下の写真だけではそのサイズが分かりづらいかも知れない。
親橋のある正確な位置をポイントした地図である。
地図で明らかな通り、ここには目立った川が流れているわけではない。未だ名前が分からない細い水路が存在しているだけである。
しかし古い石碑のようなものは親柱で、「さ々やまはし」と平かな表記されている。
横から眺めると、もはや橋と言うよりは普通の暗渠だ。道路の下はボックスカルバート仕様だし、その手前も全体が幅600mm程度のベンチフリュームに置き換えられている。
欄干と言うよりは車の脱輪防止のコンクリート製腰壁だ。
しかしその両脇に親柱が備わっているのである。
もう片方には漢字表記で「笹山橋」となっていた。
橋と言うよりは親柱だけ遺されたボックスカルバート状である。道路を横断しているのは確からしいが、その相棒が何処にあるかすぐには分からない。
水路は道路を横断して逃げているのではなく、市道沿いに流れている。もっとも私が現地を訪れたときには水が流れていなかった。
暗渠の片側に大正12年5月の親柱が設置されている。
地域興しのネタ作りに後年設置された橋ではない。遙か昔からこの地にあった橋で、訳あって現在は姿を変えた橋の親柱だけが遺されたのだ。
実際、架橋年月は大正期ながら昭和57年に改修されているらしい。
現在はただの暗渠で、ここにも車の脱輪防止で建築ブロックが据えられていた。
(もう一つあったのだが車が当てて落としてしまったらしい)
市道の終点側から橋全体を撮影している。
交通標識の立っている右側から道路の下をくぐり、そこで折れ曲がって部分的に暗渠化された先にもう一つの親柱がある。
笹山はかつて暮らしていた恩田からすれば隣接地域だが、遊び友達が居た以外には私にとってそれほど馴染みのない地である。まして笹山とは言っても松山町に近い側なのでこの近辺のことは殆ど何も知らない。したがってこの橋にまつわる由来などは今のところ不明である。これまで読んできた主要な書籍にも見当たらない。
吹けば飛ぶような短い橋ながらキチンと昔からのものを遺し伝えているだけの何かがあるように思われる。何か情報を寄せられれば末尾に追記したいと思う。