宇部

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記事作成日:2021/10/12
最終編集日:2025/7/22
ここでは、宇部市という名称の大元となっている地名としての宇部(うべ)についてまとめている。総論的な内容は「Wikipedia - 宇部市」を参照されたい。

このファイルは2021年11月1日の宇部市制施行100周年に関する記述を仮置きするために作成された。当面はこの総括記事に宇部市に関する話題を書き溜める。分量が増え次第、各項目を別ファイルに分割する。
《 宇部という地名の由来 》
舟木宰判風土注進案 厚狭郡風土記 宇部の冒頭には、以下の記述がみられる。
當村をなへて宇部郷と唱へたる事其詳かなる事しれす往古は海邊といひしよし聞へ、今は宇部と書なせる事これもて其當非相知れす…
他の多くの地名と同様、いつ頃から唱えられ始めたかは明らかにされていない。海辺にある地に由来するということで海辺説とも言える。

もう一つの唱えられているのは、むべの実由来説である。ムベはアケビ科の植物で、アケビに似た常緑の植物であることからトキワアケビの別名をもつ。トキワは常盤に通じ、常盤池を始めとする宇部の代表的地名の一つであることから、むべの実由来説も支持されている。今のところ2大由来と言って良い。

個人的には海辺由来説を支持する。これはまったく同じ読みと表記の「宇部」という地名が下関の海辺沿いにあることに依る。東北地方にある宇部も海に近い場所である。むべの実の自生は、植生に由来する地名は一般的であることから支持できるが、ムベの別名トキワアケビに由来を求めるのはやや弱い。常盤という地名の由来は「疾き岩」であり、岩がちな地勢に由来するものと考えられるからである。
《 宇部市による周辺町村の編入履歴 》
以下に宇部市発足以降の周辺町村の編入履歴を一覧にする。過去には合併という言い方がされてきたが、大きな自治体がより小さな地域を取り込む併合的な負の意味合いが感じられるため、現在では行政を含めて編入という言い方が一般的である。

編入時期対象町村
1931年(昭和6年)8月1日厚狭郡藤山村
1941年(昭和16年)10月20日厚狭郡厚南村
1943年(昭和18年)11月1日吉敷郡西岐波村
1954年(昭和29年)10月1日厚狭郡厚東村、小野村、二俣瀬村、
吉敷郡東岐波村
2004年(平成16年)11月1日厚狭郡楠町

なお、宇部市以前の宇部村は沖宇部村、中宇部村、上宇部村、小串村、川上村の5ヶ村により構成される。この村名は現在も街区の住居表示対象地域外の大字表記に継承されている。
【 藤山村の編入に関して 】
以下、書籍などで言及されている情報からの引用である。当時の世相や意識を表現するためにこの項目に限り合併の語を用いている。

藤山村は宇部市の西に隣接し、栄川を隔ててはいるもの古くから宇部側との往来があった。既に敷設されていた山陽鐵道へ宇部からアクセスするには藤山村および厚南村を通過しなければならず、また増え続ける宇部の人口に対処する水源を厚東川沿いに確保するための布石として重要であった。廻船の技術が遙かに進んでいたことから石炭の搬出に重要と考えられた筈である。藤山村自体は宇部が市制施行する以前は宇部より遙かに栄えており、町制も検討されたことがある。宇部市制の施行時には既に藤山村の編入が検討されていた。

当時の宇部側の行政執行機関は達聡會であり、これを通じて藤山村の編入の打診が行われた。ただし藤本閑作は藤山村を編入すると宇部市の中心が西へ移動することを理由に反対している。これは達聡會の意志決定能力弱化に向かわせることとなった。また、施策に関する決定遂行力が余りにも強いこともあり、元から煙たがられる存在であった達聡會が藤山村でまったく受け入れられなかった事実をもって、自然消滅している。

藤山村には秋富・秋田兄弟が郷土興しを先導していた。合併に関して渡邊祐策翁らとも議論を交わした筈だが、未だそれらの資料に行き着いて居らず詳細が分かっていない。
【 厚南村の編入に関して 】
平成の大合併により編入された楠町という近年の事例を除けば、厚南村の編入は宇部市の周辺地域編入にあたって最も紆余曲折のあった事例である。

厚南村の合併に関する紆余曲折は、専ら水資源問題に帰せられる。折しも昭和初期には少雨に伴う水不足に苦しめられた。各戸は井戸水を使う家が大勢だったため地方部では飲料水の影響はあまりなかったが、市街部や田に充てる灌漑用水に深刻な水不足をもたらした。それ以前より渡邊祐策翁は大宇部建設にあたって将来的な水不足が懸念され、市内領域にある宇部本川からの取水はいつでもできるが、水量の豊富な厚東川からの引水を主張していた。これを受けて大正期には沖ノ山水道が建設されたが、未だ隣接村であった厚東村末信からの引水ができなかったのか、初期には沖ノ旦で取水を試み失敗している。

祐策翁の没後に宇部市は深刻な大渇水が発生した。田を救うためには厚東川からの引水が絶対だったが、河川は上流側取水優先の原則により、厚南村の御撫育用水の取水で満足な取水ができなかった。このとき宇部側では秘密裏に厚南村長と交渉し御撫育の水を一時金支払いにより分けてもらう協議を行った。このことで宇部側の田は救われたのだが、御撫育用水は「厚南村長はなけなしの水を宇部に売った」と非難し当時の村長が辞任に追い込まれた。

厚南村の合併議論は、厚東川の水利を確保する意図があり、少なくともそのように解釈された。一般に主要な河川を隔てて異なる自治体に所属する原則があり、厚南村は小野田市へ合併すべきという議論があった。実際、厚南村のうちでも小野田市に隣接する丸河内の一部地区では早々に小野田市へ帰属希望している。灌漑用水の無断分水の遺恨があったため御撫育用水の水利組合は最後まで合併に反対し続けた。最終的に水利組合を厚南村の連絡所(現在は厚南市民センター)に置くことで合意を得ている。

厚南村合併後もなお暫くは宇部市への編入を疑問視する意見が多かった。この流れを変えたのが合併の翌年に起きた周防灘台風に伴う厚南大水害である。世相は軍靴の足音響く戦時色を帯びており、厚東川河口部の小島付近の堤防が連合軍による爆撃で破壊されていた。既に資材も人力も不足していた当時はこれを充分に改修することができないままでいた。そこへ押し寄せた未曾有の台風と高波によって堤防が破壊され、厚南平野は際波開作時代まで時間軸を戻される形で一面の海となった。

被災後に堤防が復旧されたとき、多くの旧厚南村民は「もし宇部市に合併せず厚南村のままでいたら復旧は非常に困難だっただろう」との認識を持ち始めた。このことにより合併反対論は次第に下火となっていったとされる。

西岐波村の合併は、大水害の翌年となる昭和18年だった。この時期ともなれば生活や文化面殆どすべてにおいて明白に戦時色を帯びており、どのような意図で併合されたのか手元に資料がない。近隣エリアにおいて長生や黒崎など海底炭田の東端地であり、エネルギー資源の確保の意図があったのかも知れない。ただ、平和的な併合でなかったことはかなり確からしい。紀藤閑之介は自著で「この合併に何の意味があるのだろうか」と述べている。
【 西岐波村の編入に関して 】
出典および編集追記:

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