新川市祭り

祭りインデックスに戻る

記事作成日:2017/7/23
最終編集日:2020/10/29
情報この記事は現在編集作業中です。記事作成日当時の古い内容が残っており、公開水準に達していません。

新川市(しんかわいち)祭りとは宇部市にて開催される代表的な祭りの一つで、現在の宇部市街部において最も古くからの歴史を持つ。
毎年5月上旬に開催される。その名の通りかつての間占川(宇部本川)を樋ノ口から海に向かって直線的に掘削することで河川改修と氾濫を防いだ新川という新しい経路構築を祝い、市が立っていたものの継承である。この記事を書く現在では年齢層を問わず楽しめる近代的なものとなっているが、私が学童期に関わりをもった祭りは些か異なっていた。
近年は新川祭りとしての色彩はやや薄れている。これは後述するように5日子どもの日に合わせて「子どもまつり」と称した子ども向けイベントを増強した結果であり、新川祭りとしての観客動員数として考えるには議論の分かれるところであるが、そもそも市民も含めて多くの人々が繰り出してこその祭りであり、新しいイベントの愉しみ方という捉え方があって良いとする意見も多い。
【 昭和中後期の新川まつり 】
昭和中期まではまだ現在の市街地に比較的近い地域でも農耕が営まれていたので、祭りとは言っても農耕関連を主体とする出店で占められていた。現在の常盤通りの上下線歩道部および側道部に並んでいたのは植木、農機具、肥料、鉢植え用資材などであった。時代背景としては少しずつ核家族化が進み、結婚を機に独立して家を構える家庭が増え始めていた。我が家も恩田へ越した直後は庭木がまったくないので、新川まつりで樹木の苗や鉢を観に行き買っている。
祭りがあれば子どもは興味を示し行ってみるのが常である。しかし新川祭りは農機具祭りとも言えるような状況で子ども向けの出店は非常に少なかった。子どもは菓子やおもちゃには興味を示すものの苗木や農機具を観て回る親についていって面白い筈がない。人混みの中を歩き回って疲れるだけで、しまいにはジラが出て歩きたくないなどと言い出すものだった。子どもなりに学習するもので、小学校高学年になる頃には行かなくなった。

現在は5月の上旬がゴールデンウィークと目され祭りに参加しやすい日程を組めること、特にこどもの日が含まれるということで農機具主体の大人向けの祭りから一転して子ども重視の祭りに変遷してきている。昔は子どもの数が多く遊ぶに困ることがないので格別に子ども向けの祭りを演出する理由がなかったこと、当時はみどりの日や振替休日といった制度がなく土曜日は学校が半日授業でゴールデンウィークという概念自体が殆どなかったのも理由だろう。[1]
【 現代の新川祭り 】
参加型祭りへの志向と子どもの日が重なることから、新川祭りは既に子どもを愉しませる祭りという色彩が濃くなっている。特にシンボルロードと新天町アーケード街は子ども向けイベントを集約させている。シンボルロード側は商工会議所をはじめ消防署、保健所など公的機関主導のイベントが多く、新天町アーケード街はうべネットワークを中核として結びついた市民団体の主催する出店が集うようになった。一連の変遷がいつ頃の祭りから始まったのかは調べておらず分からない。
新天町アーケード街の子ども祭りには2013年までうべ地域SNS研究会として出店していたため、運営システムや実情について把握している。同様の出店は宇部まつりにおいても行われている。

本祭は宇部まつりでありながら、新川祭りの中核である子ども祭りへの参加者は本祭をはるかに上回る。これには子ども祭りの実施にあたって各所に案内チラシを置くのみならず市内全校の小中学校にチラシを配布していたことが大きい。これは単に告知の役割を果たすだけでなく、チラシにはチケットが添付されていて出店でも渡されるチケットと合わせて一定枚数溜めると抽選に参加できるシステムになっていた。現在では学校関係に置くことが認められる告知用のパンフは内容審査が厳密で、市内の学童において重要な情報源となっていた。ただしチラシの印刷数は膨大で、会計報告において非常な負担となっていることが指摘された2014年度からはチラシ配布は取りやめになっている。2015年度においては晴天に恵まれた割には子どもの参加がやや少なくなったのではという指摘もあり、チラシ配布中止の影響かも知れない。
【 2015年 】
FBタイムラインによる宇部祭りの回顧。(要ログイン)
外部サイト: FBページ|昔の新川市祭りについて
FB運営ページによる宇部祭りの報告。(要ログイン)
外部サイト: FBページ|2015/5/5の投稿
【 2016年 】
出典および編集追記:

1. ゴールデンウィークという語で呼ばれ始めたのは昭和後期ないしは平成期に入ってからのことである。5月3日と5日は比較的早期に祝日だったが、昭和後期までは祝日と日曜日が重なっても振替休日の制度自体がなく4日は平成初期まで平日だった。このため日曜日がぴったり4日に入らなければ3連休にすらならず、多くの場合は暦をそのまま反映して「5月の飛び石連休」などと呼んでいた。