峠山付近にある廃神社

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記事作成日:2018/5/17
最終編集日:2018/6/5
情報この記事で扱う対象物および所在地が明らかではないため、暫定的なファイル名を与えています。後日ファイル名が変更される可能性があります。

ここでは、船木地区の名称不明の山頂にある誰も看る人が居なくなったと思われる神社について記述する。
写真は初めて当該物件にまみえたときの撮影。


位置図を示す。


この物件は山陽新幹線の峠山トンネルのほぼ上のピーク近くにある。ただしこの山頂を峠山と呼ぶのかは明らかではなく、近くに存在するもう少し高い山頂の名前かも知れない。手元に小字絵図がないため所在地の字名は分からない。この北側にある東へ長く伸びる沢地は字であることが分かった。[a1] ここでは上記のように「峠山付近にある廃神社」の暫定名を与えている。
《 概要 》
この物件は最初 Yahoo!地図を閲覧する過程で発見された。上記の埋め込み地図を拡大すると小屋のようなものが記載されているのが分かる。[a2]更に航空映像モードに切り替えると、山頂付近が刈り取られ何かの建物があるように見える。小高いピークに設置された構造物は携帯の電波塔などであることが多いのだが、これが明白に神社であることは地理院地図を参照することで後に判明している。

人里離れた山中に何かの神社があるらしいことが推定された後も、実地の調査はそれより遅れた。この案件のみの正体を確かめるために到達可能かどうかも分からない山道を延々歩くこととなるのが憚られたためである。結局、5月中旬に写真撮り直しを兼ねて船木地区を訪れたとき初めて調査された。

現地は小高いピークに向かう最後の坂道の奥に藪に包まれた鳥居が屹立する。そこから本堂が見えるが、鳥居周辺は笹藪の繁茂が著しく接近に労力を要する。境内は20m四方程度で石灯籠や手水石が存在する。

本堂は瓦葺きで扁額などはなく神社の名称は分からない。納められている仏像なども皆無である。本堂の床は一部が抜け落ち、屋根の片隅は瓦が崩れて土台の土部分が露出していて殆ど半壊状態だった。


屋根の端には個人名がマジックで書かれた板の札がぶら下がっていた。この他には古い殺虫スプレー缶が転がっていただけでおよそ人工物が見当たらず、近年誰も訪れていないことが示唆される。
【 この神社の素性について 】
上記のように、この神社には何も納められておらず抜け殻のようになっている。鳥居や石灯籠には大正期の年号がみられる。手元にある船木史跡マップには神社としての記載はない。当初は私的物件かも知れないと判断し、場所を伏せた状態でFBから限定的な情報を提出[a3]してみたが、現地訪問したことのあるメンバーは居らず新たな知見は得られなかった。

かつては参拝されていたものの、人里から離れていて参拝に不便を感じるようになったため祀られているものを麓の集落にある寺などへ遷したのではないかと推測している。風呂ヶ迫地区にある渡り八幡様も誰も訪れることのないまま竹藪の中へ遺っている点で類似している。その立地から、元はいわゆる村の鎮守様であったように思われる。
《 アクセス 》
訪れる人はまず居ないと思われるが、参考までに現地までの経路を記述する。この経路は後述する宇部美祢高速道路の跨道橋までのアクセス路に共通である。

市道開拓道路線を進み、興福寺の前より山中へ向かう道に入る。


上記のYahoo!地図を拡大すると興福寺の位置が分かる。寺の前は駐車場になっていて千林尼の石畳道への案内標識柱が立っている。お寺の前のコンクリート路を進むと車が転回可能なやや広い場所に出る。四輪が入れるのはそこまでで、それより先は徒歩となる。

この道は墓参道であり、道中は両側の起伏がある場所にお墓が散らばっている。途中で宇部美祢高速道路の上を跨道橋で横切る。この場所は専用道路を疾走するダブルストレーラーの撮影に好適である。
むしろその目的だけで訪れるのに向いている場所と言えるかも知れない


跨道橋より先も同様に墓地が散らばり、少しずつ山の中へ分け入っていく。最後の墓を見送った先からは荒れた山道となる。山道の踏み跡は鮮明であるが、近年訪れた人が少ないらしく落ち葉の堆積が著しい。もし実地に調査するならある程度汚れても構わない服装を要する。


急な登り坂が最後の墓を過ぎてからと目的地の少し手前の2箇所に存在する。尾根伝いの区間は歩きやすく道幅も広い。中電の測量杭や船木村時代の境界石もみられる。最後の登り坂を進むと、藪の向こうに鳥居が見えてくる。鳥居より本堂までの距離は僅かだが、日当たりの良い境内は笹藪が繁茂している。

四輪の入る限界地点から本堂までは徒歩で片道おおむね20分程度である。一本道であり道に迷う心配はない。この山道自体が本堂への参道だったようで、境内から他の方向へ明瞭な踏み跡は確認されなかった。
【 眺望 】
宇部美祢高速道路の跨道橋箇所を除き、道中および本堂のある場所からのいずれも眺望が得られる地点はない。本堂のあるピークは標高150m程度で、新幹線トンネルのやや南寄りには標高180mのピークが存在するが、周囲に雑木が伸びているためどの方向にあるかも見えない。
初めて現地を訪れて調査を行ったときの時系列記事。全3巻。(状態:3巻脱稿)
現地到達に要した労力は相当なものがあり再訪する予定がないため、時系列記事は当面の間限定公開扱いとする。
時系列記事: 峠山付近にある廃神社【1】
この限定記事の構成は以下の通りである。
《 調査に至った背景 》
《 現地へのアクセス 》
 【 跨道橋 】(一般記事へリンクする予定)
《 現地調査 》
 【 鳥居 】
 【 手水石と石灯籠 】
 【 本堂 】
《 帰路 》

画像枚数:50枚(埋め込み48枚、リンク2枚)計 11.2MB
テキスト:33.5KB(タグを含む)
この総括記事では画像は既定の小サイズ(480×360)に固定されているが、限定記事ではサムネイルを小サイズとしてクリックして表示される本画像は既定の標準サイズ(640×480)としている。

上記のうち宇部美祢高速道路の跨道橋についてはジャンルが異なるため、本文中には概略の説明のみにとどめている。後日道路セクションへ一般公開記事を作成してリンクを張る予定である。
《 記事公開後の変化 》
執筆完了時点でこの廃神社の名称などはまだ判明していない。

・石灯籠に刻まれた寄進者情報(岸田昌介氏)についての照会があったので提示したところ、大正期に各地で石塔や灯籠を寄進している厚東村出身の人物という指摘があった。[a3]更に撮影済みの写真を調べたところ、以前訪れた船木山田の市道焼却場線付近にある無名の祠でも同氏の名の刻まれた石灯籠があることが分かった。

・神社の名称はまだ分かっていないが、この神社がある山の名称が京能山であることが判明した。[a3]したがって峠山をキーワードにしたこの総括記事はファイル名を変更する必要がある。しかし京能山の読みに合わせたファイル名にすると、神社の名称がそれとは異なっているとき再々度の変更が必要になるので、暫く現状のままとする。
峠山という地名の由来に関する項目は峠山トンネルに移動処理した

・かつて船木あたりまで海の水が入り込んでいた時代、京能山には大きな松の木が生えていて海上からの目印になっていたと伝えられている。[a3]
出典および編集追記:

a1. 宇部美祢高速道路の下を通るボックスカルバートに与えられた名称より推察。

a2. この様子は既定値の「新しい地図を使う」表示では分かりづらい。埋め込み地図の下部にある「詳しい地図で見る」リンクより別ウィンドウを開き、右上の「前の地図に戻す」をクリックすると等高線と共に表示され見やすくなる。

a3.「FBタイムライン|廃神社」および読者からのコメントによる。(要ログイン)
地名としての峠山について
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