飛び上がり地蔵尊【1】

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現地撮影日:2012/1/8
      2013/6/3
記事公開日:2016/7/6
飛び上がり地蔵尊とは常盤池の本土手西側にある2体のお地蔵様が格納された祠で、市道常盤公園江頭線のカーブ外側に存在する。
写真は市道からの撮影。


位置図を示す。


その知名度から飛び上がり地蔵尊は現代でも訪れる人が多い。
すぐ近くに屋根付きの休憩所があってベンチが置かれている。


近くに車を停められるスペースがあるせいか、立ち寄って両手を合わせる人が多い。
誰となく折った千羽鶴が奉納されていた。


手水場には屋根が付属する本格的な造りである。


一風変わった名前に相応な由来が想像されるだろう。知名度が高くかつ市道からも目立つため、飛び上がり地蔵尊は現代でも常盤池を象徴する一つの信仰対象のように扱われている。大変に歴史あるもののように思われがちだが、実のところ飛び上がり地蔵尊がここに誕生したのは常盤池築堤よりずっと後のことで、昭和初期である。

飛び上がり地蔵尊の由来については多くの書籍[1]で取り上げられているが、概要をまとめて以下に記述する。
築堤直後から水が溜まらず慢性的な渇水に悩まされてきた常盤池であるが、その問題は昭和時代に入ってもなお同様だった。特に昭和4年、灌漑用水の需要期になっても一向に雨が降らず、雨乞いの踊りや千把焚きも効果なく、ついに常盤池の樋門から水を取り出せないほどに水位が下がってしまった。
稲を救うためには樋門より下にわずか溜まっている水を動力で汲み出すより他なく、東見初炭鉱でポンプに関する知見を持っていた松本佐一氏がポンプの据え付けに乗り出した。

松本氏がポンプの据え付け場所を探している最中、雑木林の中に丸い石を見つけた。それはお地蔵様の頭部であった。
以前より松本家では不幸が続いていて、高千帆のお寺で「家の近くに胴のない地蔵様がある筈なので整えてあげれば幸いが来る」と告げられていたという。もっともそのお告げを聞いた当時は探しても見つからなかったので、さっそく地区の人と相談し胴体部分を造って一体のお地蔵様として安置した。
ポンプを据え付けた後もなお雨に恵まれず、30馬力のポンプを2台に増やして汲み上げた水を下木場(常盤用水東幹線)に流した。梶返や恩田方面の水を供給する切貫樋門でも20馬力のポンプ1台を据えて給水した。

9月21日のこと、ポンプによる過度の水の汲み出しによるものか本土手が半分崩落してポンプが泥の中に埋没しかかってしまった。ポンプを取りだそうとしたときその下から地蔵の胴体のようなものが浮かぶように見えた。重い胴体部分を協力して引き揚げると、それは前に見つかったお地蔵様の頭部と一対になるものだった。地区の人々は再び驚きこの地蔵を復元し、以前に造ってあった胴体には新しく首から上を造った。
地蔵様が2体安置されているのはそのためであり、泥水の中からまさに「飛び上がるように」見つかったことから現在の名前がついているという。
さて、このままでは既存の郷土書籍丸写しに過ぎなくなってしまうので少しばかり独自の考察(と言うか根拠に乏しい憶測なのだが)を加えてみることにする。
【 見つかったお地蔵様は何に由来するのか 】
地蔵尊の御堂には紛れもなく2体のお地蔵様が安置されている。本土手付近で2度にわたってお地蔵様の一部が見つかったのは明らかなのだが、特に何故頭と胴体が分離したお地蔵様が本土手近くの水中に埋没していたのかという疑問が生じる。
常識的に考えて造りかけたものの失敗したり壊れてしまったお地蔵様がうち捨てられたことは考え難いし、それが常盤池の水位の極度な低下の折りに、たまたま本土手が崩落したことによって発見されたというのも俄に信じがたい気がするからである。

この件について2つの根拠なき仮説を考えついた。
(1) 遙か昔に本土手付近の岸辺に祀られていたお地蔵様や御堂が落下した。
(2) 本土手の築堤にあたって人柱の代わりに埋められたお地蔵様だった。
早いうちに断っておくことに、本土手の近くにお地蔵様が存在したとかあるいは本土手に仏像を埋めたなどの事実はいっさい確認されていない。まったくの私の憶測である。
本土手が重要な場所なのは明らかであり、私設のお地蔵様の数体が祀られていたとしてもおかしくはない。築堤から昭和初期までの長い歴史の間、池で泳ぐ学童はあっただろうし、その折りには水難事故も起きたかも知れない。本土手樋門の開栓は初期には鉤のついた道具で木栓を引き抜くことで行われていたが、極めて危険な命がけの作業で、その際に水中へ落下しそのまま樋門に吸い込まれ命を落としたという話が(真偽のほどは不詳なままに)伝わっている。[要出典]いずれにしろ人命に関わる事故があればお地蔵様に限らず霊を鎮める何かを本土手の近くに祀るのは充分に考えられることである。特に最初の頭部の発見については、ポンプの据え付け場所を探そうと雑木林を歩く過程で見つかったと記述されており、古くから祀られていたものだったのかも知れない。

更に人柱の件については、常盤池の築堤に関して噂程度はあったにせよ史実としての記録は(当然かも知れないが)存在しない。また、築城にせよ溜め池の築堤にせよ、生きた人間を埋めて生け贄とする人柱は野蛮な行為と認識されるようになり、江戸期に入るまでには廃れていたのではないかという見方が存在する。[2]あるいは常盤池の本土手築堤でも生きた人間ではなくお地蔵様を造って本土手へ埋めて人柱の代わりとしたのではという見方はできないだろうか。
この考え方に沿うならば、飛び上がり地蔵尊として発見された仏像は、昭和4年の大渇水期に本土手の一部が崩れたことで遙か昔に埋められたものが現れたことになる。本土手は充分に突き固められたにしても、そこへ石仏という異質のものが含まれていたなら、水位が下がり支持力を失った土手はそこから崩れやすい。

なお、本件に関して実際に仏像が発見されたときの資料が存在していてここまでの説明との相違があったなら、当然ながらこの仮説は撤収される。

飛び上がり地蔵尊の周辺には、当時如何に灌漑用水が大切に扱われていたか理由の一部を知ることができる。


昭和37年4月24日、常盤水利組合による奉納と陰刻されている。


常盤池に水が充分溜まってくれなければ田畑は干からびてしまう。暮らしそのものが脅かされる時代だっただけに命の水に対する切実な願いが込められている。

なお、飛び上がり地蔵尊以前は、この場所は南蛮茶屋があったことで知られる。また、棚井と船木を連絡する石畳道の偉業で知られる千林尼が尼となって修行し故郷に戻ったときこの辺りに庵を構えていたと言われている。 [3]

手水場の背面には本土手の由来を示す石碑や樋門の構造図、説明板が設置されている。詳しくは本土手の記事を参照されたい。
出典および編集追記:

1.「ときわ公園物語」p.66〜67、「宇部ふるさと歴史散歩」p.74〜75、「ふるさと恩田」(ふるさと恩田編集委員会)p.102 など多岐にわたる。

2. 毛利元就が郡山城を拡張したとき従来の人柱の慣習に対して尊い命を奪うべきではないとして石に文字を彫ったものを埋めたとされ、これが東岐波古尾八幡宮や西岐波市民センターにもある「百万一心」の石碑の始まりである。 「宇部ふるさと歴史散歩」p.177
また、1857年(安政四年)の居能開作で人柱を求められた折りには当時飼っていた愛犬を供出し、以後も犬の像を造って開作の安全を願うと共に愛犬の冥福を祈っていたという。「なつかしい藤山」p.22

3.「厚東 第35集」厚東郷土史研究会, p.98

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