夫婦池・祠その他

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現地撮影日:2014/1/12
記事公開日:2017/12/27
この記事は、途中まで書きかけられたまま放置されていた。総括記事を作成しようとして最近気付いたので、内容も写真も古いまま最後まで書き上げて公開している。当初は夫婦池の堰堤周りにあるものを収録する積もりで作成していたので、表題も記事の保存位置も変えていない。画像はOneDrive依存であり、その後同趣旨の良好な画像を再撮影し差し替えているものは原典画像が存在しない。

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まず一連の遺構が存在する場所を地図で示す。


ポイントした場所は夫婦池の本土手の東端で、余剰水を流す荒手にも隣接している。夫婦池本体にやや突き出た小さな半島を形成しており、夫婦池に関連あるのではと思われる祠が設置されている。

国道190号の歩道から亀浦方面を撮影している。
半島部分はガードパイプがないので自由に出入りできる。


何の予備知識もなくこの場所を訪れると、何とも言えない異質な空間であることを感じるだろう。
《 不動明王の祠 》
建築ブロック造りの小屋のようなものが樹木の後ろに見える。
こちらには背を向けているので歩道から眺めただけでは何の建物か分からない。


実際、最初これを見つけたとき建築ブロック造りの小屋と外灯らしき支柱が見えたので、古い公衆トイレがあるのかと思った。

敷地へ入り込むことで小屋の正体が判明する。トイレではなく御堂だった。
国道ではなく夫婦池の方を向いて建てられていた。


この祠は夫婦池の汀を辿るというテーマを設定した初期に見つけていた。当時は祠や仏像というものに馴染めず薄気味悪いという印象があった。また、そのようなものにはカメラを向けるべきではないという考えがあって撮影していなかった。
現在もなお畏れ多いという気持ちはあるものの、撮影を躊躇することは殆どない。それどころか現にこうして誰でも閲覧可能なネットという世界に提示し記事を制作している。懸念材料があるとすれば、この祠に所有者があってその存在を広くは知らしめて欲しくないと願っている場合の処遇だ。[1]

したがって今回は未だ撮影していなかった祠の中を撮っている。
建築ブロック造りの祠の内部は3つに区切られていた。


中央がご本尊だろうか。数種類の石仏が据えられていた。奥には古そうな千羽鶴が架かっている。
線香を焚くこともあるらしく天井部分はかなり煤けていた。


左側に「不動明王」の文字が入った貼り紙があり、唱える文言が平かなで記載されていた。
このような文言をしばしば見かけるのだが未だに意味を理解できていない。


一番左の区割りには火挟みやスコップなど掃除道具が置かれていた。
興味深いのは壁に貼られた木版画のようなものである。ハクチョウとペリカンを描いたようにも見える。


右の区割りには新しい感じの石仏が置かれていた。
新鮮な感じの花は造花だが置かれているミカンは本物だった。


御堂の向いている側には錆び付いた支柱が立っていた。
外灯の残骸なのだろうか。てっぺんには部材が着いていない。


その下にはゴミなどを燃やすコンクリート焼却炉らしきものとおにぎり形をした大きな自然岩が据えられていた。


ベンチと焼却炉のようなもの。
割と新しい灰が溜まっている。最近燃やされたようで管理に訪れる人があるようだ。


一連のものはそう広くもない一角に集まっている。
背面は夫婦池に向かって下っていく斜面だ。


御堂の反対側から撮影。
夫婦池の向こうに石炭記念館の塔が見えていた。


元あった小さな御堂に後から被せるような形で今の御堂を造ったように見える。


夫婦池に関する時系列記事を公開していた時期のこと、この広場に見つかった御堂に関して読者の方から貴重な情報を頂いた。
固有名詞は伏せて原文のまま引用させて頂きました
夫婦池の本土手右手の流水口の所に不動明王が祀られた祠があります。この祠の由緒を簡単に述べると、いつ頃のことか定かではないのですが近所のある造園さんが祀られる過程において深く関わっておられるようです。この造園さんのご先祖様の夢枕にある時不動明王が出てきたとの事で、付近に放置された仏像があるから探して祀るようにお告げがあり実際に付近を捜索したところ発見されたようです。何か飛び上がり地蔵の由緒にも似ていますが、あくまで私がかつて祖父母から聞いた話しなのでいつ頃の時代の話しなのか良くわからないので調べてみたいなと常々思っております。おそらくかなり昔の話しだと思いますが。
飛び上がり地蔵尊の話にかなり似ており、もしかすると同混され後世に伝わったのかも知れない。
しかし現地には確かに物言わぬ不動明王が祀られており、今は藪で見通せなくなった夫婦池の方を眺めている。伝えるべきものを意図してここに造られた筈だ。

古来から水の得やすい沢地には人の暮らしがあった。未だ常盤池も夫婦池も存在しない江戸期以前は、塚穴川の集める水量は相当あったと思われる。深く刻まれたV字谷に見て取れる。
集落ができれば、恵みの水に感謝を捧げる祠が造られても不思議はない。私たちが未だ多くを知らないだけで、水が溜まり始める前の夫婦池の底や元の塚穴川が刻んだ深い沢地には、昔の遺留品が眠っているのでは…とも想像される。
【 記事公開後の変化 】
時期は不明だがその後この御堂周りが整備されたとき国道に面した入口にときわ観音と書かれた立て札が設置された。情報提供された限りではこの御堂も場所も私有地のように思われるので、設置者自らがこの名称を選定されたのだろう。記事の名称は書き換えないが、総括記事ではときわ観音の呼称を採用している。
出典および編集追記:

1. 祠の制作者がその存在を世に広く知らしめることを望んでいないのであれば、よほど特殊な事情がない限り誰でも容易に訪れる場所に公開しないものである。それ故に個人所有のものであっても記事制作するし、記事を撤収して欲しい等の要望がない限りはそのまま公開する。これは最近の判断傾向である。
《 花崗岩の石柱 》
この祠がある入口近く、塚穴川の縁に沿う形で花崗岩の石材が2本放置されている。


2本ともほぼ地面に埋もれている。そのうちの1本は正方形の穴が2ヶ所に空いている。


幟を立てるときこういった石柱に沿わせて建てて穴の部分に紐を通して固定することがよく行われる。


この石柱は以前から観測はされていた。しかしこのたび詳細な写真を撮ろうと調べている過程で表面に文字が刻まれていたことが判明した。

大正十二年十月改造 頭取 三隅久吾と読める。
より近接して撮影した画像はこちら:上半分下半分


この場所に同じような石材が2本置かれているだけである。


片方のものは2本の石柱をモルタルで接合しているように見えた。


文字が刻まれているということは、単純な縁取り用の部材ではなく何か重要な構造物の一部だったことが想像される。そして後日先ほどの御堂と同時にこの石材に関しても情報を頂いている。
ここのお不動様の祠は「ロッキング・ドール」設置の際に例のブロック造りになり、周囲も綺麗に整備されましたがそれ以前は松の木の枝が生い茂り、暗くて不気味な場所で、祠もとても小さかったです。
また、夫婦池に転落の恐れもあるからでしょう。大人たちから「立ち入ってはいけない場所」とされていました。

道路近くにあった2本の花崗岩の部材については国道の4車線拡張工事やその他いろいろ塚穴川関連の工事の結果、現在の場所に30年以上前から放置されておりますが、元々この場所にあった物ではありません。
ここに最初期あった御堂を解いたときの石材が置かれているのではと思ったが、元からこの場所にあったのではないという話なので、国道関連の工事で道路敷にかかったため取り除かれたのかも知れない。

現在でも夫婦池の周辺や塚穴川接続部付近は鬱蒼としていて接近にはちょっと勇気が要る場所である。かつてはもっと陰鬱で危険な場所だったようだ。先生や親から「行ってはいけません」と口を酸っぱくして言いつけられた場所が何ヶ所もあった。
そういう怖い場所を遠巻きに眺め、あるいはちょっとだけ近づき、どうしてそこが危ないのか想像を巡らせていたものだった。そうした「致命的でない危ない思い」をいくつか体験することで、本当に命に関わる危険を学習できたような気もするのである。

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