常盤池・本土手

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現地撮影日:2009/8/23
記事公開日:2013/7/14
本土手(ほんどて)とは常盤池を締め切る最大の要となる堰堤で、池の南端にある。
下の地図は本土手の右岸側開始地点を中心にポイントしている。


明治期に作られた 常盤溜井之略図 にもその記述がみられる。


現在は本土手を市道常盤公園江頭線が通じており、大まかな線形は上の古地図にほぼ一致する。

上の絵図で「木樋ヨリ出水ノ処」とあるのは現在の常盤用水路(東幹線)で、本土手を過ぎた先にある別の出水口は余剰水を排出するための悪水溝と呼ばれる荒手である。ただし常盤池の築堤直後は本土手の下流に溜め池は存在しなかった。これは悪水溝から流れ出た余剰水も無駄なく貯留するために大正期に造られた夫婦池である。詳細は以下の項目を参照されたい。
派生記事: 夫婦池
《 アクセス 》
地図で示される通り、本土手の上を市道が通っている。車で通れば一瞬であり、現在では単に常盤池の岸辺に近づく場所の一つとしか思えないかも知れない。

本土手付近の映像である。車が2台停まっている先の左側が常盤池になる。


本土手の始まるこの近くで市道は大きく右へカーブしている。道路線形は奇妙に外側へ膨らんでおり、上記地図にも古い記述が遺っている。この理由の詳細はこちら。
派生記事: 大きく膨らんだカーブの理由
この場所のすぐ左側には飛び上がり地蔵尊という聞き慣れないお地蔵様が祀られている。


飛び上がり地蔵尊については以下の記事を参照。
派生記事: 飛び上がり地蔵尊
地蔵尊へ参拝する人はしばしば上記のカーブの膨らみ部分へ車を停めている。駐車禁止区間なので長時間は停め置けないが、参拝などすぐ車を移動できる短時間なら問題はないだろう。
《 成り立ち 》
地蔵尊の右側に手水があり、参拝者はここで手を清めてお堂に向かう。しかしその背後にある本土手に纏わる碑文や説明板にまで目を遣る人は少ない。ここに本土手の概要を詳細にまとめた説明板がある。

現地へ行くことなく全文読めてしまう画像を掲載するのは気が引けるが、常盤池を理解するのに極めて重要な事柄なので、原典画像を掲載しておこう。
説明板および記載文の著作権はそれぞれの制作者にある拡大対象画像です。
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功績を讃える碑文や書物は一体に誇張して描写されがちだが、それでも説明文にある
まさにこの「本土手」の存在こそ、
現在の宇部市発展の原点と申しても
過言ではありません。
…の部分は、全くその通りであると強く同意したい。

歴史に「もしも」や「仮に」は禁句だが、この本土手が築かれなかったり、築かれても常盤池が思うように湛水機能を発揮できなかったら、現在までの宇部市の発展はあり得なかった。
仮に本土手が当時の時代造られなくとも、現地の地形の特異性を見抜いていずれは誰かが着手したことと思う。よしんば溜め池が造られなかったとしても文明の発展に伴い、宇部市も日本全国津々浦々に散らばる一般的な自治体程度には成長しただろう。しかしそこに至るまで慢性的な水資源確保に苦しむのはまったく自明であり、村から市へ変遷し発展する過程も数十年レベルで遅れただろう。この場所に常盤池の堤を造ることを決定し、細心の注意と労力を注ぎ込む先人たちの努力があってこそ今があると言っていい。

常盤池以前のこの地は常盤原と呼ばれており、全体的に穏やかな起伏がありながら現在の本土手および揚場付近で急峻になる地形だったとされる。上流部は黒岩山付近に至り、集水域は相応な広さがあった。かつての塚穴川が刻んだと思われる夫婦池より下流側の幅広の谷地からすれば、意外に水量豊富な川だったことが考えられる。[1]
江戸期に鵜ノ島干拓をはじめとする開作で田畑に変わりゆく過程で灌漑用水需要が高まった。この地に灌漑用溜め池を造ることに関する意見もほぼ同時期に産まれたと推測される。

本土手の位置は当初から現在の場所だったのではなく、初期の構想では現在常盤橋が架かっている場所だった。[2]しかし両岸の距離は現在の数値換算で100m強あり、湛水後本土手にかかる水圧が懸念された。その水圧に耐えうる樋門を造る費用の問題もあった。
最終案として現在の位置へ本土手を築くにあたっては、今の阿武町にある牛庵池の築堤に携わった彦十郎の尽力のお陰があった。広俊は彼を福原邸に招き、常盤池築堤の教えを請うている。この過程で本土手を現在の位置へ移動することが提案された。湛水された暁にも揚場より下流側で屈曲しているため堰堤にかかる水圧が緩和されること、現在の本土手の方が築堤延長を短くできること、樋門を西の端へ移動することで水圧を分散することが可能と判断したのが理由だった。彦十郎による改定案で築堤の費用も労力も切り詰められ、湛水面積は増大させることができた。[2]

説明板を見ると、元禄元年に藩へ新堤築造の計画を提出し翌年には許可されていながら、実際に着工されたのはその6年も後のことであることが分かる。その間築堤工事は進められず、元禄7年には灌漑用水確保に苦しむ梶返の農民から築堤の嘆願書が提出されている。
着手が遅れた理由は詳細には記録されていない。綿密な構造設計や水没により移転することとなる住民の代替地確保問題もさることながら、当時未だ完了していなかった蛇瀬池の築堤工事による影響が大きかったのではと考えられている。[3]実際、常盤池の本土手や余剰水の排出機構には蛇瀬池と類似する点が多く、施工経験や技術が盛り込まれている。

本土手はこの地に築き上げられて300年以上の年月を経ていながら、ただの一度も決壊したことはない。[4]池の水を取り出す洞樋の施工についても困難や苦労はあったものの、豪雨などによる機能不全をもたらすほどの破損などは記録されていない。
これに対して切貫の掘削工事では初期の段階で土砂崩落事故が起こっている

説明板にある当時の洞樋は既に使われておらず、従来からの常盤用水(下小場)と宇部東部向けの工業用水路に給水するための樋門小屋に置き換えられている。小屋から弁の取り付けられた鋼棒をハンドルで回して樋門を開閉する構造は、蛇瀬池にある樋門とほぼ同一である。

飛び上がり地蔵尊の真後ろに隠れるように一連の改修を記念する堤防修理記念碑があり、更にその後ろに本土手を示す石碑が立っている。


常盤池本土手完成を示す石碑。もちろん後年(と言うか比較的最近のはず)建てられたものだ。
フェンスの奥に見えかけているのが樋門小屋である。


樋門小屋に向かう道は、飛び上がり地蔵尊に隣接して設置されている。鉄扉に門柱も付属しており、樋門入口という銘板入りが設置されている。


ただし現在は一般向けにはこの入口は開放されていない。
園内のメンテナンス工事などでたまに開いていることがある
派生記事: 常盤公園・樋門入口
樋門入口の外側からは常盤池の護岸が始まっており、樋門小屋から用水取り出しを調節する鉄棒が水面に向かって伸びているのが見える。


市道は本土手の上を通り、歩道部分は張り出し桟橋構造で常盤池の上を通っている。


この張り出し歩道は、限られた幅しかない本土手の上に歩道空間を確保するために車道側面を補強するコンクリート擁壁に支柱を設置することで後付けされたものである。上の写真でも僅かばかり見えているが、擁壁側面には長い横方向のクラックが走っており、本土手の強度に影響を与えていないか懸念されている。

上の写真で正面やや左側に見えるコンクリート造りのお風呂のように見えるのが余剰水を排出する余水吐である。詳細は以下を参照。
派生記事: 常盤池・余水吐
過剰に溜まった水を排出する経路はこの場所に限られる。短期での豪雨に見舞われれば排水が追いつかなくなり余水吐の上を相当量の厚みをもった水が流れ落ちることになる。その状態が解消されるまでの間に本土手にかかる水圧の影響も懸念材料であり、リスク評価が求められる。[5]

現在では本土手と言っても造られた当時のものは、少なくとも目に見える場所には存在しない。僅か数十メートルの区間なら車ではものの数秒で通過するし、自転車や徒歩でも注意していなければ単純な常盤池の護岸部分に見えてしまうだろう。
出典および編集追記:

1. 揚場の「塚穴川水運仮説」を参照。

2. 冒頭の古地図を眺めると、揚場の西側に両岸から点線が記載されている。(赤字で「乙」と書かれた部分)
これは水位が低くなったとき現れる露岩または砂州と考えられる。揚場の左岸から眺めたとき、両岸から岩が張り出しているためにそこで締め切るのに適していると考えたのかも知れない。「ときわ公園物語」p.210 脚注による。

3.「ときわ公園物語」p.7〜8

4. ただし昭和4年の大渇水のあった9月21日、本土手の半分程度が崩落している。この崩落の原因として、常盤池はそれまで一定の水量により圧力を受けることにより保持されていたので、極端に水位が下がることにより本土手自体の保持力が弱まったからという説がある。この崩落において泥濘の中から引き揚げられたのが飛び上がり地蔵の胴体である。「ときわ公園物語」p.66〜67

5. 宇部市の防災マップでは常盤池そのものは危険溜め池として認識はされていない。溜め池の管理は市公園緑地課でなされているにしても本土手部分の強度や安全性についてどの程度把握されているか不明である。先日の短時間における豪雨では余水吐が過去にないレベルでの水量を排出しており、本土手への影響が懸念された。本件について市の防災危機管理課に照会したが、数百年もの間大きな崩落事故を起こすことがなかった事実に基づき安全と考えているという結果だった。(2016/6/24)
FB|常盤池の本土手が崩落したら何が起こるのか?(要ログイン)
《 その他の記事リンク 》
市道に沿って本土手の下流側を調べつつ踏査した記録。
派生記事: 本土手【1】
低水位時に余水吐の調査を行った際に本土手の張り出し歩道下を踏査した記録。
派生記事: 本土手【2】
《 個人的関わり 》
学校で常盤公園を訪れるときは正面入口から園内に向かっていた。本土手に相当する部分を歩いたことはこの記事を書く以前は一度もなかった。自転車で通ったことは数回あった筈だが、本土手付近で立ち止まって眺めた当時の記憶はない。覚えているのは車で通過したとき、本土手に差し掛かる手前で市道の上下線が松の木を挟んで分かれていたことのみである。

本土手について私が子どもの頃都市伝説的に語られていた話で「常盤池の堤には人柱が埋められている」というのがある。うちの母が語っていたし、あるいは幽霊出没などの件も含めて類似する話を小耳に挟んだ方がいらっしゃるかも知れない。
人柱に関しては重要な溜め池の堤にあって全国何処でもありがちな話であり、江戸期にあっては入水自殺の話も語られている。しかし今のところ私が常盤池関連の書籍を紐解いた限り、堤に真の人柱を立てたという記録は見受けられない。築堤工事中の怪我や事故などは間違いなくあっただろうが、人身事故の話も伝わっていない。
と言うかこの時代ではよほど大規模な人身災害が起きない限りその種の記録は遺さないようだ

常盤池の築造に関する是否や議論、代替土地問題にまつわる諍いは間違いなくあった筈だが、常盤池周りが都市伝説で語られるような暗くて怖い場所というイメージを持たれているとすれば、明白に否定されて良い。必要なのは歴史認識と現状の正しい理解である。

車を乗るようになってからは萩原方面への仕事に行くときかならず通っていた場所である。平成初期だったがこの時にはまだ本土手西側の松は存在していた。
現在でも萩原をはじめとする西岐波方面へ向かうときには自転車で頻繁に通る場所である。特に余水吐周辺は常盤池の水位を把握するのに最適な地点であり、通るたび注意深く観察している。
《 地名としての本土手について 》
記事作成日:2016/6/24
一般に本土手(ほんどて)と言えば、溜め池の堰堤部分を指す普通名詞である。常盤池の場合はその重要性から本土手は堰堤を指すのみならず小字にもなっている。地名明細書では沖宇部村の亀浦小村に掲載されている。小字絵図でも本土手という小字が掲載されており、推測されるように狭い領域である。制作期の異なる小字絵図には記載されていないものもある。現在の常盤公園正面玄関がある場所は受堤上という小字名であり、これは明白に本土手の上側を意味している。本土手の東側は東北平である。

西岐波村に生まれ船木の逢坂を中心に生涯にわたって道路や橋の普請を行ったことで知られる千林尼は、初期には本土手に庵を構えていた。

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