![]() | この記事の物件名は地区名を元に暫定的に与えられています。正式名称が判明次第、修正し本タグを除去します。 |
上嘉川跨線橋(仮称)は、山口市上嘉川地区に2つ存在する。一つは県道199号開作上嘉川停車場線にある四輪の通行可能な跨線橋で、もう一つは上嘉川墓地に至る人道の跨線橋である。
位置図を示す。
●が県道の跨線橋、●が人道跨線橋である。
建設当初の原形をよく保っているのは人道跨線橋なので、ここでは人道跨線橋を中心に記述し末尾に県道の跨線橋を補足している。なお、双方とも正式名称が分からないので暫定的な呼称を与えている。
《 人道跨線橋 》
県道199号開作上嘉川停車場線において、上嘉川駅を過ぎて200m程度北上し高度を上げた地点に存在する。Google ストリートビューの映像を示す。
県道の一段高い側に山の方へ伸びる里道があり、人道跨線橋が少しだけ見えかけている。このショットからズーム操作すると欄干が初期の古いタイプであることが分かる。他のショットでは跨線橋が写っておらず、上空からの映像では山の影に隠れて何も見えない。しかし Google マップでは山側に真田四郎の墓を示すピンが打たれており、墓参道に至る跨線橋の存在が示唆されていた。
跨線橋の手前から撮影。
両端の欄干だけ他のよりも太いが、どの面にも跨線橋の名称などは記されていなかった。
躯体、欄干などすべてがコンクリート製で、低い欄干には鉄棒が通されている。
幅はいわゆる三尺里道に準ずる程度しかなく四輪は通れない。同種の構造を持つ跨線橋は他に数ヶ所知られているが、転落防止のフェンスなどが設置されておらずほぼ初期の状態を保っている。
現在調べられた限り、JR宇部線において人のみが往来できる唯一の跨線橋である。[1]塗装や部分的な補強は施されているかも知れないが、宇部鐵道時代に東線を小郡まで延伸したときの構造を保っている。上嘉川のこの辺りは宇部鐵道の第三期線として大正14年に完成している。
跨線橋が架かることで線路による分断が避けられれば足りるので、最初期からこの欄干があったかは分からない。
跨線橋から下を撮影。
架線が跨線橋に取り付けられた金具に固定されているので、危険防止のために遮蔽板が取り付けられている。同様のものは山陽本線などの人道跨線橋にもみられる。
宇部鐵道の電化は昭和4年なので、この遮蔽板は電化時以降のものである。橋脚構造に改変の跡はみられず車両限界は当初からクリアしていたとみられる。
起点側を向いて撮影。
集落を避けてかなり深い堀割で通されている。奥に県道の跨線橋が見えている。
墓参道から撮影。
橋脚をズーム撮影。
重量物の通行を想定していないので、コンクリート柱2本で支えている。
跨線橋の行き先は上嘉川墓地以外ないので、一般の往来は殆どない。墓地は間違いなく鉄道以前から存在していたので、鉄道の堀割によって集落と墓地の往来が分断されてしまうのを補償するために架けられたと考えられる。
【 真田四郎の墓 】
本来は史跡の墓地物件であるが、個別記事を作成する予定がないのでここで記述する。人道跨線橋を渡った先を進むと上嘉川墓地に至り、そこに真田四郎の墓と説明柱がある。
Google マップでの所在地は以下の通り。
この史跡は嘉川遺跡、史跡ポイントマップの38-1として紹介されている。真田四郎は土佐出身の人物で、元治元年の禁門の変に参加するなど福原越後公とも通じる時代の志士である。[2]
《 県道跨線橋 》
人道跨線橋の入口となる県道より更に北側にある。Google ストリートビューの映像を示す。
県道の終点からからの撮影。
県仕様の黄色いガードレールに銘板はなかった。
前掲の人道跨線橋からズームで撮影した県道跨線橋。
跨線橋の前後は藪になっているため橋脚など詳細を撮影するのは困難だった。重量制限として5.0tの標識が出ている。基本構造は人道跨線橋と同じで、四輪の通行に対処できるように後年補強されていると思われる。
《 アクセス 》
県道のこの区間は山陽街道(西国街道)であり、集落を通る路地の端には一里塚の跡がある。沿線は駐車禁止区間に指定はされていないが、道幅が狭くクルマを停められる充分なスペースが少ない。一里塚の横にある地区の不燃物集積所や県道跨線橋を渡った先の祠横に若干のスペースがある。自治会の土地と思われるが、人道跨線橋を渡るなど県道からある程度離れた場所まで行く場合は、クルマを停めて良いか周辺住民に尋ねた方が確実だろう。《 関連記事リンク 》