昭和中後期の日常生活

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記事作成日:2015/2/10
最終編集日:2020/1/7
注意この記事は書きかけ状態です。まだ正規に公開されておらず今後の編集追記で内容が変化します。公開水準に達した時点で更新履歴で案内し本タグを除去します。

ここでは、主に昭和中後期の生活全般についてまとめて掲載する。本編は一般論としての記述のみならず、最も居住年数の長かった恩田在住期を基本として居住地域や時代の習慣や体験を記録しているので、個人的関わりの項目を分離せずそのまま本編に盛り込んでいる。当面は項目ごとに分割して記述し、項目の記述量が多くなってきたら本記事を総括として詳細記事へ移動しリンクで誘導する。
《 掃除 》
当時は掃除をどのようにしていたか場所毎に記述している。
【 部屋 】
4畳半を兄貴と二人で使っていた子ども部屋時代では母親が掃除していたようだが、小学6年生になって2階に個室が与えられると階段と自分の部屋は自分で管理し掃除するよう求められた。窓ガラスは毎年大晦日が近づけば外側と内側を拭き、中連に嵌めてあった障子は自分で貼り替えた。一度だけだが高校生時代頃には自力で襖も貼り替えている。

階段は日々通るせいか思いの外埃が溜まった。また、白木を使ったせいか2階を建てた当初から松脂が出てきた。放置しておくと汚れを集めて段々と黒くなってきた。メーカー名は忘れたが脂取り専用の洗剤を買っていて、それを使うと強力に脂を溶かしだした。ただし手が荒れるのでゴム手袋で作業する必要があった。掃除した直後は表面が新品同様に甦り裸足で歩いた感触もサラサラになった。次に汚れたとき汚れを落としやすいようにワックスも何度かかけた。
【 便所 】
現在トイレと呼ばれるものは水洗は当然、便座は洋式、お尻を洗うのも紙ではなく温度のある水流というのが通例である。他方、昭和後期は厠(かわや)という呼称こそ廃れつつあったものの一般には便所、少し上品にはトイレと呼んでいた。市街部では昭和40年代の半ばには既に水洗が普及し始めていてそれらはトイレとは呼んだが、汲み取り式のものは殆ど便所と呼ばれた。
汲み取りが一般的だった時代は便器も殆ど和式で、洋式の汲み取り式は見たことがなかった。トイレットペーパーも普及し始めてはいたが、一部ではなお長方形の落とし紙を使っていた。この目的で便所の片隅に木製のカゴを置き、そこに落とし紙を百枚くらい重ねて置いていた。家によってはこれを好む人もあり、出先で便所を借りたとき戸惑うことがあった。

便所内部の掃除は、専ら水洗いだった。水洗いが容易にできるように床はタイル張りかコンクリート打ち放しだった。このため便所を出たすぐ先に手洗い場があり、ホースを繋いで床に水を撒けるようになっていた。洗い終えた水は便槽に落ちるように便器の下の付け根に小さな穴が空いていた。便所の下側の片隅には掃除用の棒刷りとうじ殺しのクレゾール液が入った茶色い瓶が置かれているのが一般的だった。消臭には黄色や緑色のセロハンに包まれたパラジクロルベンゼン製剤を吊り下げていた。

月に一度くらいのペースで市内を汲み取りの車が回ってきた。汲み取ってもらうためには庭先へ分かる形で黄色い三角の旗を出すようになっていた。[a1]巡回の日は広報などで分かっていたので、見逃すと次回まで汲み取ってもらえず最悪溢れさせる危険があった。そこで満杯にならなくても一斉に汲み取ってもらうことが多く、汲み取りの日には殆どどの家庭も庭先のブロック塀の上に黄色い旗が並んだ。汲み取りの車が来る時間は親が外出していて子どもが留守番していることもあり、そのようなときはホースで便槽に水を流して汲みやすくする処理が必要だった。汲み取りの車はチョコレートをしたタンク車で、やや離れた場所からでもカラスの子のメロディーを流しながらやって来るのですぐ分かった。窓を開けていると特異な臭いが部屋へ流れ込んできた。誰もが留守にするときは便槽の近くや水道メーターなど分かりやすい場所に余分に汲み取り券を入れた袋を置いておけば、係員が汲み取った容量分だけ券をちぎって回収していた。

汲み取り券は市役所で販売されていたが、そこまで出向くのは大変なので町内で個人営業している商店が販売を代行するのが一般的だった。恩田地区では国道190号に近い旧道沿いにある武末釣具店が行っていた。
【 煙突 】
薪で風呂を焚いていたために煙突に煤がこびりついた。放置しておくとどんどん煙突の内側に溜まり続け、勢いよく焚き付けたとき火勢で噴き上げられた熱風によって火の粉を飛ばすことがあった。自分の家では分からず近所の家から分かるものなので、しばしば火の粉が出ていますよと注意された。同じ週の週末には煙突掃除にかり出された。親父が屋根に上がり、煙突の雨避けの笠を外して試験管掃除用ブラシのお化けのようなものを突っ込んで動かすと、煙突内部に付着した煤が下へ落ちた。煙突内に溜まる煤の取り出し口は通常燃焼させた後に出る灰を掻き出すのとは別の場所にあった。専用のアイアンクラブのような形をした鉄の棒を突っ込んで煤を掻き出した。どれほど丁寧にやっても舞い上がる煤で汚れるのは避けられなかった。

当時は風呂を焚くのに薪や家庭から出る紙ゴミは普通に燃やしていたが、特に広告などの紙ゴミを燃やすと火の粉が飛びやすいのであまり沢山一度に燃やさないよう言われていた。殊に新聞紙は薪を入れる前に良い火種となったが、火の粉を飛ばしやすかったので燃やさなくなった。早い時期に新聞紙は廃品回収の対象物となっていたのも理由にあった。
【 庭 】
庭掃除は殆ど親の仕事で自分は草引きもしたことがない。庭木の剪定は親父がやっていた。枯れ枝は集めておいて庭の片隅に建築ブロックを積み上げて造った仮設の焼却炉で燃やした。いわゆる野焼きだが禁止されたのは平成期の十年代になってからでそれまでは何処の家庭でもやっていた。ビニル袋など変なものを燃やすと刺激臭のある煙が出て迷惑なので紙ゴミや木切れのみだった。

小学校中学年時代に庭へ造った池があり、水を抜いて清掃することが2回くらいあった。常盤公園で買ってきた鯉を放していたのだが、苔が溜まり過ぎるときたないし鯉も見えなくなるので、鯉を一旦近所の池へ預けて水を抜き、清掃した後に戻したこともあった。池は親父の俄拵えで水が漏るのか水位が下がることがあった。2度目の清掃で水を抜いたとき親父がモルタルで補修したのだが、その後で水を張って鯉を放したところかなりの鯉が死滅してしまったことがある。モルタルから出る灰汁が原因ではないかと言っていた。

この池の周囲に配置されている大岩は、親父が宇部・美祢高速道路の工事に携わっていたとき2Tダンプに積んで持ち帰ったものである。初期には庭へ山積み状態にされていた。休日のたびに親父は会社から借りた手動ウィンチで一つずつ岩を移動し始めた。池造りには自分も手伝いに参加し、当時のことを作文に遺している。この記事を作成する現在で庭の池は放置されているものの涸れ池状態で存在している。この岩は取り除きようがないので仮に家が解体されてもよほど大規模な再開発が行われないうちは遺り続けるだろう。
出典および編集追記:

a1.「FB|民家の庭先にある黄色い三角の旗と言えば?(2015/4/30)
《 洗濯 》
恩田へ越してくる前から洗濯機が普及していた時代で我が家にもあった。ただし当初は一槽式だったと思う。家族4人分なので洗濯量が多くうちの母は一度に全部洗うことをせず、下着や靴下と着る服はかならず別々に洗った。着た後のものを洗濯籠へ入れるときもかならず分けて入れることを求められた。母からすればいくら洗剤で洗うとは言っても顔を拭くハンカチと靴下を一緒に洗うことなど絶対に有り得ないという感覚のようだった。靴下など特に汚れの酷いものは風呂場で下洗いしてから洗濯機へ投入していたようである。

最初に靴下やズボンなどを洗剤で洗い、脱水機にかけて絞った後に再び洗濯槽に水を張って濯いだ。それから脱水して籠へ移した。それからハンカチや下着など軽い衣類を洗うので2度繰り返す作業になった。まだ全自動式は普及していなかったのでタイマーを回し、洗い終わったらその都度水場に置かれた洗濯機のところまで行って処理する必要があった。当時の洗剤は水へ投入し洗濯機を回すとモコモコと泡が立った。むしろ泡立っていないのは洗濯物の汚れが強くて洗剤が足りていないからと思われていた。[b1] その泡の中に手を突っ込んで遊んだものだった。
濯ぎの場合は蛇口を捻って水を出しながら行うのが通例なので、洗濯機が停まったらすぐ行かないと水道から水がダダ流れ状態になった。離れた場所で別の用事をしているときはしばしば近くに居る者に蛇口を停めに行ってくれと頼まれた。

物干し竿は初期は庭の奥に置かれていて、そこまで籠を運んで干していた。曇りや雨の日はベランダの差し掛けの下で干した。乾いた洗濯物は脱衣所の各自の籠へ戻され、自分で部屋へ持って上がってタンスへ入れるようになっていた。
興味深いことに下着や衣類がスーパーなどで販売されている状態での畳まれ方は概ね一定なのに、洗濯物の畳み方は各家庭によって少しずつ異なるようである。この違いがかなり顕著なのが靴下だった。我が家では靴下はそのまま二つ折りではなく、神社でひいたお神籤を木の枝にくくりつけるのと同じ方法で畳む。即ち爪先の突き出た部分を甲の所から60度に折り、残りの臑に当たる長いところを反対に回して中へ折り込むように畳んでいる。こうするとタンスの中で解けてバラバラになることがなくしっかり収まる。同棲時代に深く考えることもなくこの折り方をしてみせて彼女に驚かれたことがあった。
出典および編集追記:

b1. 泡が立つのは攪拌の結果だけの問題であって洗浄力とは関係がない。むしろ後年では泡だった洗濯水を排水溝へ放出するのは環境汚染の象徴とみなされた。最近の洗剤は洗濯中に洗浄液が泡立つことはまずない。
《 買い物 》
《 入浴 》
現代ならポリ製の浴槽に栓をして給湯ボタンを押せば勝手に所定の温度の湯が注がれ一杯になればチャイムで知らせてくれるだろう。私たちの時代には既に五右衛門風呂は消えてなくなりつつあった。それでも田舎に行けば未だに風呂釜は五右衛門風呂スタイルだった。このような風呂は子ども一人で入るのは危ないので常に2〜3人まとまって入っていた。

五右衛門風呂に代わって普及しつつあったのはコンクリートにタイルを埋め込んだ浴槽だった。当時まだ大きなタイルは高価でありホテルなどでしか見ることはなかった。もっともありふれたものは浴槽を半分程度埋め込んで全面に長方形ないしは正方形のタイルをびっしり貼り付けたものである。栓はなく一番低い位置に横方向へ伸びる排出口と、それより若干高い位置に筒状の穴が空けられていた。風呂の焚き付けの炎はこの管部分に当たることで熱せられ、冷たい水が下に、熱せられて軽くなった湯が上へ循環することで浴槽の水全体を温める方式だった。栓がないかわりに風呂の水を排出するときは勝手口から外へ出て排水バルブを開放することで行った。

壁面には正方形で一辺が10cm程度の白いタイルが一般的で、水を被る場所や頻繁に水を用いる炊事場や肉屋などでよくみられた。
浴室の床面はおにぎり形をした模様付きのタイルを重ならないようランダムに埋め込んだものが一般的だった。このタイルは相似形なものの様々な色とサイズがあった。タイルとタイルの間は隙間を埋めるために白モルタルで充填された。排水口部分だけは鋳鉄の蓋が掛けられていた。小さなタイルであるためしばしば剥がれた。

日々、お風呂を沸かすのはしばしば子どものお手伝いの一環であった。浴槽の湯を落として中を掃除して水を溜める。水位が一番上の循環口を塞ぐ程度まで上がってから焚き始めた。
焚き付けは五右衛門風呂の場合は横から火種を挿入する方式だが、我が家のは上から投入するタイプだった。台所では買い物で手に入れた紙袋がゴミ入れになっていて、厨芥ゴミを除いた火種になるゴミが集められていた。それを焚き口へ押し込んでマッチを擦って火を点けた。そして紙ゴミが全部燃え尽きてしまわないうちに小さく切った木切れを投入した。この木切れは土木建築の型枠資材だったり垂木の杭を小割りにしたものだった。木切れに火が移ってある程度火力が強まってから次第に太い木材を投入した。安定して燃え続けるまではその場についていなければならなかった。
浴槽に指を着けて温度を確かめた後、最後に我が家では石炭を投入した。この石炭は宇部・美祢高速道路の工事で産出した石炭を親父が車に積んで持ち帰ったものだった。石炭は車庫裏へ矢板を横にして作った仮設ヤードへ貯留していた。石炭は着火しづらかったが、ひとたび着火すると長く燃え続け、炎をあげずに熾の状態を長く保つので冬の寒いときでも風呂の湯が冷めず長いこと温度を保っていた。

風呂の順番はかならず父が最初であり、例外はいっさいなかった。母は台所仕事があるために最後になることが多かったが、薪で湧かしていた時代の風呂で誰であろうが親父より先に入ることは一度もなかった。なぜなら風呂を沸かす時間には家族全員が家にいるのが当然な暮らしぶりだったからである。一緒に入っていたのは小学校中学年までで、身体の変化が起き始めてからは一人で入浴するようになったようである。

タイルの風呂は後年水回りの傷みが激しく、昭和55年に平屋部分を改修した折にホーローのものに更新した。しかし未だボイラーが普及していなかった時代であり、焚き口にバーナーを挿入し作動させるスタイルで湧かしていた。ただし型枠を解体した後の薪など燃料になるものが手に入れば、それらを窯へ入れた状態でバーナーを作動させることもあった。
【 風呂のボヤ事件 】
昭和57年のこと、おそらくは焚き口の薪がはみ出していたことが原因でボヤが発生している。私たちは居間で麻雀を打っていたところ、台所の外で近所の人が大声で「大変よ!大変よ!」と叫んでいた。その直後にズシーンという重低音が響いて台所の外が真っ赤になった。更に電気コードが焼き切れたせいで家じゅうが停電した。これは我が家で発生した火災事件のうちで最大のもので、一時期は消防を呼ぼうかという状況だった。親父は最初、車庫にあった古い布団を押さえ付けて消火を試みたが消せず、このとき指をやけどした。親父はこのとき炎の海で戦き家を失うと感じて繋いでいた犬を放している。たまたま車庫に置いていた消火器を操作することで消し止めることができた。

翌日、消防署と警察が入って現場検証を行った。火事の原因を調べるために能動的に連絡したのか、最初に火があがったことで近所の人が通報したからかは分からない。ただ、個人的に恨みを持たれるとか嫌がらせで放火された可能性を全面的に否定はできなかった。当時、台所の横に勝手口があって隣の家とは建築ブロック塀で仕切られていた。その向こうに外灯があったのだが、夜にブロック塀の上を歩いて横切る人影が目撃されたことがあったからである。結局、放火などの人為的なものではなく給油ホースが炎で炙られたことによるものであろうことが断定された。先述のように焚き口の薪がはみ出ていた横からバーナーを設置し、はみ出た薪を伝って火が外へ出てしまい。その炎が立ち上がってバーナーに給油するホースを炙ってしまったからと思われている。

この事件以後、内燃式の灯油ボイラーを導入しバーナー加熱による風呂焚きを止めている。しかしこのときのボヤが風呂の壁と窓に取り付けられている侵入防止の木枠を焦がした後は現在も遺っている筈である。
《 食事 》
平日では昼食は学校で給食が出るし、朝は子どもは登校前、大人は出勤前で慌ただしいため時間をかけて摂ることができないため、必然的に夕食が一日のうちで最も重要な食事タイムとされた。
写真は野山の台所の様子。


幼少期および学童期は昼中給食があるとは言っても朝食はきちんと摂っていた。摂らなければとても昼まで持たなかっただろう。私の場合は朝食は専らパン食だったらしく、買い置きのパンがないために朝早くからヤマザキの店へ買いに行かされたという日記の記述がみられる。トースト2〜3枚に飲み物という構成だった。飲み物は専ら粉末の麦芽飲料を牛乳で溶いたもので、コーヒーは高校生以上になるまで飲むことを許されていなかった。[c1]

学童期および学生期は午後4時半には帰宅し、父は残業などでない限り午後5時半頃には帰ってきた。母は午後4時を回ると夕食の支度や風呂掃除などに追われていた。忙しくなると私はしばしば買い物や風呂掃除の手伝いを命じられた。親が仕事から早く帰ってくる家庭では午後6時前に摂るところもあった。遊んでいるとき近くの家の窓から「××ちゃんご飯よー」という母親の呼び声で子どもたちが遊ぶのを止めて家に帰るのが昭和の風景として代表的である。我が家も子どもが居る家が周囲に多かったため、庭先に居てもそのような声が聞こえることがしばしばあった。

我が家では夕食までに遊びを止めて家に帰っておくべき取り決めがあった。いわゆる門限であるが夏場では午後6時、冬の日が短い期間では午後5時あたりだったと思う。したがって子どもたちだけで門限時刻を過ぎて外をうろついていることはあり得なかった。我が家でも門限時刻は事前に取り決められていて、これを過ぎても家に帰らなかったときは玄関に鍵を掛けられ家に入れなくする「締め出し」がしばしば行われていた。[c2]

仕事を終えて帰って来た父親は風呂か夕食のどちらかを要求するものだが、我が家では夕食が先だった。父親が外で働き母親が家事をこなす分担制が確立していたので、家に帰って来るまでの時間にあわせて必ず食事の支度を調えておくのが主婦の仕事であり、食べる段取りができていないのはしばしば喧嘩の原因となった。婦人会などで夕刻時に公会堂などへ出かけなければならないこともあったようだが、そのようなときは食卓の上に茶碗や箸、総菜類を出しておいて食卓の上に載せる蚊帳で覆ってから出かけていた。

夕食はかならず一家全員揃って食べていた。中学生以降は箸を取っていただきますの時とNHKの7時のニュース冒頭部分が重なり合うことが多いほど時間はほぼ一定していた。少なくとも高校生時代になるまではこの状況だった。
食後の後片付けや皿洗いなどをしたことは殆どない。遺憾ながらうちの父は手伝いどころか食べた後の皿を流しまで運んでいく習慣すらなく、私たち子どもにもその習慣が波及した。ある時から少なくとも流しまで運ぶよう取り決めた。それでも私自身ですら夕食後の皿洗いを自発的に手伝ったことは本当に数えるほどしかない。これは躾け云々の問題以前に、昭和後期においても男たるものが台所をうろうろするものではないという考えが普遍的だったことに依る。したがって皿洗いは元より父親が料理を作ったり手伝いをするなどまったく有り得ない話だった。ただし丸ごと手に入った一匹の魚を捌くのは男の仕事と考えられていたせいか、親父もそつなくこなしていた。[c3]

学童期、恐らく小学校高学年までと思われるが、夕食をとった後に「ごちそうさまでした」を言った直後に台所隣りの居間に置かれたコタツの中へ足を入れて「1号!」と叫ぶのを兄貴と競い合うという奇妙な習慣があった。「ごちそうさまでしたぁー1号、1号、1号!」と叫びつつ居間へ走り込んで先にコタツの中へ足を入れた方が1号というものである。
このことから昭和後期までの居間の風景が想像される。冬場はコタツを置くが、夏場はコタツが要らない代わりに長方形のテーブルを居間の中央に置いていた。これは団欒の象徴的存在である。
出典および編集追記:

c1. 一般家庭ではどうだったか分からないが、我が家ではコーヒーは子どもには強すぎるので飲むべきではないと考えられていた。市販のコーヒー牛乳は当時からコーヒー擬きだったので飲むことができたが、当時出回り始めていたインスタントコーヒーを飲むのを許されたのは高校生になってからである。

c2.「Amebaブログ|締め出しの想い出」に詳しい記述がある。

c3. これには意識の改革と言うよりは当時親父が釣りに凝っていて、釣ってきた魚を捌いて刺身として食べることが結構あったからだろう。
《 夕食後 》
食後は父親は居間へ移動して寝転がってテレビを観て、その間に母が夕食の後片付けをするというのが一般的だった。私は中学校時代には既にテレビに対する興味を失っていたため、食後はすぐ二階の自分の部屋へ上がることが常だった。夕食のときだけ顔を合わせて殆ど家族の会話もないまま部屋へ引っ込んでしまうことを善しとしなかったのだろう。一時期、食後すぐ逃げるのではなく暫くそこへ座っていろと言われていたことがあった。学校の話でも何でも聞かせろということだったのだろうが、結局殆ど効果はなかった。

小学校中学年までは兄貴と4畳半の子ども部屋だったが、小学校6年に上がるとき二階に個別の部屋を持ってからはカセットテープレコーダーで音楽を聴いたり日記を書いたりしていた。兄貴は洋間にベッドを置いた半面、私は和室を求めた。そのため寝る時間になったら押し入れから布団を出して敷いて寝ていた。就寝時間は午後10時半頃だったと思う。翌日の学校があるため日付をまたいで起きているようなことは夏休みなど長期の休み以外なかった。逆に言えば夏休みは朝早く起きる必要がなかったせいで、しばしば夜更かしして生活リズムが乱れていた。
《 特別な行事 》
出典および編集追記:

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