常盤池・揚場

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記事編集日:2016/7/16
常盤池における揚場(あげば)とは、池の南東部にある小さな湾曲部を指す呼称である。
写真は桜山[1]の端にあたる。


下の地図では揚場の大まかな位置を示している。


揚場は常盤池にある7つの主要な入り江には含まれない[2]が、常盤溜井之略図にはこの湾曲部に名称が書き込まれている。
「場」の字が若干異なるのは異体字である


この図では揚場の右岸が現在よりも長く描かれている。とりわけ右岸側の半島部に木々が描かれていない部分があることから元から周囲より低い部分だったらしく、この半島部の中ほどを削って本土から切り離す形で白鳥島に改変したと思われる。また、赤い文字で「乙」「丙」という文字が見られるが、これが何を意味するのかは今のところよく分かっていない。当サイトでは揚場を「ゼロ番目の入り江」としてファイル名を生成し、余水吐から常盤橋の左岸接続部までを対象に記事作成している。

常盤池の水が本土手へ向かう過程で、揚場付近でほぼ直角に折れ曲がっている。このことから揚場から本土手付近にかけて極めて堅い岩盤が存在するために常盤池以前の塚穴川が流路を変えざるを得なかったことが示唆される。実際、本土手より東側の揚場に至るまでの汀は殆どが岩場で、岸辺を並行に辿る道は殆ど存在しない。

北側にある兵右衛門屋敷との間の半島部分に遊園部分と湖水ホールを結ぶ常盤橋が架かっている。橋で仕切られた南側は慣習的に白鳥湖と呼ばれている。したがって白鳥湖は本土手と揚場、白鳥島を含んでいる。

周遊園路は常盤橋により池を横切っているので、その外側にあたる揚場周辺を訪れる人は少ない。常盤橋から桜山公園あたりまでは容易に接近できるが、入り江部分から先は古い護岸があるだけで道はまったく存在せず岸辺を辿るのは甚だ困難である。

揚場の左岸側にある半島部には常盤公園の臨時駐車場から接近できる。半島部にはサクラの木が植えられているが、ベンチなどは置かれておらずサクラの時期を除いて一般人が立ち寄ることは殆どない。
立入禁止とはなっていない


隣接する細長い入り江部分には、かつて使用されていたハクチョウの水上飼育箱が放置されている。
既に屋根が壊れた状態で半分沈んでおり、再使用される可能性はない。


揚場の左岸は民家の裏手にあたり、殆どが荒れ地となっている。護岸は初代タイプのもので、管理されないため傷みが激しい。護岸の中央から木々が育ったため大きく破壊されている部分が目立つ。


揚場とされる入り江の先端部分はかつて田畑だったらしく、現在もその痕跡が窺える。この場所は東駐車場入口のゲート前からあぜ道を経て到達可能である。
ただし私有地の可能性もある

揚場の右岸側は桜山[1]と呼ばれるサクラの名所となっている。ときわ湖水ホールの駐車場に隣接しており、かつては花見のとき場所の争奪戦が繰り広げられていた。以前は特に整備されない草地の斜面だったが、平成期に入って遊歩道が整備された。護岸も桜山付近からは新しいタイプになっている。

桜山付近の護岸下は平坦な露岩が目立つ。汀からはやや深くなっており、白鳥島を整備したとき削ったのかも知れない。


半島部の一角に緑色のキャンバスで覆われた獣舎のようなものが放置されている。
何の用途のためかは分からない。


この他に木製の台座のようなものが近くに置かれている。かつて飼育していたハクチョウ関連のものかも知れない。
現在も存置されているかどうかは不明
出典および編集追記:

1. 本編においての桜山は現在においての呼称であって大正期から昭和初期にかけて呼ばれていた噴水池近くの桜山とは異なることに注意。

2. 正面玄関の内側に設置された常盤池に関する説明に「北方に入り組んだ7つの大きな入江」という表現がみられる。
《 アクセス 》
ときわ湖水ホールのある東入口の駐車場ないしは臨時駐車場より歩いて容易に到達できる。徒歩や自転車の場合は直接臨時駐車場を経て接近できる。
しかし周遊園路などの道はまったく整備されておらず、常盤池において景観面の整備が遅れていることが指摘されている。[1]現在も護岸が藪に覆われ汀を辿るのは時期を選ばなければ非常に困難である。
出典および編集追記:

1.「ときわ公園|緑と花の計画」の20ページ辺り。
《 地名としての揚場について 》
揚場(あげば)は沖宇部村の亀浦小村に存在した小名で、大字沖宇部字揚場として正式な地先表示では現役地名である。ただしその名を現在に伝える構造物などは今のところ知られていない。

常盤池では入江の名称として常盤溜井之略図に記載されており、他の入江名と異なり「山口県地名明細書」にも記載されている。このことから入江となる以前、すなわち常盤池の築堤以前から存在していた地名の可能性がある。地勢的には常盤池時代以前は塚穴川が方向を大きく変える場所であり、揚場の名の通り舟を引き留めて積み荷を引き揚げるには適した地と言える。塚穴川筋は古くから人々の暮らしがあった可能性が強く、揚場より下流域にも水運を行ったことが示唆される地名が遺っているという主張が塚穴川水運仮説である。詳細は以下のリンクを参照。
派生記事: 塚穴川水運仮説
いくつか連なる古い地名のうち揚場はその中でもとりわけ水運の歴史を強く示唆するもののように思える。

江戸期の常盤池の築堤にあたっては当初本土手を現在の常盤橋がある位置に設ける予定であった。後にそれより下流にあたる現在の位置に変更されている。このことは単に常盤池の貯水量を増やすことに貢献したのみならず、本土手へかかる水圧を減らす効果があった。現在の本土手は広大な常盤池の湛水域に対して斜めに位置するので、押し寄せる水圧は本土手ではなくむしろ揚場の直角曲がりに位置する岩盤にかかる。
常盤池の本土手は昭和初期の大渇水期による部分的な崩壊を除き、水圧自体で崩壊したことは一度もない。もし現在の常盤橋の位置に本土手を設けていたなら、満水位となったとき果たして安泰にやり過ごせたかどうかが思慮されるのである。
《 その他の記事 》
護岸上を可能な限り正確に辿ったときの踏査記録。
派生記事: 揚場【1】

東側の入江 東側の入江に移動 西側の入江に移動 西側の入江
楢原兵右衛門屋敷

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