本山岬西海岸・第二次踏査【2】

インデックスに戻る

(「本山岬西海岸・第二次踏査【1】」の続き)

埋立地の誕生自体が昭和40年代以降なのだからそれほど古いものは見つからないだろう…しかし相当な長期に渡って誰も観察することがない場所なら、何か興味深いものが転がっているのではとも思われた。


排水桝の海側は大きく抉れてヒューム管が現れていた。埋立地の表面よりも背丈位に低く、下手に接近して落ちたら上がって来れないかも知れなかった。

桝は三方から敷地内の雨水を集めて取り込むようになっていた。
酷く錆び付いた鉄格子が落ち込んでいる。何のためのものかは分からない。
発泡スチロールの塊はクッションの代わりだろうか…


もうこれ以上一歩も踏み出せず桝の中を覗き込むことはできなかった。周囲は湿地帯で落下したらエラいことになりそうだ。

この桝に向かって溝状の水路が掘られていたので、埋立地の広範囲にわたって雨水を集めてここから海へ出しているらしい。


遠くからだと草が生えまくって分かりづらいだけで埋立地の至るところにこうした溝が造られているようだ。レンガ塔の第一次接近調査で進攻を阻んだお堀のような溝もそうだった。そして同様のものはかつて昭和開作埋立地を探索したときにも見つかっている。
これは排水用の溝を掘ったと言うよりはむしろ埋め立ての段階で意図的に土砂を投入しない溝状領域を残したのだと思う。

埋立地となる候補地の外側を護岸で海から締め切り産廃物や土砂などを投入する間も雨が降れば場内が水浸しになる。そのままでは作業に支障を来すので、埋め立てない部分を溝状に残して排水に利用する。そして工場の敷地や居住区などに転用する段階で溝の上側から順に潰していって全体を平坦にするのだろう。
埋立地の処遇におけるこの過程は市内にある東見初町の地名由来としてもよく説明される。宇部では炭鉱で生じたボタを海へ押し広げ埋立地を拡大していった。この最終段階で排水用に残されていた溝状領域を埋め居住区とした…この「溝を埋める」が現在の見初(みぞめ)という地名の由来と考えられている。[1]

この埋立地の名称を何と呼ぶのか分からないが、利用状況としてはほぼ満杯状態だ。転用のあてがないので溝がある状態のままになっているのだろう。

さて、進攻再開…
この辺りからコンクリート護岸の下の海辺に変化が現れる。小ぶりの岩が一面に散乱する浅瀬が見えてくる。


昭和40年代後半の航空映像からかつてこの辺りは海の方へやや張り出した陸地だったことが分かっている。土砂を削ってコンクリート護岸を直線的に設置し、護岸外側の土砂は埋立地の南側へ移動させたらしい。


間知石ではないが概ねサイズの整った岩が散乱しているというのも不自然だ。
古い護岸を解いてそのままここへ放置したのだろうか…それにしては量が膨大だ。


カメラを構えつつ眺めている間も段々と海の潮が上がって来ているように思われた。既に本日午前の最大干潮時刻は過ぎていた。行動範囲が狭まらないうちに浜辺へ降りなければならない。それは一面に石が散乱しているこの場所を過ぎた少し先であることは覚えていた。

この辺りは浅瀬で波の勢いが弱められるからかコンクリート護岸沿いに大岩は積まれていない。
波打ち際に何か古いものが転がっていないか護岸から観察した。


一面に岩が転がっているだけで炭坑時代を想像させる遺構は見つからなかった。
護岸は背丈以上の高さがありここから直接浜辺へ降りることは不可能だ。

このすぐ先、コンクリート護岸の真下に古い護岸らしきものが残っていた。
典型的な間知石だ。まるでトウモロコシの粒みたいに前面が平らで内側が細くなっている。


石垣を正面から眺めると菱形に見える断面部分しか現れないので、一つ一つの間知石は直方体をしていると想像しがちだろう。実際そのような形状の石材もあるが、菱形状に組み上げる谷積みの場合はこのような四角錐をしている。背面の空いた部分には裏込材を入れて安定させている。時代が下って間知石が練積ブロックとなってからも形状は同じで、裏込はコンクリートが使用される。
もっとも練積ブロック自体現在では施工量は相当減っているはず

ここで管理道は一旦護岸から離れて若干低木がちな埋立地の内陸部を通る。
護岸との間はみっしり藪になっているので海側は直接観察はできなかった。


この藪を過ぎたところに例の斜路が現れる。
初回踏査で訪れたとき初めて時間をかけてじっくり撮影した場所だ。


4年前に訪れたときと何も変わっていなかった。
海へ降りる踏み跡はむしろ当時より鮮明になっているようにも思える。釣り客が結構訪れるのだろう。


この場所だけ護岸が切られ、代わりに海へ向かって数メートル低い堤防のようなものが突き出ている。
後述するようにここが今回の再調査対象物件の一つだ。


かなりの下り坂になっているので自転車は護岸の上へ停め置いて歩いて下った。

護岸の切れ目から下ったところに溜まっている黒い石。
すべて石炭だ。これも4年前と変わっていない。
近接撮影画像はこちら


見かけは庭園などに敷き詰められる玉砂利のようだが、それよりも軽くコンクリート堤防のような構造物の上へ波で寄せ集められているのでまるで支持力がない。足を踏み入れるとズブズブとハマる何とも異様な状況だ。

長い間洗われていたせいか尖った部分がなく全体が河原の石みたいにすべすべしていた。
たまたま拾い上げられたこの石ころが今回の土産になった…^^;


4年前も一部をお土産に(?)持ち帰っている。外観から石炭と思われるがアジトにはライターなど火をおこす物品がないので確認はできなかった。長期間水で洗われているので高温で長時間炙り続ければ別として恐らく着火しないだろう。
石炭であることは恐らく確実として、何故にここへ散らばっているのだろうという疑問が起きる。波の力で削られたものが打ち寄せられたのか、それとも陸揚げないしは船便で運び出す際にこぼれ落ちたのか…
亀浦と新浦の境にある黒崎にも石炭らしき露頭が波打ち際に現れる。それは黒々とした大岩の状態で欠片はない。逆に本山西海岸のこの辺りは玉砂利状態のものしかなく大きな塊がない。波打ち際で容易に採取できるものは遙か昔に削り取られ、商品価値のない砂利状態のものだけが残ったのだろうか。

海に向かって突き出た堤防のようなものの上部には枕木のような材木が埋め込まれていた。
まだかなりの数が残っている。何かの方法でコンクリート部分に留めているようだ。


試しに埋め込まれた木材を引っ張り出そうとしたがどれも微動だにしなかった。

先端の海に近い側では材木が流出している部分が多い。


窪みは材木一本分のサイズしかない。コンクリートを流し込んで固まる前に埋め込まれたようだ。


護岸より低いこと、上部にこのような木材が埋め込まれていることより埋立地から海へ船を降ろす場所だったのではないかと推測していた。材木を埋め込んだのは押し出すとき船の底が削れてしまわないよう保護するためだろう。

海へ突き出たコンクリート部分から先は石積みが崩れたようになっている。一部は護岸のまま残っていた。


突端部分に立って振り返り撮影している。
中央に錆び付いた鉄棒が埋まっている。


これは正直何のためのものかよく分からない。船を押し出すならこんなものがあっては邪魔だろう。


さて、初回踏査を行った4年前も現地でこの構造物を丹念に撮影したものの、アジトへ帰って当時参加していた地域SNSへ公開する記事を作成する途中、これは炭坑時代のものとは無関係で時期も新しいものだと判断し詳細な記述を行わなかった。
まだ確定的ではないものの現在では再び炭坑時代のものか、あるいは少なくとも関連性がある構造物ではないかと考え直している。それにはいくつかの根拠があった。

(「本山岬西海岸・第二次踏査【3】」に続く)

出典および編集追記:

1. 人の所作は通例地名の由来とはなり難いが、現在の見初付近はかつて海であり人との関わりが始まった歴史が浅いのでこういったことが起こり得る。
東見初町に代表される地域は昭和40年代後半まで押し広げられたボタと排水用の溝や水溜まりがそのまま残っていた。現在の東海岸通りが直線的な4車線道路として整備されたのは昭和50年代に入ってからである。

ホームに戻る