道々滝(仮)

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現地撮影日:2012/5/13
記事公開日:2012/6/1
情報この記事に登場する物件の呼称(道々滝)は記事制作上の暫定的な命名です。正式名称が判明次第、修正します。

冒頭の断り書きの通り、道々滝は正式名称とは限らない。早い話、滝と言うほど規模の大きなものではなく、元から名称が存在しない可能性もある。記事のロケーションも yoshiwa ディレクトリ配下に設定しているが、実際には善和川にある滝ではなく、その支流の吉原川に存在する。
フォルダ分類が繁雑になるので名前を変更して親ディレクトリへ移動している

この滝は以下の地理院地図でポイントされた場所にある。


ここが市内の何処になるかは地図を広域表示に変更しなければ分からない読者が多いだろう。
市街部から国道490号を北上し、善和交差点から更に500m程度進んだ下善和バス停付近から伸びる沢を流れる小川だ。この沢には民家が広がり、市道吉ヶ原線県道西岐波吉見線との立体交差部分まで伸びている。

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市道吉ヶ原線が沢を詰めた先、転落防止のガードレールが設置されている区間がある。
ここに名前の知られない三段の滝がある。


このガードレールとコンクリートブロックはごく最近になって設置されたもので、このすぐ後で語る私の幼少期の訪問時にはどちらも存在しなかった。


市道から見下ろしている。ブロック積みの高さはこの場所で2mちょっとだ。


振り返って撮影。
この近辺は全体に岩がちで、そのために小川の底が削られることなく滝になったようだ。


滝の上部へ移動し振り返っている。
一本の滝ではないが短い距離で5m程度の落差を流れ落ちている。これに呼応して市道も滝の前後で坂がきつくなっている。


今の時期にしては水量が比較的豊かだ。
幼少期の想い出と比べてもそれほど変わってはいない。


道路から動画撮影してみた。

[再生時間: 17秒]


ここを訪れるのは私にとって初めてではない。また、毎度の如く地図で滝を見つけた上で訪れたのでもない。幼少期に私固有の想い出があり、訪れた回数は少ないながら場所をしっかりと覚えていた。

このたび私は吉原川に沿って伸びる市道をレポート仕様に写真撮影するのに併せて、当時の「事件」を詳細に記事するための写真を撮りに歩いて来ていた。
当時を説明するに足りる程度の詳細な写真を撮るためには、藪漕ぎは嫌だなどとは言っていられない。何よりもスニーカーのまま足を濡らさず接近しなければならなかった。

露岩が顔を出しており、落下口の少し手前までは行けそうだ。


滝の上部は市道との高低差が小さく、川面まで降りることができた。洗濯板のような露岩を足場に小川を跨ぎ越した。


練積ブロックの切れた上流部には割石が乱積みされていた。昔はこんな感じだったのだろう。


ブロック積擁壁が些か興ざめだが、それ以外は滝の姿は昔とそれほど変わっていないと思う。元から幅が狭く、こんな具合に階段状に落下する滝だった。


可能な限り足を濡らさず、誤って滑ることもない乾いた岩の上を伝って滝の落下口に接近した。
岩の表面を洗っている部分の水量が多い。これ以上は接近できない。


さて、そろそろここで何があったかを語らなければならない。それも単なる幼少期の水遊びの想い出ではなく、戦慄を覚える「あの事件」を…

私が小学4〜5年頃のことだったと思う。水遊びに来るくらいだから季節は夏で、兄貴も一緒だったから夏休みのお盆頃ではないかと推測される。
川で泳ぐとなれば、この近辺なら善和川が好適だった。従兄弟の家から近いし、当時の善和川は大人でも下手をすれば流されかねないほど充分な水量があったからだ。
実際幼少期に足の届かない深みまで流され溺れかけた

河川での遊泳は当時既に学校で禁止されていた。もっとも夏休み前に学校で配られる「夏休みの過ごし方のきまり」というプリントは、自分の住む校区内の話で親戚の家のような校区外ではあてはまらないと(勝手に)考えていた。親は泳ぐなとは言わなかったし、私たちも一人で泳ぎに行くことは決してしなかった。

さて、下善和バス停から善和川の支流になる小川(最近になって吉原川という名前を知った)があり、そこに三段の滝があるということは従兄弟が教えてくれた。恐らく遊んだことがあったのだろう。
「この裏に滝があるけえ行って水遊びせんか?」
「どこにあるん?遠いんか?」
「そねえ遠ゆうない。歩いてすぐじゃ。」
初めての場所は何処であろうが新鮮であり、私たち3人(私と従兄弟と兄貴)はすぐ水遊びできるように海水パンツ一丁でこの場所まで歩いて来た。
市道を起点から歩くのではなく途中まではあぜ道を歩いたと思う

今でもそうだが、滝は下からはまったく近づく方法がなかった。私たちは靴を脱ぎ、今回私が撮影に降りたのとほぼ同じ位置から小川へ入った。
滝は何段かの階段状になっていて、その上をかなりの水が流れ落ちていた。極端に高い階段部分はなく、十分に注意すれば幼少期の自分でも直接昇降することができた。

流れ落ちてくる水を全身に浴びながら岩肌を登るのは心地よかった。いつも行く市営プールの水よりはるかに冷たい流水を浴びつつ周囲を探検した。しかし兄貴や従兄弟は一通り水浴びしてもう満足していたのか、私より一足先に滝の上へ登っていた。

上から従兄弟たちが自分を呼んでいるようだった。
「そろそろ帰るぞー」
このとき私はまだ滝の中ほどに居たので、流水に逆らって岩肌を掴み、上部を目指した。2人はまだ川の中に裸足で立っていたと思う。
もう少し遊びたかった私はこう言った。
「もう帰るん?」
それは私の10年に満たない生涯最後の言葉になっていたかも知れなかった。

最後の岩の段差を越えようとしたとき、私の身体は重力から完全に開放された。
岩の苔に手を滑らせたのだ。
最初に手を滑らせたと思う…後転する形で落下したことから

臨死体験をした人に共通する証言の一つに「時間が異常にゆっくりと流れる」というものがある。明らかにその体験だった。私は体育の後転のスタイルで数段の岩肌を転がった。落下している間も意識は完全にあった。岩肌、木漏れ日の空、流水…それらの景色が全くランダムに目まぐるしく入れ替わった。自分の身体が転がり落ちる音すら聞こえていた。痛みは殆どなかった。途中でバウンドしたかも知れない。とにかくそれほど大きくもない滝ながら、何処まで転がり落ちるのだろうかと思えたほど時間が長かった。

身体が完全停止したとき、私は滝の一番下に「着地」していた。それは全く痛みを伴わないきれいな着地だった。それが可能だったのも、たまたま滝壺付近に砂が溜まり、クッションのような役目を果たしてくれていたからだ。私の身体は丸まったままお尻からそこへ落ちる形で停まった。

再び元の時間の流れが戻ってきた。

心配した2人が再び降りてきてくれたと思う。しかし私は心理的な恐怖を味わった以外何の怪我も負わなかった。骨折はもちろん酷い打撲や捻挫、出血箇所もまったくなかった。本当にかすり傷程度で済んでいたのだ。

それが如何に稀有な事態だったかということは子どもながら自分の目で確認できた。溜まった砂地にお尻がめり込む形で漸く停止したとき、私は振り返って自分の位置を確認していた。
ほんの数十センチほど後ろには
尖った大岩が控えていた。
落下地点がもう数十センチ先だったら、私は間違いなくその大岩に後頭部を激しく打ち付けていただろう。後から思えば全く「人の命は紙一重」な状況だったのだ。

帰りは何処から上がったか覚えていない。怪我こそしなかったものの、自分は鷲に追い回され九死に一生を得て逃げ延びた小鳥の如く怯えていた。多分2人の助けを借りて市道に上がり、黙って帰ったと思う。もちろんこの滝で起きたことは親には暫く話さなかった。話せばこの場所へ行くのはもちろん、川遊び自体禁止されると思ったからだ。

もっともこれほどの怖い目に遭えば、さすがに同じ場所へ遊びに行こうなどとは思わなかったらしい。実際、私がこの場所を訪れたのは、自転車を手に入れて周囲を乗り回しながら景色を写真に収める「テーマ踏査」なるものに価値を見いだした数年前で、野山を後にする直前が最も古い訪問だった。
当時のことは兄貴も従兄弟も覚えていて、兄貴はあの場所を指して「お前の落ちた滝(き)」と呼んでいた。[1]
ほとぼりも冷めた頃、私と兄貴はこの場所で起きた事件のことを親に話した。親はそれ以前の諸々の事件も知っているので、常々親からこう言われたし自覚もしていた:
「あんたは善和で3度死んでいる」
この「滝落下事件」はそのうちの一つなのだが、他の2つもすべて善和を舞台にした事件だったという事実は何とも奇遇だ。
他の2つの事件がどんなものだったかこのホームページでお話する機会があるかどうかは分からない。
今まさに同じ場所へ位置し、腕を伸ばして撮影している。
ブロック積みで景観は若干変わったものの、当然ながら滝の落差や形状はまったく変わらない昔のままだ。


水流の少ない場所には岩の上に苔がびっしり生えていて、見るからに滑りそうだと分かるだろう。

泳ぎ回れる程の水量はないが、流れは清涼で夏場の水遊びには確かに好適だった。
しかし水面下に隠れた岩にも結構苔が付着していて、思いがけず滑るのだった。


川面まで降りて水面ぎりぎりまでカメラを差し出して動画撮影している。

[再生時間: 19秒]


3年前、初めてここを訪れたときの写真である。
秋口だったせいか滝の上部を覆う木々が薄く、今よりは滝口がよく見えた。


このときは今回ほど無理して落下口まで接近せずに撮影していた。


岩肌は薄い茶色が目立つ。滝と言えば黒々として尖った岩が乱立する場所が多いから、この岩の色彩からすればそれほど圧迫感はない。
霜降山をはじめこの近辺一帯はこうした岩がかなり多い。これが風化して破壊され小さな粒となったものがいわゆる「真砂(まさ)土」である。粒の揃った真砂土は水はけが良く審美性に優れるので、庭土に搬入されたり道路の路床として使われる。
近辺には業者の所有する真砂土採取の山がいくつもある

できれば滝の下からの撮影も行いたかったが、せっかく幼少期に辛うじて拾った我が命をデジカメ撮影如きであっけなく散らせるリスクに晒したくない。素直に市道へ上がり、この後市道の終点まで撮影して少しばかりその先まで探って引き返してきた。

引き返したとき、名のない三段の滝から少し下ったところにもう一つ小さな落下口が市道から見えた。


裸足で川の中に入ることさえ厭わなければ、ここから遡行してあの滝の下まで行けると思う。しかしそこを歩いた記憶がまったくないので、一度きり水遊びに来たときも滝の上から降りて再び登って帰ったのだと思う。

市道よりズーム撮影する。
落差は1m弱だが落下口に岩が少ない分だけ淀みが生じている。
この落差を利用して山側に灌漑用水路を設置しているのが見える。


この用水路は山の斜面をなぞりながら国道の善和交差点付近まで流れ周辺の田畑を潤している。この場所まで辿った記憶はないが、やはり幼少期に下流側から歩いたことがある。幅は狭いながらもの凄く水量が多く流れも速い自然の用水路だった。

この小さな用水路に関しても遙か昔の想い出があるのだが…[2]
こちらは私ではなく兄貴が幼少期にかなり危険な目に遭っていたらしい
それはまた好適な写真が撮れた折に記事でお伝えしよう。
出典および編集追記:

1. この読みは些か奇異と思われるかも知れないが滝落下事件から時代が下って私の高校生時代に兄貴とのみ限定でそのように名付けていた。

2. これは吉原の高い位置にある田へ水を回す古くからの灌漑用水路と思われる。素堀りの水路で幅は数十センチ足らずなのだが灌漑用水需要期にはかなりの水量が流れていた。この水路は兄貴と私、従兄弟を含めて「厚かましい川」という勝手呼称が与えられている。この命名の由来に合理的な説明を与えるのは(元々が子どもの発想なので)かなり困難である。
《 記事公開後の変化 》
項目記述日:2017/5/17
この滝は道々(どんどん)滝と呼ばれている可能性がある。滝の名称はともかくこの横を通る市道吉ヶ原線は短い距離で急な坂になっており、道々坂と呼ばれていることを地元在住者により確認できている。この道々とは周辺の小字である。正規には「どうどう」と読まれる筈であるが、在住者からは「どんどん」の読みを聞いている。
その呼称は学童期に従兄弟がそのように言っていたような記憶もあるが定かではない。

周辺には道々の他に向道々のような派生小字を絵図で確認している。したがって滝の名称を吉原滝(仮)から道々滝(仮)に変更した。
ただしファイル名は変更していない

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