作文技巧と方針

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記事作成日:2017/10/13
最終編集日:2024/1/21
ここでは、当サイトを含めた私個人の作成する日本語の文章における方針を収録している。その多くが恐らく教科書的なルールに沿っているが、それほど一般的でないものも含まれる。このドキュメント作成の目的は指針を意図するというよりは自分の考えをまとめておくことにある。

思い付くままの順序で書き連ねており、導入や展開といった教科書的な書き方を意図していない。記事の作成日は固定されているが、内容の編集追記は分割は随時行われる。現時点では「作文技巧と方針」として双方を収録しているが、書き上げたところ全体の分量がかなり多くなったので技巧と方針を分割することも考えている。
《 何故必要か 》
伝えるべき相手が常に話者の目の前に居るなら、作文技巧は格別なものを必要としない。よほど致命的な発言でない限り言い直すことで訂正可能だし、何よりも文章を認めるよりも口で話す方がはるかに高速に伝えられるからである。聞いている人が(録音でもしていなければ)一語一句を完全に把握していることはあり得ず、多少の曖昧な表現や構文的な誤りは看過される。作文する場合はいちいち構文を気にしながら行う分だけ余計な労力が要る。それを敢えて行うのは、作文には語る端から揮発してしまう口述以上の様々なメリットが期待されることに依る。

記録された文章は、日時を変えて複数の人が反復して読み直すことができる。その読み手には書いた本人も含まれる。記述しながら自分の考えをまとめることは一般的で、まさに今私自身が現在進行中である。この過程で自身の考えの矛盾に気付くこともある。そうして修正された考えは、何の準備もなしにいきなり論陣を張るよりも説得力をもつ。

すべての読み手は、文章が平易でテンポよく日本語としての一般的ルールに沿ったものを期待している。このルールは論説だろうが情景の叙述だろうが共通する土台部分であり、それが作文技巧である。
作文技巧は厳格に習得しなくても書かれている事実に影響を与えない。技巧なしに書かれた文章だと白という叙述が黒に変化するわけもないのだが、それでもなお技巧が必要なのは、提示された文章の対外的な信憑性に大きく影響するからである。

卑近な例として、ネット上である種の物品を販売するサイトやダイレクトメールには、しばしば違和感がある日本語で書かれた商品説明がみられる。その殆どが日本語を扱い慣れない人々や自動翻訳ツールで作成されている。特に模造品、著作権無視の違法物品を取り扱うサイトに顕著である。ネイティヴな日本人ならまず用いない奇妙な表現や誤字脱字が目立つなら、扱う商品は良くて粗悪品、悪くすれば詐欺ではと疑念を抱くのが普通である。

そこまで極端ではなくても、一般に認知されていない用法や文法、誤字脱字が多い文章は信頼性を疑われる。たとえ重要な発見や新しい理論の提示であっても文章が粗雑だと、内容の重要性以前の問題とみなされてしまう。そのような勿体ない状況を避けるためにも「日本語を使いこなす人間によって作成された」ことを間接的にアピールする論理的な文書作成技巧は必要である。
《 こなれた文章を書くには 》
「良い文章」と言うと、とかく美辞麗句を並べた格式高い構文が連想されがちである。個人的には良い文章と呼ばれるものは、内容がスッと染み入るように理解されることが必須で、それは読み手の年齢や予備知識によって異なると考えている。極端な話、幼児に向かってまだ聞いたことがない言葉ばかりの文章を示しても何のことか分からないし、一定の教養を積んだ社会人に対して強調の積もりで「すごい〜です」を連発する文章は、感動を呼ばすむしろ稚拙に映る。

例えばここまで私が書いてきた文章は、小学生以下を想定しているならまったく不適切である。文章の中に小学生では理解できない用語や概念が説明無しで使われ、習っていない漢字表記を含むからである。読む人の対象が限定されなければ、一般に良い文章は定義できない。しかしそれでは話が前に進まないので、当サイトの基本条件にしているように、日本語を通常レベルで理解している現代社会人向けに書いている。専門書レベルでもない限りこの前提は一般の作文技巧としても妥当だろう。

「分かりやすさ」の内容は、構文の平易さと用いられている語の難易度で決まる。構文には一定ルールがあるため、それを順守すれば概ね分かりやすくなる。用語は何処までも平易にを心がけると説明が多すぎて話が前に進まない。例えば当サイトでは道路や水利関連などの記事が多いため、その方面のやや難解な用語がどうしても多くなる。最初にきちんと説明を添えるのが親切なのだが、ネットに接続してこの記事を読むことができる人なら、検索で調べることが可能である。それ故に当サイトでは(些か不親切との誹りを受けかねないのを承知で)辞書にも載っていない仲間内の言葉や隠語、方言などを除いて説明なしに記述している。
特に当サイトでは方言用語集の項目を別途収録している

読み手に一定範囲の解釈を任せる語録、語句のリズムや雰囲気を重視する詩歌を作成する場合は別として、一般的な文章は読みやすさと分かりやすさが最優先されるべきである。現代社会人を基準にして読むに平易で単一の意味にのみ解釈できるものが望まれる。言葉が足りないために曲げて解釈されるとか、言い方が不適切なせいで何か別の含意があるのではと誤解されることは防がなければならない。この意味で、良い文章ではなく「こなれた文章」という言い方をしている。食物の消化状態と同一で、書いた本人によって発せられた情報が殆ど変質することなく読み手に伝わり消化吸収されるような文章である。

こなれた文章とはどのようなものかを考えると、概ね以下の条件を満たすものとなる。
(1) 一般に誤りと考えられている用法を含まないこと。
(2) 主部と述部の連結が明瞭で多義に解釈される余地がないこと。
(3) 一文の長さが適正であること。
(4) 一文に現れる単一助詞の回数が適正であること。
(5) 多彩な語句が必要とされる場面で適正に用いられていること。
上記はまったく思いつくままに書き並べただけであってすべてが等価というわけではない。この中で最も重要なのは (1) である。誤りと「考えられている」用法とは、現代においての話である。言葉の語義や用法は時代が進むにつれ変化する。以前は誤りであったものが現代社会では一般的用法となっているものが存在する。それでもなお多くの教養人にとって正しい日本語として容認されていない語法は、別の表現へ置き換えることを考えた方が良い。

現代社会で未だ容認されていない語法を排除するには、具体的にどのような構文がそうであるかを知る必要がある。幸い個別に一つずつ覚える必要はなく、許容されていないパターンを知れば殆どの場合で応用が利く。
《 誤りと認識している構文 》
どんな内容であれ自分以外の誰かに提示される作文は、同等程度に日本語を理解する人に何かを伝える目的で作成される。形のない概念やそのままでは伝えられない視覚などで得られた情報をなるべく正確に記述するものでなければならない。このためにすべての書き手は、一般的な現代社会人が持ち合わせていると思われる共通概念を交えて読み手の脳内から引っ張り出すことを試みる。

共通概念を代表するキーワードは、ただ単に羅列するだけではなく適正な論理で接合されていなければならない。これを無視した文章は分かりづらいだけでなく誤解を産み出す。そこまで行かなくとも極めてリズムの悪いものになってしまう。そのような事象がみられる文章を個人的には「文章の関節脱臼」と呼んでいる。読んでいて大まかな意味が通じるが、構文として何処かしら疵(きず)を持つものをいう。以下、そのような具体例を挙げる。これらの”関節脱臼症状”は重度で殆どの読者にとって受け入れられないと感じられるものから、それほど目くじらを立てる程でもないのではと容認されるレベルまで多種多彩である。

以下に示す内容は、注意深く検討し回避するよう努力している項目である。○が私の主観的判断で適正と推奨される文体、△はかつて誤用と考えられたり今なお疑義を唱える向きがあったりするなど好ましくない要素を含む文体、×は現代においても誤りで修正すべきと考える文体である。これらはすべて記述文の場合に限定され、会話文ではこれほど厳密に扱われない。ここでは論述を前提とした最も厳格なルールの元で考えている。
【 並列描写の破綻 】
軽度の例。現代ではかなり頻繁に見受けられる。
×「この溜め池で魚を釣ったり泳いではいけない」
○「この溜め池で魚を釣ったり泳いだりしてはいけない」
「〜たり」は2つある事象を並列し描写するものなので、「AしたりBしたり…」の形で用いるのが正則である。構造的には「魚を釣る」ことと「泳ぐ」ことが「いけない」に等価に結びついている。ただし実際に溜め池へ設置される看板では、しばしば冒頭のような表記になっている。これは構文規則の順守よりも短い文章にして立て札を見る人々の理解を最優先にしているからである。正規の用法では長くなってしまうため、簡素化を旨と為す現代社会ではかなり容認される傾向にある。この意味でここでの×は△に近いかも知れない。

上記は名詞の並列だが、同様に複数の事象を記述する文を並列させる場合も、各事象を受ける形を明確にしなければならない。
×「私の趣味はカラオケで演歌を歌うことと、毎月一回くらいボウリングにも行っています。」
これも上記の並列叙述のルールを犯している。意味はもちろん通じるし会話などでは意識さえもされない。しかし記述された文章では目で複数回追えるので、構文として不適切であることがすぐ分かる。
「私の趣味は」で始まりカラオケに対しては演歌を「歌うこと」としているので、ボウリングに対しても同様に「〜すること」の形にしなければならない。上記の文章を並列型に分解すれば、後半部分は「私の趣味はボウリングに行きます」となってしまい意味を成さない。したがって構文的には
○「私の趣味はカラオケで演歌を歌うことと、毎月一回くらいボウリングに行くことです。」
が正しい。[a1]

会話では文章にするよりも短時間で多くを語れるので、敢えて単一文に仕立てることなく英語文法でよくみられる「叙述したいことを冒頭で手短に述べてその直後に詳細説明を沿える」形式が取られる。単一文に拘らなければ、記述文でもこの形式の方が分かりやすいとも言える。
○「私の趣味はカラオケとボウリングです。カラオケでは演歌をよく歌うし、ボウリングは月に一回くらい行っています。」
上記の後半部で「カラオケでは演歌をよく歌うし」は「カラオケは…」にも置き換え可能(「カラオケ演歌を歌う」と誤解される余地がないのは明らかなので)だが、後者の方がくだけた言い方になる代わりにカラオケの部分が主部のように聞こえて違和感があるという意見もあり得る。後ろの「ボウリングは…」の部分は「ボウリングでは」に出来ないのは自明である。

ついでながら並列すべき項目(特に名詞)が3つ以上になるとき、現代国語ではどのように書くべきか特に標準形式はない。並列関係さえ崩さなければ接続詞「と」を介して単純に列挙して構わない。
○「豆腐と醤油とネギを買って来て。」
ただし述部に配される場合や並列項目が3つ以上に及ぶときは、英語の A, B and C のような書かれ方をされることもある。これは4つ以上に及ぶ場合は特に顕著である。
○「習熟に必要なのは努力、継続、そして忍耐だ。」
この場合、3番目の項目の前に「そして」を配することは必須ではない。英語ではかならず and で結ぶが、日本語の場合はやや仰々しさを感じさせるので上記のような強調文的な使い方をするとき以外あまり一般的ではない。例えば冒頭の例で「豆腐と醤油、そしてネギを買って」とは言わないし書かれない。あまりにも英文直訳調で不自然だからである。(この他の例については「英文直訳調が強い表現」を参照

4項目以上に及ぶ場合、または3項目でも特に重要で強調したいとき、いきなり並列項目を供述するのではなく、後続にいくつかの注意を払うべき並列項目がある旨の前置きをする場合がある。これは会話において特に顕著であり、前述の英語形式の踏襲とも言える。
○「今から言うものを忘れず買って来てね。豆腐、醤油、ネギ、黒ごま、わさび。分かった?」
この語法は英語の仮主語 It や There is 構文のように主部よりも叙述部の方が長い場合に伝達内容の見通しをよくする目的で自然と用いられている。

もっとも上記のような会話文であれば技巧よりも実際に話者によって発せられた語順が最優先される場合が多い。これがおよそ等価で主部述部を伴う項目を列挙する場合は、文章の記述においては句点で区切りつつ一文にまとめようとせずに箇条書きする方が分かりやすい。
【 自動詞と他動詞の受け方 】
長い文章になると見落とされがちである。
△「蛇瀬池は元禄六年(1693年)のこと、領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に築堤された人工の溜め池である。」
○「蛇瀬池は元禄六年(1693年)のこと、領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に築堤した人工の溜め池である。」
この文章は二重構造になっている。「蛇瀬池は」が主語であり、副詞節が挿入されて「溜め池である」となっている。挿入された副詞句も主語+述語を備えているが、この部分においては「椋梨権左衛門俊平が」が主部である。この述部を考えるなら明らかに「築堤された」ではなく「築堤した」でなければならないことが分かる。全体の構文は以下のように解析される。
蛇瀬池は
 ・元禄六年(1693年)のこと、
  ・領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が
   ・鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に
  ・築堤した
人工の溜め池である。」
ここが「築堤された」のままで正則の文章であるためには、書き手に「築堤なさった」のような尊敬語の義が含まれている場合に限られる。現代日本語では「〜された」は受け身ないしは尊敬の義をあらわす助動詞だからである。ただし書き手に元からそういった意味合いを込めているなら、両方の意味に取れる「〜された」ではなく「〜なさった」など別の尊敬表現を使う方が良い。

ただし現在では一文がこれほどの分量を持つだけで長文とみなされ、それだけで分かりづらいという目で見られる。論述文の場合はともかく、一般向けの平易な説明を想定している場合は(文字数制限が求められていない限り)いくつかの文に分割し記述した方が分かりやすい。読点が連続しなかなか句点にたどり着かない長文は、読者に対して単に長くて分かりづらいと感じさせるだけでなく、主張の内容を追っていくことすら困難にさせてしまう。
【 特定の形式の後置が求められる副詞 】
△「全然平気ですよ」
○「全然ダメだ」
「全然」を副詞として使う場合、後ろには「〜でない」のような否定形を置くことしか認められないのが正則である。現時点では「誤りではないが読んでいて(聞いていて)違和感がある」状態なので、カジュアルな場合を除いて避けている。他方、副詞「とても」もかつて「とても…ない」の如く否定形を後置する形でしか認められなかった。現在は肯定否定双方の使用が一般的になっている。「とても綺麗なバラですね」を誤った文とみなす現代人は皆無だろう。
以上の例はごく基本的なものであり、走り書きしたときに若干発生させてしまうことはあるにしても多発させてしまうことは(少なくとも日常的に記述を行っている人々の間なら)まずない。一連の基礎的条件を順守するだけでも文章のこなれ度は相当に向上する。
出典および編集追記:

a1. ここで「ボウリングに行く」は、ボウリングへ行くこととボウリングをしに行くの2通りの解釈があり得る。厳密には一義のみを与えるこなれた文章のルールに反するが、実際には上記の2つは同義であることが通例なので問題視していない。
《 回避している語法 》
文章は正確性を旨と為すものであるが、それだけで足りるものではない。日本語を読みこなす多くの現代人に対してなるべく平易で美しくリズム良いものであることが必要と考えている。この観点から一般には許容範囲とみなされているものの個人的な理由も含めて意識して避けている表現系を挙げる。なお、以下のルールは記述のみならず話術でも通用する。
【 可能を示す助動詞の省略形 】
タイトルよりもむしろ「ら抜き言葉」と言った方が分かりやすいだろう。次のような例である。
×「お子様にも食べれるカレーです。」
現代社会はこの表現をほぼ容認している感じがある。一般人の会話ではまったく違和感なく受け入れられるし、誤りとすら認識されない傾向がある。ただし、さすがに権威あるレベルのアナウンサーの口から語られることはない。
このことは記述文においてさえ同様で、メニュー紹介などでは上のような語法はまったく一般的である。しかし多くの世代は未だこの語法を日本語として広く容認されたものとはみなしていない。個人的には現時点での現代国語文法として(記述・会話を問わず)完全に誤りのレベルと考えている。したがって当サイトでも会話文を除いた地の文で用いられることは絶対にない。例えば飲食店で上のような表記を書いたメニューを見たなら(元々気楽な雰囲気を前面に押し出したお店なら別として)私は教養レベルが窺い知れる店と考えてしまう。

正則には「食べれる」であるべきところを「食べれる」と表現することから、一般には「ら抜き言葉」として語られる。文章変換でも「たべれる」で変換を試みると「ら抜き表現」として指摘される。
ら抜き言葉はまったく頓着せず気にならないという人から、極めて品位が低いと嫌悪する人までさまざまである。時代が進めば違和感も緩和されるというものでもなく、一定年齢より上の世代からは殊の外嫌われている。敢えて誤った語法を取り入れて自分の発する文章の品位を低下せしめることもないだろうから、幅広い世代に読んで頂く文章を書くなら注意深く回避しなければならない。

ら抜き表現は今後まだ揺らぐ可能性がある。それと言うのもすべて「〜れる」が誤りで「〜られる」にすべきだとは言い切れない表現も存在するからである。例えば以下の表現は「登られる」に変えなくても良い(ら抜き言葉ではない)とみなされている。
○「お子様でも30分程度で登れる山です。」
ら抜き言葉はしばしば若者に目立つの省略語の代表格のように思われているが、そのような指摘以前から一部の地域では古くからの方言として用いられていた事実がある。したがってら抜き言葉イコール若者の日本語の乱れの象徴と決めつける論法は必ずしも正しいとは言えない。

「ら抜き言葉」は、記述文よりも会話において強く意識される点が他の語法とは異なっている。安直な回避ルールとして、すべて「〜られる」に言い直すというものがある。しかし「登れる」で済むところを「登られる」と表現すると、今度は「〜られる」を尊敬語として解釈されかねないという誤解の元となる。

どのような場合にら抜き言葉になるのかの判断は個別に体得する以外ないと思われるが、経験則としては「ら」を抜いたとき「れる」の直前にエ行の音が配される場合は容認されていない「ら抜き表現」となることが多い。「食べれる」「出れる」の類である。これらが特に耳障りだとして非難される理由は、エ行の音の衝突に由来すると思われる。音感的にだらしない印象が強まってしまうのである。
エ行の音をたくさん含む語は、概して品が無かったり粗野だったりする表現が多い。「何言ってやんでえ」「そうにちげえねえ(違いない)」の類である。共通項が見いだせただろうか。
【 同一助詞の連続 】
助詞「の」に於いて顕著である。
×「市役所の3階の西側の端の突き当たりの部屋の奥に…」
実際には3度目の「の」が現れた状態で助詞の重複が指摘される。


「の」が重なる文章は鈍重で長たらしい印象を与える。小倉百人一首において柿本人麻呂の詠んだ「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の…」は、この効果を意図的に取り入れた名句である。こなれた文章を目指すには相容れないが、重複する「の」を回避するのは難しい場合がある。上記の例では「市役所3階の西側端の突き当たりにある…」などと別の表現手法に置き換える方法がある。

その他の助詞の連続も個人的には好ましくないものとして回避している。
△「懐かしい」は、すべての世代の人々に肯定的に受け入れられる概念である。
○「懐かしい」は、すべての世代の人々へ肯定的に受け入れられる概念である。
これは誤りではないものの音読・黙読したとき如何にも不自然で収まりが悪いからである。例えば「に」では2度目の重複だけで指摘される。このような場合、どうしても他の適切な助詞で置き換えられない場合を除いて別のものに置き換えている。
【 安直で浅い表現 】
以下は現代社会で比較的受け入れられており、致命的な誤りとは考えられていない。特にマスメディアは好んで多用する傾向にある。しかし個人的にはこれらを注意深く避けて別の言葉で表現する。
△「凄い美味しいですね。」
×「贅沢ランチが最高過ぎる」

これを「凄く美味しい」にしても幾分軽減されるだけで本質的に同じである。殊に話す場合では顕著で、この場合「何がどう美味しい」のかを別の言葉で表現しなければ伝わらない。「凄い〜」は多用すればするほど「凄くなくなって」しまう。丹精込めて作ったコース料理を食べるお客からの言葉が毎回「すごく美味しいです」だけだったら、シェフは顔で笑っていても内心がっかりするだろう。

「〜過ぎる」は、今やマスメディアがニュース記事で当たり前のように使っている。如何にも浅はかで徒に煽る意図しか感じられない。現代社会は未だこの表現を適正と認めていない。勝手にマスメディアが多用し一般人に追認を求めている愚かな表現である。この表現は個人的には誤用であり、追放されるべきという非難を込めて×の評価としている。
【 英文直訳調が強い表現 】
現代の教育システムでは、小学校より英単語に馴染ませ中学校から文法を教えている。単語や英語の構文、そして訳出の教育がそのまま作文技巧へ影を落とす事例がある。それ自体は一つの文化移転であり誤りとは言えないのだが、些か過剰になると冒頭にも述べたような「日本人による作文らしさ」が色褪せる。
△「靴下を履くには私にとってあまりにも小さすぎた」
○「靴下が小さくて私には履けなかった」
これは、中学校の基礎英語でかならず教えられる too 〜 to 原形動詞 の直訳調である。英語のテストではこの構文を正しく理解していることを明示するために「〜するにはあまりにも…だ」と訳さなければ点がもらえないかも知れない。しかし一般の作文技巧では多用すると効果的どころかむしろ野暮ったい表現に写る。pay が「払う」で日本語と合致するがために pay attention は殆ど間違いなく「注意を払う」と訳出される。しかし一般には単に「注意する」で事足りることが殆どである。[b1]積極的に置き換える程のものではないが、あまり多用すると持って回った表現という印象が強くなる。
【 過剰な敬語表現 】
これは記述ではなく話し言葉にみられがちな現象である。特に会合冒頭の挨拶言葉として用いられる以下のものが典型例である。
×「個人演説会を開催させていただきます」
○「個人演説会を開催します」
対象となるのは「〜させていただきます」の部分であるが、注意すべきはこの言い回し自体が完全な誤りというわけではない点である。例えば「敷地内を撮影させて頂けないでしょうか?」のような表現は、記述と口述共にまったく問題ない。本来実行することが難しかったり認められていなかったりするのを、相手の厚意によって許諾を得るような場合はへりくだった言い回しをするのが自然である。

ところが冒頭の例のように、相手に許諾を求めることが前提となっていない自分の行為について用いられることが目立つ。行政による説明会の冒頭挨拶で顕著であり、近年では民間主催の司会挨拶でも多用されている。元来のへりくだった謙譲的意味合いはまったくなく、単に格式高さや重々しさを表現する手段として使われている。個人的は用例の誤りと認識している。[b2]

用いられる場面に依存する表現であり、語法自体の誤りではないので当サイトの記述でも同種の表現が含まれ得る。敬語表現として「〜です」と書けば済むところを敢えて「〜であります」と書いている部分がある。これは語調の持つ雰囲気を表現するための意図的な選択であり、普通の場面で用いることはない。意図されているのは書籍からの引用や格式張った空気、ときには故意に丁寧な表現を用いることによる皮肉や軽蔑が込められている。
出典および編集追記:

b1.「注意する」だけだと「意識を置いておく」という義と「制止する」の2つの意味に解釈されるという意見があるかも知れない。しかしこの両義の区別は殆どの場合前後の文脈から判断可能である。

b2. 何故誤りと判断するかは「FBタイムライン|『〜させていただきます』は時代遅れの似非敬語」でシェア論述している。
《 回避している語句や手法 》
関連項目なので仮にここへ書くが、説明や会話文で登用する以外に地の文では使われない表現がいくつかある。以下は文書技巧の範疇からは外れるので別項目に移動する予定である。
【 卑語・粗野な略語 】
一般法則として、品位がないと考えられる語や表現は、それ自体を説明するなどの目的がない限り使用しない。これは写真などにおいても一般的に不快をもたらすと考えられるものを掲載しない当サイトの品質管理にも準拠している。

この場合の品位がないとする判断基準は主観的なものである。例えば自転車を指して「チャリ」という語が多用されているが、当サイトではもちろん私の作成する文章ではいっさい用いられない。これは現在の活動や日常生活において自転車は重要な生活必需品であり蔑まれるべきものではないこと、一般にチャリとは元来無銭飲食や泥棒を意味するなどネガティヴなイメージを持つ語に由来するからである。
但し「ママチャリ」は他の語への言い換えが容易でない一般名詞に準ずるものとして容認している
【 差別的な語句 】
上記に付随して、あらゆる差別的な語句表現を容認しない。その多くが粗野な表現であるが、会話で比較的気軽に使われる語句であっても制限された場面でしか用いない。この”制限された場面”とは、以下の場合である。
(1) 事例を説明するための表記(この総括記事のように)
(2) 歴史的経緯として使われてきたことの説明
(3) 自分自身や当該表現を使われることを容認した人に対して
人を傷つける表現は、気軽な場面でも表記または口にすることが忌避される。昭和期は気違いなどといった言葉が普通に語られ、特定の精神病院名を用いて「××病院へ行け」などと口汚く罵っていた。身体的表現についても肥満(デブ)や矮小(チビ)といった表現は子どもでも口にしていた。このような語句は、現在では過去に用いられていた歴史的事例説明として表記される以外記載されることはない。

差別的意図がなくともこれらの語を含むものも容認しない。昭和・平成期から受け継がれてきた子どもたちが主役の団体名で「××地区ちびっこクラブ」のような名称を見かけるが、時代遅れの不適切なものであり改名すべきである。

一部の普通名詞には、これらの忌避されるべき語句を含んだものがある。盲目の人をかつて盲(めくら)と呼んでいたが、現在は使用が排除されている。しかし土木分野では素掘りの地面に穴の多数空いたスパイラル管を埋めて簡素な排水設備に充てることがあり、この構造物は以前から盲暗渠と呼ばれていた。現在では吸水暗渠の言い換えが可能であり、歴史的事例説明以外は用いられない。

性差別的な言葉への風当たりは近年頓に厳しくなっており、この傾向を強く支持する。オカマといった表現は性差別に加えて粗野な表現であり、子どもたちにも事ある毎に使わないよう指導している。この記事を作成する現時点では LGBT という表現が用いられているが、更に時代と理解が進めばこの語句自体も忌避されるようになるかも知れない。
個人的には LGBT の語句で十把一絡げに表現することさえも適切でないと考えている

完全に忌避している訳ではないが、性別と年齢や地位を結びつけた一部の語句にも適切でないものがあると考えている。巷ではごく一般的に使われている「おじいちゃん」「オバチャン」の類である。この種の表現は当該本人が了承している場合やくだけた会話場面は別として、物語などの設定以外で一般的な表記に馴染まないと考える。専門店での店員の応対にありがちな「旦那様」「奥様」も不適切で、きちんと「お客様」と表現すべきである。
何故ならば性別の表現の他に既婚者という決めつけの義が感じられるため
【 誤解を招く語句 】
一般名詞とされる語であっても意識して回避されているものがある。例えばいくつかの民家によって人々の生活が構成されている場所は専ら「集落」であり「部落」とは決して表現しない。これは前者は単純な民家の集合状態のみを意図するのに対し、後者の語は部落差別というイメージを払拭しきれないからである。書籍などでは平成初期頃までこの表現が見られていたが、近年は部落という熟語の使用そのものが回避される。[c1]

官庁の傾向と言えば、年齢を召した人々を指す語としてかつて「老人」というキーワードが多用されたが、現在は専ら「高齢者」となっている。当サイトでもこの方針を支持し準拠している。これを横文字に言い換えた「シニア」も最近よく使われるが、個人的に容認はしてもあまり使いたくない。如何にも語感が悪く音感からはどうしても「死にや」を連想するからである。後述のいわゆる横文字の使用も参照。

本編でも見られる用例として、もっとも妥当であり適している状態については「適正」と書いている。実のところ「適当」でも良いしその方が一般的なのだが、誤解を避けたいときにはこれを使わず適正ないしは適切と書いている。これは一部では理解されているように、適当という語が「いい加減」の義で使われる場面が多いことによる。テストで「次の中から適当なものを選びなさい」では、誰でも正しいものを選ぼうとするだろう。しかし会話で複数の物品を見せて「どれでも適当に選んで」だとニュアンスは変調して”正しいもの”という意味合いが薄れる。これが「適当にやっといてくれ」となれば、ほぼ確実にいい加減という意味に解釈される。この現象を日本語ネイティヴ以外の人に「適切に」説明することは恐らく不可能だろう。
【 常用漢字の枠内に縛られた漢字書き換え 】
当サイトを含めて使用する漢字に制限は設けていない。毎月執筆しているサンデーうべのコラムですら同様で、常用漢字外の漢字もそのまま表記し、読みが難しい地名や特段に難しい漢字以外は振り仮名も添えていない。制定されている常用漢字とは、読みをキーボードから入力して漢字に変換するという現在では一般的なシステム以前に制定されたものであり、現代の区分にはまったくそぐわない。

行政では用いる漢字の範囲を常用漢字に限定するあまりに、平かなの混ぜ書きや近い意味と読みを持つ別の漢字に置き換えている場面がみられる。この方針は些か時代錯誤であり見直しが必要と考えている。この典型的な例が「めいよきそん」に対する「名誉棄損」という漢字表記である。この語については「名誉毀損」のみが正しい漢字表記であり、個人的には名誉棄損という漢字表記は誤りと考えている。[c2]何となれば名誉は「毀される」ものであり「棄てられる」ものではないからと言えば足りる。

同じ理由で、常用漢字外という理由での平かな交ぜ書きも行わない。碍子と書けばいいものを、わざわざ「送電線のがい子」と書いたらまるで女性の名前のようで逆に混乱する。碍子がどういうものかを知っている日本人なら、たとえ書けないにしても間違いなく正しく読める熟語と考える。他の常用漢字外の漢字を含んだ熟語も同様である。[c3]

この種の議論が始まる以前から書き換えが進められ、既に定着してしまったものが相当ある。放物線や編集を抛物線、編輯と表記するのは歴史的にみてその必要性があるときに限られる。しかし上記の名誉「棄損」と「毀損」の如く、常用漢字外の方がより原義を反映していると考えるものについては、まったく個人的な性向により選択している。厳密に調べてはいないが、当サイトを含めて「まれである」ことを表す熟語は「希少」ではなく「稀少」と書いていると思う。理由は、個人的に希少という表記では稀なイメージが感じ難いからである。

社会問題としてよく提起されるのが「障害者」に対する「障がい者」や「障碍者」という表記である。この熟語を扱うこと自体が当サイトでは殆どないことから、現行を追認している。しかし「しょうがいしゃ」という表現は温存しつつ適正な漢字表記を社会全体で再考したいという話になれば、私なら「障碍者」を提案する。害には「害悪」や「殺害」のような熟語があまりにも一般的であり、どうしてもそのイメージに引きずられてしまう。碍にはそのような熟語は存在しない。

他方「障がい者」の表記は平易であり企業や組織で多用されているが、個人的には(一般に漢字平かなの交ぜ書きは好ましくないという考えもあって)評価しない。前後が漢字で中央に平かなの「がい」が配置されるため平かなが目立ち過ぎて不自然である。組織にあっては「うちでは『障害者』の表記は良くないと考えるので『障がい者』を用いております」という宣伝的な意味合いが感じられる。

「碍」という漢字は、送電線の碍子にも現れる使用頻度の高いものでありながら、常用漢字への編入審査の段階で外された経緯がある。もし常用漢字であれば、例えば「阻害」と「阻碍」が使用可能であり、前後の状況からニュアンスを元に書き分けて用いることが可能なのである。おかしな話と思うが、前述したように現代では常用漢字という枠組み自体が無意味であり、書くのは困難だが書かれている熟語は読める人が多数(例えば「憂鬱」や「登攀」など)という漢字は、常用漢字に準じて扱うべきと考える。
【 こなれていない横文字 】
この項目での「こなれていない」とは、前述の簡明さに加えて一般的に充分認知されているとは思えず別途説明が必要な意味も含む。ここで言う横文字とは、英単語に限定するものではなく一般的な日本語ではカタカナ表記されるものを指す。

この文章が紙媒体で印刷されお手元に届いているとも思えないから、まさか読者がインターネットやキーボードといった横文字を知らないなんてこともあり得ないだろう。しかしインターネットを土台とした情報伝達が優勢になっていながらも未だクラウド(crowdではなくcloud)という言葉は聞き覚えあるものの正確な意味が分からないという方は結構ある。これが更にユビキタス社会などとなると聞いたこともない人がかなり多くなる。

このような語の扱いについては、分野を問わずどうしてもその語を用いなければ正確な概念を伝えるのが困難な場合に限り、説明つきで用いた方が良いと考える。これは前述の「(検索すれば分かるので)専門用語を説明なしで用いる」に反しているが、とかく同じ専門用語でも横文字の場合は説明無しに反復された場合、読者の心証に良い影響を与えない事例が多いからである。衒学的と言うか、話者の中ではこの程度は常識として知っているだろうという考えが垣間見えるため、読み手の共感を得づらくなってしまう。一定年代から上の方々は、横文字というだけで受け付けない場合も多い。

聞いたこともない横文字がある時期より伝染病のように多くのニュースサイトなどで目立ち始める現象が知られる。この記事を作成している現時点ではレジリエンスやインバウンド、マインドフルネスといった横文字がそうである。関連するジャンルを扱う人々の間では殆ど一般名詞のように思われているが、未だ説明抜きで使える横文字とは思えない。(特に最後の横文字は私自身未だにその指し示す概念を理解できていない
【 こなれていない略語 】
時代は簡単明瞭に向かっており、とかく長い文章は嫌われる。このため長い単語は意味の分かる範囲で切り詰められる。かなり定着してきているものとして自販機(自動販売機)、パソコン(パーソナルコンピュータ)などがある。ソーシャルネットワーキングサービスでは如何にも長いのでSNSと略記されるのは今や一般的である。近年ではサブスクリプションという未だ広く理解されているとは思えないこの語すらサブスクと表記されることが多い。

これらは現状を追認しているが、時代が進むにつれて一旦造られた略語ですら変化し得る。モバイル機器普及に押されてパソコンという語は使用頻度がかなり下がっている。パーソナルなことは今や常識であるため、外観を元にしたデスクトップやノートといった呼称にシフトしつつある。
また、デジタルカメラは元々デジカメと略称され、当サイトでも一般的に用いてきた。しかし記録媒体のデジタル化が普通になった現代では高機能なものと区別するためにコンパクトデジタルカメラと呼ばれるようになり、これから派生したコンデジという呼称に置き換わりつつある。しかし必要ならば置換機能を用いて「デジカメ」→「コンデジ」に書き換えられるので今のところ対処していない。

それほどこなれているとは思えない略語(例えば片側交互通行に対する片交など)は、最初に正式な呼称を書いて2度目以降は略語を用いている。SNSの代表格であるフェイスブックは、カタカナよりも短くて済む Facebook を表記し、後に FB という略記を用いている。記事ごとに Facebook(以下FBと略記)という断り書きを添えるのは鬱陶しさを感じるのだが、説明抜きでいきなり FB と書いても誤解を生まないほど周知されないうちは現状を維持する。デイサービスを最初からデイと書くと前後の文脈から読み取らなければならないが、2度目からは明白なので略記している場合もある。[c4]

一般的でない略語は俗語に目立つ。ポテチはそれだけで恐らく意味は分かる語であるが、未だ正規の語として認知されているとは思えない。このような略語はくだけた記述や不快を与える恐れがないものは用いる場合がある。
一部ては用いられていても使用が推奨されない略語は対象外である。例えば出典として参照されるウィキペディアは常に Wikipedia と表記される。これは当該サイトが Wiki ないしはウィキと略称されることを明確に否定するスタンスだからである。
出典および編集追記:

c1.「Wikipedia - 部落問題」にも西日本において特に「部落」は集落という意味よりも部落問題として解釈される傾向が強いことの指摘がある。地元でも昭和後期までの発刊の郷土書籍などでは集落のことを指して部落という語を用いているものが普通に見られる。現在では少なくとも個人的に体感する範囲で、一般名詞としての集落の意味で「部落」の語を用いることは(会話や記述文を問わず)絶対にないと断言できるほど注意深く忌避されている。端的に言って「部落」という語があれば、ほぼ100%間違いなく同和地区のことを指していると解釈して差し支えない。なお、現在ではテレビや新聞などのメディア関係では集落に相当する義で「部落」という語を用いることは決してないことが表明されている。

c2. 常用漢字という枠組みが作られた当初はそれほど意識されなかったものの、漢字が手描きから変換という形で提供される時代になってからは常用漢字の枠自体がネガティヴな方向に作用しているのではという考えがあった。「Amebaブログ|常用漢字の意義って何だろう(2009/5/13)」も参照。

c3. ただし鉄道関連構造物では「新川橋りょう」や「善和ずい道」のような交ぜ書きを行っている。一般名詞としてはもちろん橋梁・隧道であるべきなのだが、当該構造物の親柱やプレートに書かれている状態が正式名称と考えられるからである。姓名と同じ扱いであり、正確を期したいならばこのようなものは勝手に書き換えることは出来ない。

c4.「FBタイムライン|お見合いを勧められたけれども…」に現れている。
《 慣習的に行っている表記 》
当サイトの記述や発刊されたコラムにある熟語について、漢字変換が複数ある熟語などで一般的ではない選択を行っているものがある。以下に気付いた範囲で実例を挙げる。これらは広く認知されたものではなく、あくまでも個人的な対処である。
【 意図して選択している表記 】
橋カテゴリ関連の記事では「はしをかける」は、専ら「橋をける」と書いている。実際には「橋を掛ける」の変換例の方が優勢であるが、”橋を架ける”の変換例を誤りとは認識しておらず、執筆したコラムでもその変換を用いている。[d1]この理由は、架橋という熟語はあっても掛橋という音読みの熟語が存在しないことに依る。

・当時の道筋が今も「のこっている」は、常に「っている」と表記し「残っている」はまったく使わない。実際には後者の方が優勢なのだが、史跡類に関する遺構という熟語の存在に依る。価値あるものが今も存在することに関して「遺る」を用いており、「残る」はそれ以外の余り物、余剰という概念を含めたすべてについて用いている。「守る」については一般的な場面で用い、重要なものや重みを出したい場面では「護る」を用いている。同様に「助ける」は一般的な場面で用いるのに対し、ある人の補佐を行うような場合には「扶ける」を選択した実例がある。[d2]

・上記を総括する一般的法則として、同訓異字は元来の意味を尊重して書き分ける。例えば「みる」に関して「窓の外を見る」「テレビを視る」「ダムを観に行く」「医者に診てもらう」の如きである。これも上記と同様、見物・視聴・観光・診察という熟語の存在による。これ以外の漢字を当てたものを誤用とまでは考えていないが、ニュアンスは正確には伝わらないと考えている。手書きの場合、漢字を思い出すのが困難なせいですべて「見る」で済ませてしまう場合もあるだろうが、読みを入力すれば適正な漢字は日本語FEPが自動的に選び出してくれるキーボード入力に固有の近代的慣習とも言える。一部にこのような漢字書き分けをナンセンスだと唱える意見もあるが、現代社会では手書きよりも機械が提示した候補から選ぶという相対的に負担の軽い環境の方が一般的である。適正に選択すれば漢字表記されないよりも遙かに正確なニュアンスを伝えられる利便性があるため、この種の漢字書き分けは当然のものとして受けいれている。

・現代国語で漢字が存在し一般的にも漢字表記される副詞類は、原則は漢字表記を援用している。しかし「かならず」や「おそらく」のように敢えて平かな表記している箇所がある。これは漢字表記されるよりも文字数が多くなり目に留まりやすい効果を意図している。即ち「かならず〜すべき」は「必ず〜すべき」よりも語義は強い。これは一般的法則として定着しつつある。行政が平成期に入って「常盤公園」の表記を「ときわ公園」に変えた事例が代表格である。市会議員選挙などのとき立候補者名が平かな表記される例が顕著に増えているのも、漢字表記よりも目に留まりやすいからである。

・調べれば判明するという方針により、特異な読み方をする地名など以外は漢字表記に振り仮名を用いていない。しかしごく平易に思われる熟語に振り仮名を配している場合がある。これは別の読まれ方をすると義がまったく変わってしまうのを避けるためである。例えば人の気持ちが移ろいやすいことを表現する場面で「人間は生物(なまもの)であるから…」などと表記している。この場合、振り仮名を取り去ってしまうとまるで訳が分からなくなってしまう。
【 誤用かも知れないものを放置している事例 】
・「ほしょうする」には類似する熟語として保証、保障、補償が存在する。最後の補償は「補う」の字義より区別されるが、保証と保障について取り違えて変換している事例があるかも知れない。実際の変換作業では、これまでに用いてきた経験則に基づきまったく感覚的に選択している。これは、同音で意味も極めて似通っている変換のうちどちらが適正であるか厳密に選択するよりも、そのことを延々と考えて作業の手が停まるデメリットの方が大きいと認識していることに依る。漢字の持つ造語力の大きさというメリットに対し、そこから構成される熟語に同音異義語が多く含まれてしまうデメリットという二面性と考えている。
【 その他の選択的表記 】
・同様に、読みの類似から取り違えられやすい例として「漸く」と「暫く」がある。振り仮名無しでは誤読が起こり得るし、手描き時代はしばしば取り違えていた。読みから自動的に漢字変換される現在では意味は異なるので取り違えられている場所はない。「等閑(なおざり)」と「お座なり」はニュアンスの類似程度しかないため、それぞれの意味に従って適宜書き分けられている。
出典および編集追記:

d1. 例えばコラムの Vol.3「厚東川に架かる琴川橋」やVol.15「神原踏切近くの重厚な橋」に「架かる」の使用例がみられる。

d2. コラムの Vol.73「街を護る地下トンネル」や Vol.72「山陽道を歩く【2】上山中」の本文で”南北朝時代に厚東氏を扶けようと…”という使用例。個人的に「助ける」は英単語の help に相当し「扶ける」は support と理解している。他方、遺跡に関する「遺る」の表記は、2023年頃からコラム本文で記述した場合、指摘事項が入り「残る」への書き換えを求められるようになった。個人的にはまったく賛同していないが、多くの方の目に触れる文章を配信するメディアの方針に鑑みれば容認すべき問題と考えている。
《 最後に留意すべきこと 》
以上の点に留意した文章作りを唱えるものだが、些かそれとは矛盾するかも知れない主張もしておきたい。具体的には以下の数点である。
(1) あれこれと深く考え過ぎない。
(2) 一旦自分が絞り出した表現を弄り過ぎない。
(3) しっくりと染み入る文章に出来るだけ多く接する。
(4) タッチタイピングは21世紀の読み書き算盤。
ひとたび書いたものを見直す推敲という作業がある。この過程で誤字・脱字を修正する他に重複した副詞句を取り除くなど前述した「こなれた文章」に反する要素を取り除く。しかしややもすればどちらの表現が良いか迷う場面がある。大抵の場合で答がなく「どちらでも良い」が正解ということが少なくない。そこで立ち止まって無益に考え過ぎると作業が停滞する。特に昔の物書きの場合は原稿用紙に認め、追加や削除を赤ペンで行う面倒があったが、現代人はキーボード操作ですべてが片付く。語句の挿入や削除はキー操作で容易にできるので昔よりはるかに効率が良い。そして効率の良さが裏目に出て、せっかく書いたものをあれこれ弄り過ぎた結果、オリジナルから乖離してしまう現象が知られている。経験則から言えば、いくつかの表現のうちどれにするか迷った場合「初めに思い付いた表現が最適」ということが多い。

何のジャンルでも良いので、いろいろな人が書いた文章を読むのは手持ちのストック(いわゆる語彙と呼ばれるもの)を充実させる助けとなる。どのような場面でどんな熟語や慣用句が用いられるか理解できる。限られた場面にしっくり嵌まるジグソーのピースのような表現を見つけたら、そのまま盗んで自分の語彙パレットに収録してしまうのが良い。文章を紡ぐのは無限の広さを持つパレットに色彩豊かな絵の具がセットされた中から適宜選び脳内統合してキャンバスへ展開する作業である。嬉しいことにこの絵の具はどんなに使ってもなくならないどころか、使うほど自分の手にしっくりと馴染み、時にはその使い方でさえも書き手の個性の一部となる。殊に書くことで生計を立てている人々ともなれば、基本的な作文技巧にプラスして独自の個性を文章に擦り込むことで多くの読み手を惹き付けている。

手持ちのストックが乏しければ、先述したようにどんなご馳走を頂いても「すごい美味しい」としか表現できない。これは作文技巧のみならず会話にも影を落とし、言葉のビタミン欠乏症とでも言える悲しむべき状況である。どこの国の言語も多彩な状況を表現し分けるだけの用語が準備されているのに、それらを習得する時間や態度を疎かにすればこの欠乏症は必然的に起こる。国語教育に関してもっと真摯に取り組むべきであることが多くの方面の人々に指摘されている。[e1] 一旦レベルダウンさせてしまった日本人の国語操縦能力を回復させるのは容易なことではない。

最後に、もし脳内に生まれたことを悉く自分の文書として効率的に絞り出したいならば、当然ながらそれを可能にするハード的手法を身に着けなければならない。手書きよりも習熟したキーボード操作による入力の方が速く、キー入力よりはしゃべる方が速い。しかし21世紀も進んだ今なおマイクに向かってしゃべるだけで正しい漢字変換も含めた日本語入力を可能にする一般的なデバイスは普及していないため、キーボード入力に頼る以外ない。

そうであるならキー入力で産み出される文章の量は、同時間内に鉛筆で手書きする量より多くなければならない。キーボードをいっさい目で追うことなく両手でタイプできる技能は必須である。ここで効率が上がらなければキーボードを叩く作業自体が億劫になる。キーを叩くことが車の運転と同様に「身体で覚えた」要素となれば、キーを目で追って人差し指で押し下げるという大脳に負荷をかける作業から開放される。実際そんな単純作業は身体の出先機関に丸投げすれば良いことであり、大脳は今考えていることをどう文章として紡ぎ出すかに集中させなければならない。

現代の学校教育ではキーボード入力は習得すべき技術としてカリキュラムに含まれているが、それを経ないまま社会人となった一定世代より上の人々は、自力で習得しなければ意思表明や発言がデジタルでやり取りされるのが常識となる現在と未来の社会から置き去りにされるのは確実である。これは文書作成技巧以前の問題ではあるが、作文技巧の前提として、紙と鉛筆による鈍足思考から超加速させたいならもっと真摯に取り組まなければならない課題である。
出典および編集追記:

e1.「FB|今の教育ではそのうち日本人は長文を書けなくなるかも知れない(2017/9/26)

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