塚穴川水運仮説

インデックスに戻る

記事作成日:2015/3/30
情報この記事は独自研究色が濃く、内容の信頼性に疑義が差し挟まれます。正当性を補強する資料や物的証拠が得られるまでは割り引いてお考えください。また、誤謬が明らかとなった場合は本記事は撤回されます。

塚穴川水運仮説とは、塚穴川筋にみられる昔の地名(小字)は、常盤池築堤以前に営まれていた水運に由来するという一つの主張である。
《 概要 》
塚穴川は夫婦池から瀬戸内海へ注ぐ短い河川で、夫婦池の水は現在において殆ど灌漑用水として利用されていないため自然越流して塚穴川へ排出されている。夫婦池は常盤池が過去に慢性的な灌漑用水不足に悩まされていることから余剰水を貯留する目的で大正期に造られた人工池である。したがって夫婦池も常盤池も存在しなかった遙か昔の塚穴川は、黒岩山の裾野にはじまる河川であった。

黒岩山の裾野から本土手に至るまでは常盤池の築堤によって広範囲が水没した。常盤池に沈むこととなった地域の地名は(それが存在していたことはかなり確からしいとしても)現在には伝わっていない。[1]しかし水没を免れた場所や夫婦池より下流側には人々の関わりと共に誕生した当時のままと思われる古い地名が観測される。

塚穴川筋の小字を上載せした地理院地図を示す。このような具合で小字が並んでいる。[2]
塚穴川から離れた場所および関連性の薄いと思われる小字は省略している


塚穴川の下流側から辿ってみると、江口・奥浜・苧漕場・女夫岩揚場という小字が確認される。[3]これらの地名はいずれも塚穴川による水運にまつわるという見方が可能である。

江口はそのまま川が海に注ぐ地であり、塚穴川に限らず同様な場所でよく観察される地名である。奥浜は「奥の浜」と考えれば当時、海運を営んでいた船が入り込める一番奥の地と考えられる。もし塚穴川で水運が営まれていたなら、奥浜は海運から水運へ切り替える一つの中継地だったろう。即ちここからは大きな船が入れないので、塚穴川を遡上可能な小舟や筏に荷を乗せ替えた。苧漕場は御漕場に通じ、小舟を漕いだ地として認識される。[4]現在の国道190号が谷地を横断する夫婦池の本土手部分には大小2つの女夫岩が存在していた。揚場は塚穴川を遡上したときの要所でここから荷を陸揚げしたと考えられるのである。

あるいは逆に塚穴川の上流部で伐採された木材を筏により川流しして揚場で引き上げていた可能性もある。塚穴川は揚場で大きく屈曲しており、筏を岸辺へ接岸するのに適していたかも知れない。

常盤池や夫婦池が存在しない遙か昔は、塚穴川は黒岩山の裾野まで集水域を持つ川だった。流域は現在の真締川より狭いものの相応な水量をもっていた筈である。特に揚場から女夫岩にかけては昔から露岩が多く、深い谷地を刻んでいた。交通手段の乏しい昔ではある程度の水量がある河川なら水運を営んでいたことは当然考えられる。

現在でも満潮になれば、海水は物理的には奥浜まで遡行するし、塚穴川の水量が豊富で海の潮も高い時期なら、流下速度がそれほど速くなければ荷を載せた筏を漕いで内陸部まで遡上することは可能だった筈である。
現在では樋門が設置されているがゲートが開いているときは海水はかなり遡行する


仮説では塚穴川筋にあるそれらしき地名の由来を水運に求めている。
《 仮説の妥当性について 》
一連の小字すべてが水運由来とは言えないにしても、常盤池の入江の一つである揚場(あげば)に関しては塚穴川の水運に由来することはかなり確からしいと考えている。ただし、この場合も奥浜まで舟を漕ぎ着け荷を載せ替えて運んだ…の通りとは限らず、上流側から川の流れに応じて運んだ物品を揚げたとも考えられるだろう。

常盤池は揚場付近で90度近く屈曲している。このことは塚穴川時代もそのような川筋だったことが窺える。揚場はその折れ点にあるので、塚穴川時代には舟をつけて荷の揚げ下ろしを行いやすい一つの拠点だったと思われる。ここは床波から本土手を経て上宇部村へ向かう街道、亀浦から岡ノ辻を通って藤山村へ至る街道の辻にも近い。陸運と水運(海運も含めて)の接合する重要拠点だったのかも知れない。

この他、直接の関連性は不明だが沖宇部村と西岐波村に跨がって揚場の北東に論瀬(ろんぜ)という小字が存在する。この付近は住居表示改訂が及んでいないので現在の正式な地名にも現れる。瀬は塚穴川もしくはその支流に由来する浅瀬と考えられるものの、地名に「論」の文字が含まれることは甚だ稀である。論には「論(あげつら)う」の訓読みがある。地名由来となった元として「論じた」内容があるいは塚穴川の水運に関することなのかも知れない。
出典および編集追記:

1.「常盤溜井之略図」では僅かに「此邉常盤原ト云フ(ここの辺りを常盤原と言う)」の記述が遺されているのみである。

2. 地理院地図の上載せ情報を単一リンクで示すことができないのでキャプチャ画像を掲載している。上載せ情報のない現地付近の地理院地図は以下の通り。


なお、一連の指摘は私独自の発想ではなくかつて亀浦に住んでいた読者からの小字配列に関する指摘による。

3. 一連の小字は小字絵図に記載されている。また、明治期作成の「山口県地名明細書」にも揚場、本土手、塚穴、苧漕場は沖宇部村亀浦小村に、江口、奥浜は沖宇部村乗貞小村に記載されている。

4. 苧漕場の「苧」とはカラムシと呼ばれる植物で、古来から織物などに使う繊維採取に利用された。苧漕場の由来は染め物にする繊維を塚穴川の水を利用して水晒しにしたという説が有力である。どの時代の絵図でも御漕場と表記された例がなく、したがって船を「漕ぐ」説としては弱い。

ホームに戻る