常盤池・兵右衛門屋敷

インデックスに戻る

記事作成日:2015/3/29
常盤池において兵右衛門屋敷[1]とは、明治期の古地図に記載されている主要な7つの入り江の一つである。


入江の先端部分の位置図を示す。


常盤溜井之略図における兵右衛門屋敷の記載部分。


兵右衛門屋敷は常盤池にある7つの入り江のうち最も小さい。
また、溜井之略図では入江の先端部が小さなハート型のように描かれているが、この汀のラインは現在も同様に観察される。


常盤池の周遊園路は、入江の先端部分をなぞるように通っている。かつては汀をなぞる園路があったようだが、平成期以降に青年の家から北部スポーツ広場まで作業用車両の通れる道が造られた。

上記写真の沢の上流部は民家がある場所の手前までが公地らしく、疎らに樹が植えられている。また、民家の横を通って相互に行き来できる小道が存在する。
市道まで繋がっていると思われるが実際に通ったことはまだない

常盤池の通常水位時において入江周辺には特に観るべきものはなく、散歩あるいはジョギングに訪れる人も素通りする場所である。低水位時に入江付近の汀が調べられ、興味深いものがいくつか見つかっている。

左岸寄りの入り江にはかなり大きい礫石が砂の上に散乱している。
古い石積みが壊れた結果かも知れない。


この近辺は周遊園路と標準水面との高低差が小さいせいか、護岸部が整備されず自然の岸辺になっている。倒壊ブロック前後の岸辺は侵食が酷く、樹木が傾いている場所がある。来園者が不用意に接近して踏み抜く危険があるので、周辺部分には縄張りされている。将来的には浸食防止の護岸が造られるかも知れない。

入り江の左岸側先端部付近には昭和後期まで民家が数軒あったらしく、常時水に浸かる護岸を一般の建築ブロックで施工するという、現在ではおよそ考えられない仕様になっている。


家屋は周遊園路にかかるため撤去されて遺っていない。しかし岸辺には倒壊した建築ブロックをはじめ、炊事場か風呂場のタイルが付着したコンクリート部材が散乱している。古くから常盤池の岸辺に面して家が建っていたらしい。


これらの家屋の状況は昭和40年代後半の航空映像で確認できる。現在の周遊園路と汀の間に数軒の民家が見えている。


入り江の右岸寄り先端部には古い石積みの痕跡が遺っている。その端にはかつて街灯が建っていたらしく基礎部分が岸辺に観察される。外灯の設置場所は現在の周遊園路より低いので、園路が整備される以前のものと思われる。


以上の様子は常盤池の水位が下がった時にのみ観察できる。

周遊園路は入り江の右岸側で半島部分を横切る本線と岸辺を辿る支線部分に分岐している。支線部分はかなり遠回りになる上に主だった見所もないせいか足を運ぶ人は少ない。年数回行われる常盤池の周遊園路ウォークイベントにおいてもこの枝線部分はしばしば省略される。
《 アクセス 》
周遊園路からは容易だが車では到達できない。平成期に入って青年の家から幅の広い周遊園路が造られたが、公園緑地課など作業用の許可車のみが通行可能である。外部から接近する近道として、常盤台県営住宅の裏を通って地元管理の道を突き当たりまで進む方法がある。
但し地元管理道の末端部からは押し歩きになる

周遊園路を歩く場合は、常盤公園旧東入口にあるジョギング来訪者向け駐車場に車を置くと良い。
《 地名としての兵右衛門屋敷について 》
兵右衛門屋敷(ひょうえもんやしき)[1]は大字沖宇部の常盤池東岸に存在する小字で、派生小字として北兵右衛門屋敷がある。南側で後論瀬、東側で織江という小字に接している。[2]

常盤池に存在する主要な7つの入り江の一つとして知られる。人物名を思わせる小字は他にもいくつか知られるものの、人名にまつわる屋敷まで含まれるものは市内では他に知られない。

兵右衛門は常盤池のこの入江(えご)にかつて住んでいた百姓の名とされている。兵右衛門に関しては2つの伝説が知られる。一つは常盤池の築堤により永遠に水没する定めとなることに反対し最後までこの地に踏みとどまり、水が家の前まで来たので九州の方へ去って行ったとする話、逆に真っ先に立ち退いて組頭としての模範を示したという話である。後者においては水を汲みに行った日に川へ棲むイモリに対して「これからはお前がここの主だ」と語ったという伝説がある。[3]このため常盤池の伝説においてはしばしば池の主として腹の裏の赤いイモリとして語られる。

明治期の地名を収録した「山口県地名明細書」には、大字沖宇部村の中には常磐小村が記載されているのみであり、隣接していた西岐波村にも兵右衛門屋敷という地名は現れていない。論瀬や揚場は既に現れていることから、兵右衛門屋敷という小名はながしゃくりと同様、常盤池の築堤後に元来入江の名称であったものが小名に流用されたのかも知れない。その場合もどういう経緯で入江に兵右衛門屋敷という名を与えたのかは不明なままであり、今後明瞭な答えが得られる可能性は甚だ薄いだろう。
《 その他の記事 》
低水位期に入江近辺を辿ったときの様子。
時系列記事: 兵右衛門屋敷【1】

東側の入江 東側の入江に移動 西側の入江に移動 西側の入江
揚場東條

出典および編集追記:

1. 読みは地下(じげ)の人はこのように読むが「へいえもんやしき」と呼ぶ人もあるらしい。「FB|2015/3/28のタイムライン(要ログイン)
小字絵図や書籍では「兵右ェ門屋敷」と記載されているものもある。

2. ただし後年作成された小字絵図では織江の字は見当たらず狩又と記載されている。

3.「恩田」p.30

ホームに戻る