っていくらでもタッチすることは可能なのだが、鍵締めたの動作を行った級友にはタッチできない(してはならない)という暗黙の了解があった。

ここから更に発展し、わざと汚いものや気持ち悪いものを見たときにそれを誰かに移し汚染させるという遊戯が自然発生した。即ち対象となるものを触ったとき、その手で誰かの腕や服になすりつける動作を行った後で「着けた!鍵締めた!」と宣言するのである。最初に触れた者を含めて誰かに移せば本人は「汚染状態」から解放されることになっているので、着けられたら即座に周囲でまだ宣言していない級友を見つけて移そうとする。ときには移されまいと素早く身をかわしつつ鍵締めた宣言することもある。そうなれば最後に誰かへ移すことができなかった者だけが汚染された状態とみなされる。

もっともわざとそういう対象に触れて他の者に移しておきながら自分は鍵締めた宣言する行為は結構腹立たしいものがある故に、鍵締めた宣言を無視して相手に触れて自分の汚染状態を解除しようと試みる場合が頻繁にあった。そこで相手へ移した後や移される前に自分の防御状態を特に明確に主張する手段として「バリアー」と宣言することが多くなった。両手を自分の頭上にかざし、左右の手をサッと両脇まで下ろして自分の前にドーム状のバリアを描く。これはアニメからの想起で、あらゆるものを跳ね返す存在である。それでもやはり物理的に相手へタッチできてしまうことに変わりはなかった。そこで鍵締めた宣言やバリアー宣言をしているのになおも移そうとする行為に対抗するために、もし触ったら厳しいお仕置きを加えるぞという制裁つきの宣言が誕生した。これが「つけびん」である。

「つけびん」とは「着けたらビンタで張り倒す」を意味する短縮語である。ただし自分の汚染状態を故意に他の者へ移した後に宣言されることは(さすがにいじめに繋がると認識されたからか)稀で、多くは誰かが超汚いものにうっかり触れてしまったときの防御宣言として使われた。仕草や宣言の仕方は概ね同じだが、正式には鍵締めたと同じポーズを取った上で「つけびん、つけびん、つけびん!」と素早く3回繰り返して唱えるものとされる。

実際に汚染状態が人から人へウィルスの如く伝染する状態が有り得ないことは学童期の自分たちでも既に知っていたので、儀礼的な宣言および遊びの部類だった。しかし状況によっては自分一人が汚染状態とみなされ他の級友大多数がつけびん宣言を終えている状態は孤立感を味わわせるに足り、酷い場合には孤立状態にされた子が泣いてしまう場合もあった。
どのクラスでも大抵嫌われている子どもが概ね存在する。特に女児の場合、強く言い返せないのを知ったがために本人自身を汚染状態と決めつけて本人のカバンやノートに至るまで、誰かが触ってつけびん宣言することは実際にあった。明白ないじめであり、クラス担任はそのような状況を見聞したときには厳しく叱った。しかしつけびんの浸透は根強いものがあり、小学校を卒業するときまで普通にやっていたと思う。

自分は仲の良い友達同士限定で遊戯的要素を込めてやっていた。しかし事実としてクラスには嫌われ疎まれていた女児が存在していてしばしばつけびんのターゲットにされていた。誰か先導的につけびん攻撃する男児が居ると、周囲の級友はどう振る舞うかで仲間かそうでないかを決められる傾向があった。明白に女児をかばわなくてもつけびんに参加しないだけで女児寄りの態度とみなされ、アイツが好きなのかと問われたりつけびんに参加した仲間から外される場合があった。概ねクラスの女の子はつけびんをはしたない迷信と考えていたようで、殆ど相手にしていなかった。逆に女児へつけびん攻撃を加える男児は非難される対象となり、どちらかと言えば男の子の間でも煙たがられた。

中学生にあがったとき一部の学童がつけびんを唱えることが稀にあったが、しかし中学生と小学生の間にある意識の差は歴然としていて、小学校のときやっていた多くのことが幼稚だとみなされ、皆がしないことを小学校の延長のようにしている学童は幼稚者扱いされた。このため中学校時代はつけびんはまったく観測されなくなった。この理由として、同じ中学校には他の小学校出身学童もあり、自分たちの居た学校内のみで特に流行っていたために他校の生徒が入ってきたことでしきたりとして薄れたというのも考えられる。

このまったく下品な虐め同然の遊びの由来が何処かは分からない。他の多くの所作と同様、上の学年の学童が行っていたものが深く考えることなしに継承された可能性が強い。穢れといった概念が伝染病のように移転していくという考えは触穢思想に相通じるものがある。[1]触穢は現代社会ではほぼ廃れているように見えて、年賀状の挨拶欠礼の案内など慣習化して一部に残っているものもあると言える。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 触穢
【 反対言葉 】
小学校高学年から中学生次代にかけて、自分と兄貴および従兄弟や一部の友達を巻き込んで狭い範囲で流行らせた言葉遊び。通常の会話で反意語があるものはことごとく置き換えて話す。これから反対言葉で会話を始めようと言い始め、相手が「うん」と応じるときの展開はほぼ次の通りの定型句となる。
「反対言葉、言うまーやー」
「うんにゃ」
このように反対語があるものを可能な限り置き換える。したがって上記の会話のように意味の上では反対にはなっていない場合もある。この辺りの運用の曖昧さは子どもなりのものだった。
学校では幼稚と思われるのを避けたかったからか話した記憶が殆どない。むしろ中学校時代に入ってからの従兄弟との会話が多かった。よほど気に入っていたのか中学1年生の夏休みに従兄弟の家へ遊びに行ったときのことを反対言葉で日記に記録している。また、自宅でも兄貴との会話で用いていた時期があった。
反対の意味になる言葉の選び方や文脈によってはかなり笑える滑稽なものが自然発生することがあり、そういった非日常的体験もモチベーションになっていた。爆笑を呼んだことのある印象的なフレーズとして以下のようなものがある。前が元々の言葉で後ろが反対言葉。
「お前はどう思う?」「俺、どう思わん?」
反対言葉の言いだし時期は分からないが、元ネタは恐らく漫画どらエモンに依ると思われる。のび太がそのような会話を繰り広げるシーンが雑誌の連載か何かであったと思う。
どらエモンの話ついでだが、掲載されていたのは小学館の小学4年生版あたりだったと思う。これにはどらエモンに関して些か伝説的な最終回が配信され、自分も読んだ記憶がある。どらエモンが書き置きを遺してのび太の部屋にある机の引き出しに潜り込んでそのまま帰って来ないシーンは幼少期の自分なりにも衝撃的だった。
【 短縮言葉 】
前項の反対言葉がドラえもんに端を発すると思われることに対し、この短縮言葉は純粋にオリジナルである。発生時期は反対言葉よりもずっと時代を下り、私が高校生だった時期から後である。
反対言葉の変換ルールが曖昧なのに対し、短縮言葉は非常に単純明快である。即ちすべての言葉において同じ音が2つ以上重なるものは1つに切り詰めるというものであった。短縮条件は実際にしゃべる過程で重なれば足り、主語述語および品詞などはまったく関係ない。例えばバナナは「バナ」となり、「体育」は「たいく」となる。特に後者の体育は会話言葉ではしばしばそのように話されがちであるが、そのルールを極端に拡張したものが短縮言葉である。

専ら会話に使うものなので書き言葉として現れることはない。その会話というのも私と兄貴との間に限定される。どちらが先に言い始めたかは分からないが、兄貴も面白がって使っていた時期がある。その理由付けとして「一語でも言葉を減らして労力を減らす」という訳の分からないものがあった。

日常の会話で同じ音が2連続する事例は結構あり、話す前にそのすべてに意識を向けて1つに切り詰めるのは(上記の意図に反して)むしろかなり労力が要った。短縮言葉による会話は親も知るところであり、親父などは明確に「くだらず」と呼んで非難していた。それにも関わらず話し続けていたのは、切り詰められた結果滑稽な言葉になったり、まるっきり別の意味の文脈を産み出す効果が笑いのタネになったからである。テレビの報道やテロップなどから題材を見つけ、素早く短縮言葉に変換する競技めいた状況もあった。
短縮変換によってまるっきり別の意味になる滑稽な作品はしばしばノートに記録された。このため初期の”作品”が現在も再現される。いくつか例を挙げる。
「同じ事務所仲間です」「同じムショ仲間です」
「サッと溶ける」「サッと蹴る」
道々坂の途中にある滝で幼少期転落した事件を話すとき、兄貴はその場所について「お前の落ちた木(落ちた滝)」と表現していた。

短縮言葉は子どもの遊びとして忘れ去られたのではなく、実は現在もときおり使われている。2015年の夏に永眠した飼い犬の「モモ」に話題が及んだとき、たまに本人(本犬?)に向かって「モ!」と呼んでいた。
また、同年9月の連休にはFBメンバーによる恒例のかるた大会が予定されている。アジトのカレンダーには開催日のところに「かるたいかい」と記載されている。
【 言葉捩り 】
よく知られる商標や商品名、標語、歌詞などの一部を捩ってわざと悪い意味に仕立て上げること。語調が似ていて置き換えた語数が少なく、それでいて意味がまったく変わってしまうものが上出来とされた。以下、青色が元々の言葉、赤文字が捩られた作品である。

高校三年生の大学受験期を控えた時期に流行った捩り言葉。元ネタは文化祭のイメージフレーズだった。
「今、青春。きらめきの一秒。」「今、青春。あきらめの一秒。」
中学2〜3年生に上がって各専門教科の教諭が決まってからのことだったろうか。クラスで専科の教諭紹介のようなものをクラスだよりで学習班が作成した。その中で穏やかな感じのするある専科の教諭を「おおらかな性格」として紹介する文面があった。「おおらか」は中学2年生にはやや難しい語で充分に分かっていなかったのだろう。クラスだよりでは「おおかな性格」と記載されていた。これを指してクラスの誰かが言った。
「おおろかな性格。」「おろかな性格。」
言葉捩りは学童や学生のみならず、軽い雑談の過程で顧問教師の軽口などでも聞かれた。以下の言葉捩りは中学生時代のバスケット顧問教師から聞いた内容である。
「UCLAとは何の略か?」「ウスラ馬鹿。」
これは名門校に対する誹謗を意図したのではなく、当時スポーツバッグや帽子などのアイテムにUCLAブランド入りのものが流行っていたことによる。課外クラブの顧問教師が男子生徒の保有するスポーツバッグにデザインされたUCLAの文字が何を意味するか、何の略称か知っているかと問いかけて生徒が答えられなかったところを教師が茶化して答えたものだった。UCLAはよく知られるブランドだからこの種の捩りは地域性に関係なく存在するだろう。

何かの意味を持つアルファベットの略字を別の(しばしば悪い)意味に置き換えるものは他にもいくつかあり、例えば次のようなものはかなり知名度が高い。
「VSOPとは何の略か?」「Very Special One Pattern.」
元々はブランデーの等級を意味するもの[1]で、国内産ブランデーがよく飲まれていた時期と重なる。如何にも褒めそやすように見せかけて実際の意味は「まったく聞き飽きたワン・パターンな台詞」で、使い古された駄洒落を言ったりバレバレなイタズラを仕掛ける人を揶揄する意味で使っていた。英語をある程度使えるようになった中学期のことで、高校時代もたまに耳にした。
出典および編集追記:

1. 元来の意味は Very Superior Old Pale である。

ホームに戻る