梅田川の木橋

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現地踏査日:2014/12/21
記事公開日:2014/12/24
情報この記事に登場する物件の呼称(梅田川の木橋)は記事制作上の暫定的な命名です。正式名称が判明次第、修正します。

梅田川の下流、原小学校近くに今となっては極めて珍しい木製の橋が架かっている。
写真は市道梅田川東土手線より下流側から撮っている。


橋の中央部をポイントした地図を示す。


記述項目がそれほど増えるとも思えないのでいきなり時系列的に書くが、この日は原校区の歴史探索マップを求めて原公民館へ自転車で向かっている途中だった。それほど急ぐ理由もないので、厚東川を渡ってからは梅田川沿いにずっと遡行していた。
市道梅田川東土手線は初めて通る路線ではなかったものの、ネタ採取目的で自転車で眺めつつ通ったのは初めてで、道中いくつかの庚申塚を見つけていた。

そして離れた場所から木製の桟橋らしきものが架かっているのを見つけたときおぉっ!と思った。


木製であることはやや離れた場所から分かっていたものの、当初それは梅田川に面して家を構える住民が仮設したものかと思っていた。


用水路に架けられる木製の渡し板まで範囲を拡げるなら、それは特に珍しい存在ではない。御撫育用水路にもいくつか見られるし、常盤水路の下木場にも厚手のコンパネを架けただけの簡素な渡り板が見られる。

梅田川は外観こそ幅広の用水路に見えるものの、県管理の2級河川である。幅は御撫育用水路の倍くらいある。しかもここに架かる木橋は一枚もののコンパネではなく、丸太と踏み板を備えた橋だった。


素晴らしい。木橋なんて今や絶滅種とばかり思っていたのだが、現に架かっている木橋があったとは。
これは丁寧に撮影するに値する物件と感じたので、自転車を停めてしばし観察した。

更にこれは近隣住民が勝手に架けた橋ではなくずっと以前から存在し、梅田川の上を渡る橋として公的に認められている存在らしかった。
そのことは市道の取り付け部分だけガードレールが切られていることからも推察された。


橋を渡った先は民家の庭先のようであり、昔からの地区道のようでもあった。ただし踏み板のいくつかが欠けて危険なせいか、民家側にはチェーンが張られていた。

しかし市道の取り付け部分にはチェーンがなく、形の上では自由に通れるようになっていた。


これは…渡ってもいいものだろうか…
渡りたい…
もんのすごーっく渡りたいんですけど…


完全に渡り切らなくとも対岸のチェーンがある場所の前で引き返しても良かっただろう。本当に危険なら市道から入れないようロープが張られているものだ。踏み板が欠けていることについては別に危険とは思わなかった。それよりも橋が老朽化し、私が足を踏み入れたことで破壊されてしまうのが怖かった。体重を支えきれず崩落して川へ転落し私が怪我をするとか冷たい思いをする以上に、歴史ある木橋を壊してしまうことの方が大いに非難されるに値するからだ。そのため踏み板の部分には一歩も足を踏み出さなかった。

上流側から撮影。用水路に架けられた渡り板とは異なり、明確に橋と呼ぶに値する大きな要素がある。
河床部に橋脚を持ち、それもすべて木製である点だ。


ズーム撮影している。
ここから目測する限り橋脚の木柱は精々直径20cm、同等の横木で固定し上部はそれよりも太い丸太で全体を支えている。橋脚の根入れがどの程度あるのかは分からない。これだけで人が渡るだけの重量を支えきれるのが不思議だ。
橋脚のズーム撮影画像はこちら


それと言うのもこの橋脚構造だと川の流れる方向に対しては強くても横切る方向にかかる力には弱いからだ。鳥居状になった橋脚の正面から前後に揺さぶられる力を受けると倒れそうな気がする。

しかしそのような方向に橋が動く心配がない構造になっていた。
主桁は護岸の上へ無造作に置くのではなく、橋の厚み分だけ護岸から落とし込み直角方向には動かないようになっていたからだ。


つまり橋の全長は両護岸の間隔に一致している。それでよく橋全体が留まっているとも思えるのだが、護岸側にも橋が揺らいでしまわない工夫が施されていた。

道路の下から2本の石柱が水平に飛び出ている。その上に切断された丸太で高さを調整し、半割りの木材をクッションとしてその上に橋の躯体を載せていたのだ。


主桁の端を支える石柱は完全に道路の下まで潜り込んでいた。石積みの護岸を造る段階から造り付けられている。即ち梅田川の護岸が石積みだった時代からここに橋があったと考えられそうなのだ。

橋の詳細な構造や力学的な側面は私には分からない。しかし橋脚や橋台に係る施工の設計図や構造図は何度か見たことがあり、特に石材の上へ置かれた丸太は現在の橋梁における沓(くつ)そのものである。[1]
一見、私設の無造作に架けられたような橋が実のところ永年の使用に耐えるだけの理に適った構造を持っていたということだ。そういう木橋だったからこそ、平成の現代になってもなお存在し続けることができたのだろう。

アジトへ戻ってこの木橋について写真付きでFBページに公開したところ、原校区在住者と思われる読者から学童期に渡ったことがあるというコメントが複数寄せられている。[2]このことから私的物件ではなく里道として一般的に通行されていたように思われる。なお、後日入手した原校区の歴史マップにはこの木橋については言及されていなかった。[3]もっと重要視されてもいい原校区の歴史遺産だと思う。

冒頭のタグに示したようにこの橋の名前は分からない。恐らく固定された名前は持たないと思う。記事のファイル名はそのまんま木製の(wooden)橋としている。山間部ならまだしも橋脚付きの木橋がこれほど市街部に近い場所で存在するとも思えないから、ファイル名の変更に迫られる可能性は多分ないだろう。他方、もしこの木橋の他に市内に現存する木橋が見つかったなら、この記事のファイル名を変更して本項目は「宇部市に現存する木橋」などと総括記事化する予定である。

出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 支承

2.「FBページ|12月21日投稿分」の読者コメントによる。(要ログイン)

3. 史跡マップによるとかつてこの辺りは妻崎浦と呼ばれもう少し上流まで漁船が遡行し魚市場もあったとされている。

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