語録【詳細解説】

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記事作成日:2016/9/26
最終編集日:2018/12/26
当初、語録を作成したときはそのまま解説をつけていた。しかし本来語録は読み手に自由な解釈に任せるものなので、一つずつ解説を付けるのは野暮である。そこで特に必要と感じたときだけ参照できるように別ページに分割した。
《 自分で思いついた語録 》
【 信条 】
a1. 時期不定。永らくYahoo!ブログのプロフィール欄に書いていた。離れた位置からもう一人の自分が監視していて「そんな(考えや振る舞いをする)自分なんて嫌だと自覚される状態を放置するな」と諫める状況を仮定して自己修正を図ろうとしているのである。

a2. 労働に貴賤なしと言うが、対価を得ることだけがモチベーションにあり、他に何も期待することなく生活習慣や立場上惰性で仕方なくやっているような仕事は有限長な人生において壮大な時間の無駄である。

a3. 髪を伸ばしポニーテールを結っている自分をカミングアウトしたときの外部ブログ記事「Amebaブログ|ポニテにしてみたに記述がある。傍目にも殆ど無意味に思えることですら、何かをやりたいと感じてその通りに実行できることの精神衛生上メリットを述べている。

a4. かなり大風呂敷的な語録で「意味がない」は言い過ぎだろう。他人のしてきたことをそのまま模倣して成果をあげることも洞察力の正しさを裏付ける評価に値するが、クリエイティヴであるとか開拓者精神に関してはおよそ無関係である。テーマ踏査活動を始めて程なくして意識されたキーワード群であり、その後他の何事にも通じることに気がついた。

a5. 語調最優先の典型的な語録。前者は古典的な言い習わしであるにせよ、後半部分は真実ではない。ネットに恥を書き捨ててはならず修正が必要である。更には後から修正不可能な場に安易な投稿を行うべきではないとも考えている。後半部分が真実味を持つのは、誤りであることが後から判明するのを極度に恐れて発言が鈍ることへの批判程度だろう。

a6. ここで言う野ウサギとは当然ながら限定的に使っている野ウサギのばにらを意味する。現代社会へ順応はするものの容易に飼い慣わされない抵抗的存在を示唆する。

a7. 吉部の大岩郷と厚東川の夫婦岩を訪れたときふと浮かんだ語録。世間で人の波に洗われていれば人は自然と(性格的に)丸くなることを意図する。また一事を成し遂げようと当初の尖った気持ちを持ち続け貫くことの困難をも示唆する。「転がる岩に苔はつかない」の類似版。

a8. 思考実験の末に自分なりに導き出した最もコンパクトと考えられる世界観。「意識の超難問」に関する思考実験においての結果である。この考えに依れば、現にその場で観測したり対象物を別の場所に居て思い浮かべたりしているのでなければ、すべての場所はその人にとって「世界の外側にある」とする。「観測されないものを世界の外側とする」と定義づけているので、世界の外側にあるものの状態は観測者にとって決して知り得ない情報である。
【 社会人以前 】
b1. 小学校の運動会で校長先生が壇上に上がり一例して「開会式を終わります」「閉会式を始めます」と言う台詞から連想された。

b2. カセットテープが唯一の音楽録音手段だった当時は、右側に残っている巻かれたテープの厚みから録音可能時間を推測していた。しかし最後の方になるとローラーが早く回転するので推測が難しいことを経験的に知っていた。

b3. 恐らく平成初期の学生時代には認識されていた概念。個人的な技術習得から異種文化の受け入れまで幅広く当てはまることに気づいていた。
即ち新しい技術を見聞きし(遭遇)それを取り入れたいと思う場合に行う最初の行為はかならず真似(模倣)である。その技術や文化を消化するうちに「もっと良いやり方があるのでは」「ここは変えていった方が良いと思う」という別の見方(批判)を行い、当初の文化と新しく得られた知見を統合して更に上位のものを造り上げる(発展)のである。いわゆる異なった2種の概念のコラボレーションにも相通じるものがあり、現在でも創造的な発想を進める上での必須概念と位置づけている。
【 実生活 】
c1. 独り暮らしを始めて家事の雑多さと実感した上で生まれた語録。一つ一つは短時間で出来る家事も絶対量が多いと生活時間を圧迫するようになる。昭和な時代を生きた夫婦は「男性が外で稼ぎ女性は家を護る」の役割分担が完全に確立されていたが、仕事を辞めて家に入ってもなお諸々の家事をあてにして自分は何もしない男性への批判でもある。

c2. 何故髪を長く伸ばし女性のようにポニーテールをしているのかについて問われたときの回答。

c3.「これが駄目ならあれがある」を持つことの重要性。「押しても駄目なら引いてみな」が有効なのは押すことも引くことも可能であるという前提条件の下に成り立つ。

c4.愉しんでいる最中に起きた問題は後で議論する。何であれ祝福ムードにあるときに水を差すべきではないことを言っている。

c5.誕生日を迎えて一人で詠んだ回顧文。FBのタイムラインに掲載し、塾長が詩人の要素が芽生えてきたと評している。体験の蓄積によって現在の自分があるのは明らかにしても、あまりにも多くの経験が思い出される状況に「他人の人生のようだ」と感じる部分が本質である。
【 テーマ踏査関連 】
d1. いつ何度来ても同様の感動や驚きを感じることは可能だが、初めてのとき程に大きくはない。二度目以降は「前に一度来たことがある地」となってしまう。「教える教育はあるが引き剥がす教育は不可能」であることと本質的に同じ。

d2. 最後の一節はそれまでの主張と矛盾しているが、この場合の別の視点とは「どちらも漢字表記が線対称である」ことを言っている。

d3. 大人になった後に幼児の思考形式を取り戻せる人が皆無になれば児童文化は死滅する。傍目に幼稚とみなされがちな思考形式や行動の正当性および必要性について言及している。

d4. この典型例として、既知の物なのに周囲の状況変化で存在理由が不明瞭になっているモノを「トマソン」と呼び習わし始めた事例が挙げられる。呼称を与えられることで共通のものを説明しやすくなるし、類似概念を理解する上でも見通しが良くなる。数学における代数定義にも似るものがある。空き地など至る所にコンクリートの円筒柱を見つけ、その用途も分からないまま現物を説明するのに適切な用語がなく苦労した実体験による。

d5. 端的に言えば観察者に関わってきた時間の長さや重要度、そして生命体であるか否かの差に起因する。生命を持つものであっても観察者にとって大事な対象だけが重視され、そうでない対象は軽視される。生命を持たない対象など言わずもがなであるのだが、これは現代人以前の人々が造り上げてきた非生命体に命を吹き込み大切に扱ってきた慣習の完全否定であることに気づかなければいけない。

d6. 具体的には(些か名指しの批判にならざるを得ないのだが)沖ノ山電車竪坑石垣がそれに当たる。登録有形文化財であるが、宇部興産(株)の敷地内にあり一般に公開されず現地の何らの写真も一切公開されていない。小野田セメントにある徳利窯では工場敷地内にありながら一般来訪者が見学可能なように通路が確保されているのとは対照的であり、このような遺構の展示状況と文化財指定の在り方に疑問を呈するものである。

d7. 野山で親父が畑を耕していて一枚の寛永通宝が発見されたことを受けて。野外彫刻展示場工事のとき掘削土から昭和37年の50円硬貨を見つけて。本来あるべき場所から数キロメートル離れたまったく無関係な山陽小野田市本山のある場所で欠けていた真締川大橋の親柱のうちの1つを見つけて。いずれも確率からすれば「殆どゼロに近いと言っていい程のオーダー」である。それらは実際に起きたという事実のみが存在し、何故それが起きたのかの説明がまったくつかない。

d8.以前から意識されていたことだが、FBページで銀天街にあるお店を取材したときのことを間接的に示唆する投稿を行った折に初めて言及された。当該投稿でも私は殆ど全く知らないながら昔を知る人が多数あることが分かる。
【 現代社会批判 】
e1. 会話と書き言葉との相違、ネット上のみで人を判断する誤謬への警告を意味する。

e2. 初めて「ゼロ価値情報」について言及した語録であり、語録それ自体はそれほど重要ではない。ここでのネット上での挨拶言葉とは言うまでもなくFacebookでの挨拶を表す。ゼロ価値情報は文字通り無関係な人には何の情報も与えないし、提出のされ方によっては他のメンバーには負の価値すら与え得る。しかしこれは挨拶をする人が悪いのではなく単純にFBの仕様の問題である。

e3. 優しさは誰に対してもどんな場合でも必要なことに言及している。無関心は優しさ以上に手厳しい。ただしこの場合の優しさは相手の状況に応じたものであり、常にちやほやすることを意味するのではない。

e4. ある非常識な行為が発覚したときの最初の言い訳が「前からやっている(からいいだろう)」という正当化。以前からやっているからと追認した訳ではないと諫めればしぶしぶその非常識を認めた上で「ちょっと位いいだろう」という譲歩要求。更にそれがちょっとではなく頻繁に行われ遂には常態化した後に「ちょっとだけではなかったのか?」という批判に対する最後の逃げが「他の人もやっている(からいいだろう)」という論理推移である。他の人がしているから正当とはとても言えないのだが、更にこの後へ「そもそもルール(道徳や法律など)自体がおかしい」と続くことも。

e5. 情報遮断能力とも。最初期は取捨選択で対応できたが、今ほど情報洪水な社会なら自分にとって要らない情報は最初から遮断することが肝要である。無用に多すぎる情報は判断の目を曇らせる。

e6. 内容的には海に面した広大な社有地をもつ企業への批判だが、一般論として殆ど問題回避のみを目的とした公有地への安易な立入禁止標識への非難を示している。現実問題としては、部外者による立ち入りで事故が起きれば行政が批判されるため先回りして標識を出さざるを得ない現状がある。他方、立入禁止の掲示のせいで未だに充分な調査が行えていない箇所が無数に存在する。

e7. タバコは無条件に、パチンコは遊戯性というよりもその違法な賭博性の放任を批判するものである。ボクシングについては個人的な意見ではあるが、継続すれば脳に悪影響が出ることが明らかでありスポーツとして容認しない。決闘が法で規制されるのと同程度であると考える。

e8. 典型的な天邪鬼的思考。ここでの巨大イベントとは、時期柄言うまでもなく「山口ゆめ花博」を指している。入場券が一枚余っているので行かないかと母に誘われたときの返答である。換言すればタダでも行く気は無いことを示している。これは山口ゆめ花博の開催を批判しているのではなく、純粋に大渋滞に見舞われ長蛇の列に加わって時間と体力を浪費してまでそこに在るものを観に行く価値を感じていないことに依る。ある種の観光地に対し、爆発的人気を知って後から後から観光客が短期間で一斉に押し寄せる結果、観光客自身が余計な時間を消費させられるのみならず周辺住民の生活まで悪影響が及ぶ現象を、フードファディズムに準えて観光ファディズム(sightseeing faddism)と勝手呼称している。踏査行動の見地から言えば、寺院仏閣関連の訪問が少ないことと同じ(郷土史研究会など多くの人に研究されているなら新たな発見が現れる余地がない)である。ただし大勢が繰り出す祭りには足を運ぶのは、元から人(祭りの参加者および観覧者)を観に行くのが目的だからである。

e9. どういう含意かはFBのタイムラインのコメントで述べている。【広義の「空き時間」を何に使うか?】も参照。
【 理論 】
f1. 隣り合う整数は常に共通要素がない(互いに素)ことからの連想。

f2. 知識にしろ経験にしろ持っていない情報を伝授する種の教育は無数の分野にわたって存在するが、既に知っている情報を引き剥がし「知る前の状態に戻す」行為が不可能なことを言っている。知ってしまった事実には相応に対処せざるを得ない状況も示唆する。

f3. 病的な思考実験の一つ。ガモフの書物に「静かに座っているとき部屋にある酸素分子が完全に部屋の片隅に偏ることで窒息する確率」の具体的数値が示されていたことに影響を受けている。しかし近年、世界観を介在させた確率の定義の仕方によってこの問題の解答として「確率はゼロまたは不定である」へ導けそうな感触を得ている。

f4. 他の自然にみられる景観についても同様である。登山の途中で出会った泉で湧き水を掬って飲むのは、登山者と泉の時間軸においてまったく一瞬の接点であり、湧き水自体は登山者が初めて訪れる以前どころか誰も知らない時代から夜昼問わず流れ続けていたのである。
【 恋愛 】
g1. この語録を思いついた後になって実のところ「エンタ要素」が加わることに気づいた。如何に居心地良く愉しませる技術である。現代ではその要素の方がより大きなウェイトを占めると考えているので、この語録はそれほど重要視していない。(2015/8/29)
《 公開されている私の語録 》
pub_1. 宇部市制施行100周年市民委員会を閉幕するにあたって参加委員にメッセージ提出の場が与えられた。在り来たりなメッセージを残したくないために現代と未来の市民に向けて発信するメッセージとして提出している。詳細は「宇部市制施行100周年市民会議|第6回会議|委員メッセージの提出」を参照。なお、この語録はサンデーうべのコラムの Vol.65において、末尾に埋め込まれる形で公開された。

pub_2. 平成28年度第5回宇部市インターネット市民モニターアンケートに提出された私による文言である。アンケートの中に【Q16】「宇部市で面白い活動をしている人・団体の情報があればお教えください」という部分があったのを受けて私自身が自由回答の中で記述している。この自由回答の内容はそのまま市ホームページの集計結果としてPDFファイルで公開されていて誰でも閲覧できる。9ページ目の文末にそのままの形で収録されている。
たまたま市民モニターをやっている知り合いの目に留まり、この自由記入を見て「なんか失礼なことを書いているモニターが居ますね」と私の耳に入って来たことで発覚した。宣伝めいた自由記述になると承知していながらまさにそのまんまの質問事項だったので、自分自身のことについて些か軽い内容を書いて提出している。当時はインターネット市民モニターの登録初期で、自由回答の内容が全部そのままの形で収録されるとは思っていなかったのである。したがってかなり明白な自作自演であるが、後でこの一見失礼な自由回答の提出者が私であることを説明して回る羽目になった。しかし私のおちゃらけ回答以外で市民モニターの2名が宇部マニアックスを指名し記述しているのは注目に値する。
《 感銘を受けた他人の語録 》
1. 中学1年生の国語の教科書に掲載されていたジュール・ルナールの作品の一つ。個人的にとても想い出深いし今となっては様々な解釈が可能である。この他に「煙が名残惜しそうに煙突を旅立って行く」のような作品もあった。この授業のとき国語の先生がクラス全員に「気に入った作品を挙手してください」と言った。このとき自分は北風の作品に挙手したものの、手を上げたのは自分一人だった。そのことからクラスの特定男児に笑われ、クラスが変わるまで事ある毎に「北風小僧」などと揶揄され続けた。
もっとも本人はそれほど虐めている感覚はなかったらしく年明けに年賀状をよこしている

2. 中学1年生のとき学校の図書館で借りた「太平洋ひとりぼっち」の後書きにあったように思う。一語一句ここに書いた通りとは限らない。孤独とは周囲に自分と同類の人間が居ない状態で、孤立とは周囲に自分とは関わりを持つことのない人間しか居ない状態である。

3. 講談社ブルーバックス「四次元の世界」にこの下りがある。実のところ時間要素もお金で「買う」ことが可能である。対価を支払うことで時間を短縮する乗り物を利用したり業務のアウトソースを行ってそこへ投入する必要があった自分の時間を取り戻すことができる。最先端の高額医療に頼れば、重篤な病気に罹ったときでも自分の生存時間を延長することすら可能だろう。しかし「恣に買い占める」ことは出来ないことを言っているのである。

4. このことは人について対偶命題的な振る舞いを求めるものである。「座して死を待つのでなければ身の回りの変化すべてを肯定し順応の努力を払うべき」(2014/8/17)

5. 出典不詳。株式や為替のような相場において言及されたことがある語録。誰の目にも明白なトレンドであると肯定されたなら、往々にしてそこで流れが反転することを示唆する。転じて、意見が一致したならその先から得られるものは何もなく居ても時間の無駄だという考え方もできる。

6. 出典不詳。日本の諺では「老いて益々盛ん」に近い。年齢が進みあれもこれも出来なくなったとか物忘れが酷いと嘆くのではなく、年老いたからこそ出来るようになったこと(経験や知見の集積)へ目を向けて生きることを勧めている。

7. 「スポック博士の育児書」にあった一節。この書物は日本でも昭和中後期に子どもを持つ多くの主婦の育児指針になった。我が家でも長いこと応接間の書棚に置かれていて、小学校高学年から中学生時代にかけて活字を求めていた時期に読んでいた。現代でもこの一節を読むと、恩田バス停より見初変電所の方へ伸びていた里道を道草していた幼少期の自分を思い出す。

8.NEW HORIZONS の中学3年生向け教科書末尾にある Let's Read に収録されている。中学生の既出文法に収まるように若干書き直されている。

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