本山岬西海岸・第二次踏査【3】

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(「本山岬西海岸・第二次踏査【2】」の続き)

初めてここを訪れた4年前は海に突き出たこの構造物の古さからして、炭坑時代のものと考えてかなり丹念に写真を撮った。この成果をいち早くメンバーに報告しようと当時所属していた地域SNSで記事を書き始めた。そのときは殆ど間違いなく炭坑時代のものだ、それも周囲に石炭が散らばっている状況からして、採取された石炭を積み出す場所だったのだろう…と考えていた。

何か古めかしい構造物を見つけたとき、その場所が数十年前どうだったかを調べるために国土地理院の航空映像が役に立つ。当時私は地域SNSで記事を書くにあたって裏をとるためにこの場所の航空映像を調べた。[1]そして大いに困惑しまたがっかりしたことに、昭和49年度の航空映像にはこの桟橋状のものは写っていなかった。現在の2列穴があいたコンクリート護岸も桟橋も昭和50年代に入ってからのものではないかという疑義が湧いたのである。

実のところ4年前に公開した記事では当初、石炭積み出しの桟橋だ!みたいな感じでかなり熱を入れて記述していた。しかし航空映像ではこの桟橋が写っていなかったことは、自分としてはそれまでの仮説を突き崩すに充分だった。それで書きかけていた記述を全部削除し、当サイトへ移植公開した初回踏査の記事のように「実は炭坑時代とはまったく関係なかった」のような結論を下すことになったのである。

造られた時期は別として、このたび再度考えを翻し炭鉱関連が疑われると考え直した理由は次の通りだ。
その1: かつては陸地部に存在していたのでは?
これは現在地を拡大表示した航空映像である。


同じ場所を昭和40年代後半に撮影された航空映像で調べる[1]と、この突端が存在していないように見える。少なくともコンクリート護岸や間知石積みは存在していない。
しかしなお古い航空映像をよく調べると、現在桟橋状の構造物がある場所に 海へ向かって筋状の経路が見えている。拡大表示できないので詳細は分からずただの通路かも知れない。同様の農道みたいな道が不規則に伸びている。元から陸上のこの場所にあったのかもと考えた。炭坑時代から存在していたものの陸地部にあったため砂を被るなどして上空からは視認できなかっただけということは有り得ないだろうか。

陸上にこのようなコンクリート構造物を造る理由が見当たらずかなり苦しいこじつけの部類であることを認めるとして、どうしても頭から離れない事実がある。
その2: この構造物が本山斜坑の延長上に存在していること。
本山斜坑の坑口は塞がれている。一般に海へ向かって掘り進む坑道というものがどれ位の勾配を持つものか分からない。航空映像では円筒状の竪坑らしきものが見えるので、あるいはまず竪坑を掘った上で水平か緩やかな下り勾配になっているのかも知れない。
仮に勾配の緩やかな斜坑だったとすると、埋立地を造るにあたって護岸を陸地側へ寄せたために坑道の上を保護する目的でこの桟橋状の構造物を造ったとは考えられないだろうか。

本山斜坑からこの構造物までの直線距離は150m程度だ。現在の護岸はかつての海辺より内陸部にあるため、埋立地を整備するとき土砂を削って移動させている。以前は陸地だった坑道の上部の土被りが薄くなるため、海水による侵食から保護するために船出し用途を兼ねてこの桟橋状の構造物を拵えたのではないか…というのが新たな仮説である。この説でいけば構造物それ自体は護岸と同じ昭和中期のものでも坑道に関連性は有ることになる。

他方、構造物の造られた時期や炭鉱との関連性をまったく否定する最もありそうなシナリオは、埋立地の護岸と共に昭和50年代に入って造られた船出し場に過ぎなかったという流れである。元は砂浜だったところをコンクリート護岸で締め切ることになったので、船を出す場を補償するために造った…本山斜坑の延長上に存在しているのは単なる偶然だった…と。

今のところ本当はどうなのかは分かっていない。護岸や間知石積みと同時期とするなら昭和50年代に入ってからで、その割に桟橋状の構造物はずっと古そうに見える。長期間海の水で洗われ続けるとそうなるのだろうか…

先端部分に立ち、ここから陸地側を6分割で撮影している。


砂が溜まり岸辺が湾曲している場所から北側は間知石積みの護岸である。これは昭和40年代後半の航空映像では明らかに存在しないので、昭和50年代に入ってからということになる。現在の視点からすれば、昭和50年代に入ってもなお前近代的な間知石で護岸を築いていたのは不思議な気がする。海水にも耐性があるコンクリート護岸を造る技術はあった筈だからだ。
埋立地の管理者からしてもコンクリートの方が安くつくように思えるのだが…

護岸との取り付け部分の施工状況からして、後からこの桟橋状構造物を造ったようにも思える。
当初からあったなら、真締川の河口部にある船卸し斜路のように角の部分も間知石で築く筈だ。現状はコンクリートで補修したようになっている。


さて、ここへ降りてくるとき自転車は護岸の上へ留守番させていた。しかし6分割撮影を行ったとき、この先にある「もっとも気になる遺構が見つかった砂浜」へ行くにはここから砂浜を歩いて行く以外ないと気付いた。
誰も来る場所ではないから心配するに及ばないのだが、自転車が視界から外れた場所へ置き去りというのは気持ちがよくない。万が一乗り逃げされたら帰りの足を失ってしまう。

そこで一旦埋立地まで戻り、遠方からも見えるこの場所へ自転車を持って降りた。
目視できるなら施錠しなくてもいいだろう…


石積みの末端部分はコンクリートで補修されたように見える。
コンクリート部分の型枠は一定幅の木材の跡がみられる。昭和中後期にのコンクリート構造物に特有だ。


4年前は岸壁の上を歩いて進んでいたために興味深い遺構を見つけたものの降りることができなかった。
今回は干潮の時間帯を狙って石積みの下を歩いた。


一ヶ所ほど石積みの上部に設置された管から水が流れ出ている場所があった。
埋立地の場内排水だろう。流出量が割と多くて砂地が少し緩くなっていた。


干潮の時間帯を調べて訪れたとは言っても4年前に比べてそれほど潮が引いている感じはしない。潮干狩りできる程の遠浅の砂浜ではないので、数十センチ潮位が下がったところで見かけはあまり変わらないのだろう。
波打ち際の黒々とした石は全部石炭屑だ。


せっかく広範囲を観察できるのだから波打ち際へみられる古そうなものは丁寧に調べた。
人工的なコンクリート塊が波に洗われていた。これだけでは何も分からない。


コンクリートが部分的に遺った鉄棒も見つかった。
古そうだがこれも時代特定ができないのでそう興味を呼ぶものではない。


この辺りの石積みは高さが5m以上に及ぶ。1974〜1978年の航空映像にも現れていないのだから昭和50年代のものということになる。そのことがどうにも信じられない。


石積みの中には部分的に素性の異なる石材が紛れ込んでいた。


これほどの石積みを昭和50年代にもなって新規に築いたとはどうにも考えづらい。もしかすると航空映像で砂浜のように見えているだけで当初から石積みがあって、埋立地を造るにあたって護岸を直線的に造り替えたとき材料を流用したのでは…とも思う。

もう一つ、先ほど波打ち際で見たのと似たようなコンクリート殻を見つけた。
レンガの跡のようなものがみられる。これは相当古いものだろう。


波がすぐ近くまで押し寄せる場所では石積み保護のために大きな岩が集められていた。


足元の不安定な岩を飛び石(飛び岩?)伝いにやり過ごすと…
4年前、護岸の上から眺めるだけだった第一の「謎のモノ」が見えてきた。


棒状のコンクリート柱が同じ方向へ並んで倒れているこの場所だ。
さすがに重いコンクリート柱だけあって4年前から何も変わっていない。


周囲は小さく砕かれた石炭屑が目立つ砂浜ながら、この周辺だけ人工物が散乱している。コンクリート柱をはじめ石積みの残骸らしきものもあった。それらの正体は…まだ分からない。今のところ「かつてここに何かがあった」と言えるだけだ。

今なら近くで観察できる。4年前に見つけたもう一つの遺構が何処にあるかを気に掛けながらも周囲を丹念に調べてみた。

(「本山岬西海岸・第二次踏査【4】」に続く)

出典および編集追記:

1. 航空映像(1974〜1978年度版)による。

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