草江1丁目の生活道

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現地撮影日:2012/6/3
記事編集日:2013/12/4

恩田5丁目(草江1丁目を含む)の私設マップはこちらを開いてください。

ここでは、草江1丁目の生活道についてまとめて収録している。

《 丸信恩田店の買い物道 》
恩田に暮らしていた頃、自転車で丸信恩田店までよく買い物に行っていた。そのとき往路として通るのは2通りあり、市道恩田2号線経由とこの道だった。[1]
幅が広く平坦な市道に対し、この道は狭いし最後にちょっと嫌な登り坂がある。買い物目的では次第に通らなくなったが、その他の目的でしばしば訪れた生活道なので恩田5丁目の記事として掲載する。
草江1丁目の項目に移動しました

記事化の対象区間は、市道神原町草江線と国道190号に挟まれた部分である。
下の地図では、スタート地点とした市道神原町草江線との交点をポイントしている。


この生活道は中川と呼ばれる水路に沿っている。しかしこの水路に名称があるのを知ったのは最近のことであり、恩田に暮らしていた頃には後でも述べるようにただの溝として認識されていた。この溝を境に西側は草江1丁目になる。[2]

地図にポイントした場所の映像だ。
中川水路は、市道神原町草江線のこの場所を横断している。


下流側の様子。
同様に中川沿いの道はある。しかし幼少期もこの道を通ったことは殆どない。[3]


水路の上に立ち、上流側になる北を向いて撮影している。
名前のついた川ながら殆ど排水路同然だ。


管理道に明るさ調整して撮影している。
水路は蓋掛けされておらず柵も市道に接した一部分しかない。途中の民家までは車が入れる幅の道があり、その先は自転車まで限定で通れる狭い道になっている。


中川はこの周辺の沢の西端を通されており、市道神原町草江線が沢を下り終えた場所になる。このため下流側から眺めると常に左側の敷地が高くなっている。

振り返って撮影。市道との高低差を埋めるように管理道は若干市道より低くなっている。


いくら私のホームページや用水路そのものに興味がある読者でも、恐らく99.9%以上の方にとっては「写すに値しない排水路」に過ぎないだろう。そう綺麗でもない水路にカメラを向け数枚撮影し、わざわざ独立記事を作成する意図が読めないに違いない。

私および残りコンマ1%以下の方(ホントにいらっしゃったなら奇跡的なのだが…^^;)なら、この場所でX十年も前に紡いだ想い出を自信もって語れるに違いない。

この犬走り状の細い通路を歩いたよね?


元がこの水路自体のネタだから相乗せ記事ではなくここに書くと、幼少期に居合わせた友達とここへ降り、足を濡らさず滑らないよう注意し頑張って先の方まで歩いたのだった。
現在では道路が高くなってしまい大人でも降りられない

この近くで遊んだというのも級友が近くに住んでいたからだが、2人で遊んだ訳ではなく他に何人も居たと思う。当時は遊び仲間の家を次々訪問して誘い出し、最後に訪れた友達の家の近くで遊ぶのがお約束だった。

水路の中に降りて生き物を捕まえるとかの目的はなかった。純粋な好奇心と、スリルを味わいつつ先まで進むという冒険心の成せる技だったと思う。今でこそ底に砂塵も溜まっていないコンクリート水路だが、下水道が整備されない昔は生活排水が流れ込んでいた。そのせいで水質が極めて悪く、富栄養化も手伝って底一面に水草が生えていた。棒きれで水草をつつくと、真っ黒なヘドロが流水を染めた。
中川に限らず当時はどこの小川も同程度に汚かった

この犬走り部分がどういう意図で造られたのか分からない。水量が少なければずっと先まで歩いて行けるのだが、田植えの時期になると水位が上昇し、犬走り部分の天端を濡らした。[4]

そして当時もところどころこんな具合で壁面の一部から漏水する場所があった。


水路の壁から漏水している場所は決まってコンクリートが茶色く染まっていた。金気を含む水が沈着するのが原因だが、小学生の当時は理由がわからず「壁からうんちが漏れ出よる」などと言っていた。

最後の一軒を前に、管理道は車が通れない幅にまで狭まる。
その少し前に右側へ分岐する経路があった。


この先は私道と思うので進攻はしなかったが、チラ見して思い出したことがあったので一枚だけ撮影した。検証不能で全くプライベートな想い出なので別記事にまとめておく。
派生記事: 秘密の基地
幼少期のスリルに満ちた水路遊びだけでなく、小学校を卒業してからもこの管理道にはお世話になった。狭いとは言っても自転車は問題なく通れるし、車に追い立てられず走れる利点があった。


一段高い私有地にあがるための階段。当時からあったと思う。
民地に続いているので子どもの頃から入ったことはない。


振り返って撮影。
車は通れない幅だがキチンと舗装されている。
昔は狭くなっている場所から先は真砂土だったと思う


民家を過ぎると、そこから先は現在スーパーとなっている敷地になる。
個人の建屋ではなく社有物件だから撮影にそれほど抵抗はないのだが、至近距離からの撮影は自重しておいた。
エアコン室外機に書かれた表示から社員の更衣室として使われているらしいと分かったので

記憶違いがなければ、右側の建屋はかつて存在していたスケート場の一般来訪者向けの入口だったはずだ。


昭和50年代前半まで、かつてここにはボウリング場とスケート場があった。
ボウリング場の玄関は現在のスーパーと同じだが、スケート場の入口は確かこの場所だったと思う
派生記事: 宇部アイス・スタジアム
現在はまるでずっと以前からスーパーであったかのような変貌ぶりだ。一段高い駐車場もギリギリまで車が停められるよう舗装されている。


以前は目隠しにイブキなどが駐車場と管理道の境に植えられていた。買い物客の増加に対応し、区画割りを変えて収容可能台数を増やしたようだ。

現在のアルク恩田店の前身だった丸信恩田店の時代、私はこの管理道も買い物の往来の選択路となっていた。
管理道と中川の間に柵がないので危険ではあるが、通る人が少なく自転車ですれ違う機会はあまりなかった。

ママチャリを漕いでいたときにはこの辺りから加速していた。
管理道の先を見れば理解できるだろう。


現在の国道190号はこの沢を埋める形で横断しており、車で走れば全く沢地の横断を意識しない。
しかし管理道は中川より少し高いレベルを通っているので、国道に出るには高低差を埋めなければならない。


最後が結構な急坂になっているので、ママチャリを加速して一気に駆け上がっていた。たまに向こうから降りてくる買い物帰りの人と出会うこともあり、そんなときは無理せず降りて押し歩きした。
昔も今も柵がない…転落した人がいたのではなかろうか

歩道へ上がりきったところで振り返って撮影。
中川水路横の敷地とは家屋一軒分の高低差が生じている。


ママチャリで買い物に来たときはここから再び店舗入口の坂を下っていた。
行きは荷物が無く軽いのでアップダウンの経路はそう苦にならなかったが、帰りは荷台に買い物を積んでいるので同じ道は通らず、国道沿いを走って市道恩田2号線を通っていた。
どちらかと言えば行きも市道恩田2号線を通ることが多かった

店舗が丸信恩田店からアルクに変わったのは私が恩田を後にしてからのことだった。
丸信恩田店時代の情報については、別途また記述することにしよう。
出典および編集追記:

1. いずれも私たちが恩田へ越してきた以前から存在していた。丸信恩田店以前のスケートリンクおよび第2宇部ボウル時代は父の運転する車で訪れていたのでこの道を通ることはまずなかった。

2. 通路は中川の西側にあるので、厳密には恩田5丁目ではなく草江1丁目の生活道である。しかし草江の生活道で記事化するほど想い出のある道がないので、便宜上恩田5丁目の項目に含めている草江の生活道の項目を作成し移動しました。

3. 皆無というわけでもなく、小学生時代にこの水路に沿ってどんどん下って行ったことはある。先では墓地や恩田長沢寮の裏側を経て市道笹山岬台線にでてくる。経常的に通っていた農道ではない。

4. 側面の土を押さえる擁壁の基礎である。意図的にこのような形にして溝普請のときの通路としているのだろう。
【 記事公開後の変化 】

現地撮影日:2013/11/24
記事公開日:2013/12/22
この方面を訪れたとき現地に若干の改定がみられたので報告する。
以下の4枚は1年半後に現地を訪れたときのものである。
水路の上にコンクリート板が架けられ車が停められるようになっていた。[2013/11/24]


両岸に車止めブロックが設置されているので、明らかに駐車スペース確保のためのものと言える。


中川水路上に架かっていた民家へのコンクリート階段は撤去されていた。
建築ブロックで塞いだ痕跡が見える。


最後の登り坂のところは低木が大きく伸びていた。


この道を通る人の殆どが現在のアルク恩田店への買い物目的と思われる。坂を登らずとも敷地まで階段があるので、坂の部分を通る人は殆ど居ないのかも知れない。

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