小学校の行事(恩田小学校・昭和40年代)

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ここでは、主に小学校時代の特定科目の授業以外に関する単発的な各種行事について項目毎に記述する。自身の体験に基づいた話なので時代は昭和40年代半ば〜昭和50年代前半である。体験の記録と当時の文化を記録することを主眼としているので、特段の必要ある場合を除いて個人的関わりの項目も分離せずそのまま本編に盛り込んでいる。当面は相載せ方式で記述し、分量が多くなってきたら本記事を総括として詳細記事へ移動しリンクで誘導する。
《 入学式 》
遺憾ながら小学校の入学式のことはまったく覚えていない。今ではそれ以前の幼稚園児のことですら、ごく限られた場面が単発的に記憶に残るのみである。
新学期開始日および年度始めに相当する4月1日から身分としては小学1年生になる筈だが、一般にはその日は3学期末の春休みである。このため実際の入学式はそれより一週間程度後だったと思う。このため幼稚園を卒業して新学期が始まるまでの間に仮入学式と称して4月から登校することになる小学校に集められ、各校舎などを見て回ったかも知れない。いずれにしろ個人的には特に思い出せる出来事がない。

新1年生を受け入れる在校生の側では、中学年以上の学童が学校の中にどんな施設や教室があるか案内して回ることがあった。
《 進級クラス替え 》
記事作成日:2015/2/23
6年間を過ごす小学校課程においてそれぞれの学年が均等に独立した6つの区分として見られていたわけではない。当時の小学校では1〜2年生、3〜4年生、5〜6年生という3区分としてみるのが一般的で、それぞれ低学年・中学年・高学年というグレードで呼ばれていた。更に大局的に1〜3年生と4〜6年生に二分し小学4年生以上を高学年とする見方もあった。[1]これには同学年グレード内では進級してもクラス替えと担任変更を行わない制度による影響が大きく、このシステムは一般に「持ち上がり」と呼ばれていた。このため2・4・6年生に進級するときは教室が変わるだけなので進級しても前学年から生活環境が大きく変わることはなかった。小学校最後の進級クラス替えは5年生へ上がるときに経験する。このときの状況を思い出せる範囲で記述する。

進級クラス替えの日は当然ながら一学期の初日であった。この日は身分としては既に小学5年生だったが、クラスの割り振りを知らなければ新しい教室へ移動できないので登校直後は元4年生時の教室へ一旦集まったか、あるいは教室には入らず直接運動場へ集合したと思われる。5年生の新しい組とメンバーは、運動場に最も近い3〜4年向けの木造校舎の壁へベニヤ板に貼られた大きな紙にマジックで記載されていた。その中から自分が何組になったかを調べて新しい教室へ向かうのだが、当然ながら前学年で親しくしていた友達が何組になったかも調べたものだった。同じクラスになったねとか別々になってしまったなどと学童にとっても様々な気持ちの交錯するひとときだった。
登校日初日なので持ち物は殆どなく、身軽なまま新しい教室へ移動した。自分は5年6組で新校舎の2階だった。座る場所が分かるように椅子の背中に学童の名前が書かれた紙が貼られていたと思う。
【 出席番号 】
小学校に限らず中高校でも現れるクラス中での番号で、学童を男女に分けて名前を平かなで書いたときの五十音順として1番から順に番号が与えられた。転入生があった場合は五十音にはかかわらず末尾の番号が付与された。[2]この番号は進級クラス替えがあるまで変わることがなく、学童自身でも覚えておくことを求められた。例えば教科書などは名前を書く欄のみだったが、自分で管理する持ち物やテストのときの答案にはかならず名前と共に出席番号を書くようになっていた。小学校高学年時の出席番号は21番だった。
出典および編集追記:

1. 当時のクラス担任は4年生に上がってからは、学童に向かって常々「高学年だもんね」を口癖としていた。クラス持ち上がりでメンバーも担任も同じながら上級生になったという自覚を持たせる意図からだった。

2. 小学4年生次の前野氏、小学5〜6年生次の河原氏など。両者とも2学期あたりに転入してきた。
《 グループ分け・席替え 》
グループ分けというと硬い言葉だが、クラス全体で40名程度いる学童を適切なグループに分けることが行われた。小学3〜4年生頃から全クラスを5つか6つ程度のグループに分類し役割分担する班が設けられた。係と呼んでいたかも知れないが、ジャンルとして学習・飼育・会計・衛生・体育・広報などがあった。どれかの班に所属しなければならないのだが、希望が多かった場合は先生が適当に割り振ったかも知れない。班が決まった後、同じ班の学童が近い席になるように席順を調整した。次に各班で話し合いをさせ班長と副班長を決めた。どのような活動を行うか宣伝を兼ねて絵画の授業時に画用紙に描いた。

班の活動について確実に覚えているのは小学5〜6年次の飼育班である。飼育班は放課後に中庭で飼われているアヒルの餌やりが仕事だった。職員室へ行って餌となる給食のパンと鶏舎の鍵をもって行った。
このときアヒルの餌やりに関して著名な事件がある。餌となるパンは学校給食の残りで、職員室を入ってすぐ左側に置かれた水色のポリバケツの中に入れられていた。今思えば問題なのだが、相当前に放り込まれたパンもあったようで半分くらい緑カビに侵されたパンもあった。自分が当番だったときカビの生えたパンしか入っていなかったのでそれをビニル袋に入れて鶏舎へ行き、カビの生えた部分はサッと払ってアヒルに与えた。別にそれが原因ではないと思うのだが、翌日ないしは翌々日くらいにアヒルがいつもとは明らかに違った泥状便を鶏舎の至る所に排泄していた。鶏舎は先生たちも適宜見回りしており、何が原因かは当然分からなかった。このとき私はクラスの友達(田村氏)だけにそっと職員室にあったカビの生えたパンを与えたことを伝えた。彼はムチャなことをしたもんだなーと言いながらもこの話を面白がり、私たち二人を含む仲間内だけで「グルグルピー事件」と名付けていた。

班は一学年通して同じというのではなく、2学期に再構成したと思う。その都度席替えも行われている。席替えは原則背の低い順番で、視力が弱い学童は例外的に前の方へ座るようになっていた。机や椅子は小学4年生あたりまでは2人掛け用の木製机に独立した木製の椅子だった。小学5年生になって新校舎へ移ったとき椅子と机がスチール製に変わった。
出典および編集追記:

《 家庭訪問 》
一学期が始まってすぐに行われた。「持ち上がり」となる2・4・6年次は担任が替わらないので実施されなかったかも知れない。当時の一クラスは40名程度で学童は恩田校区に散らばって住んでいるので、近接する学童をまとめる形で何日かに分けて実施された。どの日の何時頃に訪問するかは保護者向けプリントで告知されていた。

現在も行われているか分からないが、当時の家庭訪問のスタイルとして興味深いのは、その日に訪問を受ける学童ほぼ全員が先生にくっついてゾロゾロと歩くことである。[1]連絡簿を作成する必要上クラスが決まった後すぐに保護者名・住所・電話番号などの提出があったが、先生はクラスの学童の家が何処にあるかまでは知らないのが普通なため、訪問を受ける学童が率先して道案内した。先生やクラスの友達を引き連れて自分の家へ案内するのは誇らしいことだった。

学童宅に到着すると、保護者(殆ど間違いなく母親)が出てきて玄関で話をした。学童自身は居なくても構わなかったが何か尋ねられたときすぐ答えられるように大抵そこに居て一緒に話を聞いた。家庭訪問のそもそもの意義は、受け持つ学童の保護者に接触することで人となりを理解し合い、学童特有の事情や状況を把握すること、保護者側からの個別の要望事項を聴取することにあった。先生が玄関より先にあがることはなく、招かれても玄関で話をするようになっていた。お茶や菓子などの接待も要らない旨がプリントに書かれていたと思う。

話は概ね十数分で終わった。その間くっついて歩いていた学童たちは終わるまで外で遊んでいた。自分の家庭訪問が終わってもそのまま帰らず先生と一緒に他の学童の家庭訪問先まで歩くこともあった。これは教室の外で先生たちと過ごす非日常性を味わうことの他に、自分の家から近いところに住む友達の家を知る良い機会だったからである。実際、家庭訪問を介して近隣の学童の家を知ることによって仲良くなり、後日遊びに行くということが多かった。
出典および編集追記:

1. どちらかと言えば男児に目立った。小学校から近い現在の恩田町相当までは先生も学校から歩いたが、則貞や亀浦方面の学童の場合は別の交通手段を使ったかも知れない。
《 見舞い 》
私が経験してきた限りでは、入院など長期療養する必要があった学童の事例はない。ただし、風邪で学校を休む学童は結構みられたし自分も全学年を通せば数回は体験している筈である。1日休むようなときはあまりなかったが、2〜3日続けて休むような場合は学校の授業で配られたプリントが溜まったり伝達事項が遅れるなどの事が起きるので、登下校のとき方向が同じで仲の良い友達が手渡すものをまとめて袋に入れて持って行くことがよくあった。給食では休んだ学童の温食は皆で分け合って食べたし牛乳は瓶入りなので欲しい人が適宜飲んだが、パンやマーガリンは保存が利くのでビニル袋に入れて一緒に持って行ったものだった。

自分が学校を休んだときに行われていた授業内容は、当然ながら後からでは分からなかった。このため小さな単元単位でたまたま休んでいたことで後々に響く場合が稀にある。私個人の場合、ひらかなの「ふ」が未だに手書きでは綺麗な形で書けない。これは小学1年生のとき(幼稚園だったかも知れない)その仮名の書き取りが教えられる日にたまたま休んでいたのが理由と自分の中で理解している。真にそれが原因だったかは今となっては検証のしようもない。
中学校でも英語の単元にて同様の体験をしている
《 参観日 》
どういう訳か参観日が行われたこと自体は覚えているにもかかわらず、特に目立って覚えているシーンが一つもない。それほど頻繁ではなく、一学期に一度以下だったと思う。概ねどの授業を対象にするという取り決めがあったようで、参観対象の授業では教室の後ろに学童が座るのと同じ椅子のみが並べられた。もっとも長時間参観する保護者はそれほど多くないからか、椅子に座らず立ったまま参観してすぐ退出する保護者もあった。対象となる授業は午後からのものだったと思う。

参観日は前述の家庭訪問より当然後なので、先生はどの学童の保護者が参観に来たかは分かっていた筈である。しかし学童にとっては家庭訪問の「ゾロゾロ歩き」に加わっていたとか保護者同士の交流もある家でなければ、入室したのが誰の保護者かは殆ど分からなかった。参観対象の授業が終わってから「今さっき来たのは誰それのお母さん」などという会話もやり取りされた。
殆どの学童は、自分の保護者が参観に来るのをこそばゆい気持ちで眺めていたと思う。教室の後ろの扉が開けば音がするので、授業中でも後ろを気にする学童が結構あった。たとえ自分の親ではなくとも教室の後ろで誰かの保護者が参観しているときに挙手したり先生に指名されるのは避けたい気持ちがあった。

すべての授業が終わった後、参観に来た保護者を対象にした担任による懇談会があったかも知れない。放課後、教室でそのようなシーンがあったような気がする。むろん学童たちは中に入ってはいけなかった。
なお、参観日にやってくる保護者は殆ど例外なく母親で父親が参観に来たのを見たことがない。これは昭和中後期の世相によるもので実際には父親が参観することに問題はなかった。
《 全校集会 》
毎月一度くらい全校集会が行われた。毎月最初の月曜日と固定されていたかも知れない。全校集会が行われる日には教室にカバンなどを置くやすぐに集合先へ移動するよう校内放送があった。冬季の耐寒訓練の開催日では校庭を走り終わった後でそのまま運動場に整列して全校集会に移った。
趣旨は校長先生・教頭先生が児童全体と接することと、特に注意すべき事項の伝達だった。冬季で風邪が流行っているとか、市内で学童に関する事件があったとき注意喚起された。集会があるときは下駄箱で下足に履き替えて運動場へ出てクラス毎に出席番号順に整列した。整列の作法は体育の授業で伝達された「小さい前へ倣え」だった。
運動場で全校集会が行われるときはずっと起立していなければならなかった。それほど多くはなかったが身体の弱い女児など目眩などで倒れて保健室行きになる例があった。雨天時などは体育館へ集合したし、体育館で行われるときは床に体育座りすることができた。。
【 臨時の全校集会 】
特に火事や事件などが相次いだときなど、担当部署の人員で都合がつく場合に講話目的で全校集会が招集されることがあった。警察署や消防局関連である。
年度末に近い時期の全校集会の一例として、異動に伴う先生の離任式というものがあった。この場合は体育館で行われ、壇上で小学校を去りゆく先生一人一人が挨拶した。低学年時の担任だった柴田先生が去って行かれたときもう学校では会えないことを知っていたから涙が出た。[1]この他に記憶は曖昧だが、本校の学童がタクシーに轢かれて死亡したとき運動場で臨時の全校集会が開かれ黙祷をした。[2]
出典および編集追記:

1. 学校内で顔を合わせることがないので年に一度年賀状を書いていた。小学校を卒業する頃までは出していたと思う。

2. 小学4〜5年生頃だったと思う。場所は確か恩田小学校の近くか恩田交差点であった。事故の詳細は分からないがタクシー会社は学童みなの知るところとなり、暫くの間わけもなく当該タクシー会社を指して「○○は悪い」などと言い合っていた時期がある。
《 身体測定 》
記事作成日:2015/2/16
身体測定は学童の成長状況を数値データとして記録したり、健康状態をチェックして所見があれば保護者に告知するためのものである。
得られた結果は健康通知票に記録され学期末に学童を通して保護者の元へ届けられた。
【 成長記録 】
学童の成育状況を客観的数値として記録するためのもので、検査項目は身長・体重・胸囲・座高で各学期の始めに行っていた。
このうち座高の測定については近年成長の目安としての根拠がなく測定データの活用もなされていないため廃止されることになった。[1] 当時は男子たるものは足が長い方が美男子の象徴のように思われていて、身長の割に座高の数値が大きいのは短足とみなされたせいか、測定のとき故意にお尻を前の方へずらして座高測定値を小さくしようと試みる男児がいた。

身長体重を元に成育状況の簡素なデータが保護者向けに配布された。太っている・太り気味・標準・痩せ気味・痩せているの判定で、今となっては信じがたいことだが学童期は私は「やせ気味」判定だった。もっとも太っている・痩せているの判定が出たからと言って特に健康指導されるようなことはなかった。[1]
視力検査は昔ながらのランドルド管を黒い棒のついた匙で片目を覆って視認する方式だったが、児童が待機している間保健室の壁に貼られたランドルド管の開いた方向を暗記して視力をごまかそうとする事例があった。大体、自分の視力は把握していたしランドルド管は3列しか並んでいなかったので視力1.2〜1.5相当の6個程度を暗記していれば対処できたので、当時の視力測定は児童の振る舞い方によっては1ランク程度の誤差は普通に起きていた筈である。

聴力テストは現在と恐らく同じで、ヘッドホンを装着して異なる周波数の音を発生させる方式である。音の聞こえ始めと消失するタイミングでボタンを押すのだが、担当者の説明が悪く「聞こえたら押して!」と言いつつも音が消えたとき「聞こえなくなったら押すの!」といった塩梅で大変分かりづらくあれで検査になっていたのだろうかと思ったことがあった。
毎年ではなかったが色弱の検査があった。子どもの絵本みたいなサイズの本に円を小さな色違いの点で数字か意味のないものを描写したものを見せられた。この検査は現在も行われている。
【 健康診断 】
身体を蝕む症状や病気などを発見するための検査は、身体測定とは別の日に行われた。虫歯・鼻炎・寄生虫が代表格で、視力・聴力・寄生虫検査は学年に一度だったと思う。虫歯の検査は前項の予防接種と同様体育館にクラス単位で呼び出され行われた。幼少期から甘いものが大好きだったため常に何処かへ虫歯を抱えていた。但し歯が痛いのはまったく本人自身の問題とみなされていたせいか虫歯を指摘されても対処は個人の範囲だった。

これとは対照的なのは鼻の検査で、鼻炎ないしは副鼻腔炎などに該当すると市営プールではもちろん学校の授業としてのプールも制限された。判定項目は3つで所見なし・要経過観察・治療指示だった。治療指示になると完治するまでプールで泳ぐことが認められず、要経過観察の場合は継続的に医者へかかっていることを前提にのみプールが許可された。これらの結果は児童にも分かりやすい形で一枚の紙に「問題なし」「耳鼻咽喉科で医者の指示を受けること」「泳いではいけません」と書かれた項目に赤でマルが記されていた。

小学校中学年時代に通院しなければプールへ入れないと判定され、バスで恩田から隣町までかかりに行ったことがある。治療と言っても最初に特殊な液と器具を使って鼻の中を洗い、それからガスの出る管を鼻孔に挿入して鼻の中を通し、最後に院長から鼻孔内へガスを噴霧してもらう定番パターンだった。いつまで続ければいいものか分からず自覚症状も特になく通院する意義がまったく理解できていなかった。このため途中で通院を止めてプールは普通に入った。小学5年生にあがって同様の鼻の検査を受けたとき、途中で通院を止めていながら「異常なし」と判定されたことで検査自体が無意味なのではないかと考えるようになった。[2]

注意以下には汚穢物などに関する記述があります。食事中の閲覧はご注意ください。承諾頂ける方のみ「閲覧する」ボタンを押してください。

現代では畑で昔ながらの方法で個人的に栽培した野菜をよほど非衛生的な調理法で経常的に食している人でない限り、殆どの人が寄生虫とは無縁であろう。
【 健康通知票 】
身長体重などの成長状況を数値的に記録したものに加えて、上記の健康診断の所見を一覧にしたものが健康通知票である。B4の二つ折りで表面に年・組・出席番号・名前が記載されていた。開いた中には学期毎に同一項目を測定し記録できるようなフォーマットになっていて、一番下に保護者の確認印と担任の確認印を押す欄があった。健康通知票は通知票と共に学期末に学童へ渡され、保護者に見せる。そして次の学期が始まる日に保護者の印鑑を押した上で学校へ持っていくようになっていた。
通知票は親に見せるのが躊躇われる最たるものだったが、健康通知票は自分の身体面であり努力してどうにかなる種のものではなかったために抵抗はなかった。むしろ子どもは飄々としていても親の方が気がかりだったかも知れない。
出典および編集追記:

1. 当時は児童の肥満について殆ど問題視されることがなく、むしろ元気が良いとか相撲取りに向いているなどと肯定的な評価がされた。半面痩せている学童は親に充分食べさせてもらっていないとか病気であるかのような目で見られ、まず運動して沢山食べて身体を造ることを求められた。肥満を揶揄する言葉(デブ・太っちょ)は当時もあったにせよ、痩せている学童に対するネガティブな言葉の多さ(ひ弱・うらなり・青びょうたん・骨皮筋右衛門・もやしっ子)の違いに如実に現れている。

2. もっとも高校生時代になって鼻づまりで別の耳鼻咽喉科の診断を受けて問題を指摘されたので、生まれつきの問題があったのは確からしい。
《 予防接種 》
記事作成日:2015/2/16
保健関連のイベントで児童のもっとも嫌うものの一つだった。予防接種を受けるのが嫌で仮病を使ったり熱があるなどと申告して注射を回避しようとする姿は昔からよくみられた。体温は当日の朝測るようになっていたが、忘れたり朝方の体調が優れないときなど教室で予防接種前に体温を測り、担任が接種を受けさせるかどうかの判断をすることもあった。[1]

成長測定のようなクラス単位で行うものは保健室だったが、学年単位で行われる予防接種は体育館で実施された。実施される日は分かっていたが、1組から順次実施され殆どの学童の接種が終わり次第次のクラスが呼び出されるので、自分たちの予防接種がいつ頃になるかは分からなかった。皆が嫌な気持ちで待ち受けていたが、体育館へ集合してくださいの呼び出し放送が入ったら腹をくくっていた。

体育館では複数の医師が対応していて、学童は適当に分散して順番を待った。注射を行う医師の前には机が並べて置かれ、銀色のトレーの中に準備済みの注射器が並んでいた。医師は白いお椀の中に張られた液体の中に手を漬け、タオルで拭って注射器を扱った。この液体は独特な香りを放っていた。このときの様子は以下の外部ブログにも記述している。
外部ブログ記事: クレゾール石けん液の想い出
予防接種を行った日は運動は禁忌とされていたので、体育の授業がない日が選定されたと思う。もっとも予防接種が行われた日でも掃除は普通に行われた。学校が引けて家に帰ってから友達と遊ぶことはあったと思うが、今と比べて昔の予防接種を含む注射は概して痛くしかも注射箇所の痛みが長引いて遊ぶ気が起こらなかった。また、注射した日には決して風呂には入らないよう言い渡されていた。
出典および編集追記:

1. 4年生のとき教室で体温を測った記憶がある。このとき体温が36度9分で先生が「君は体温が高いなー」と告げたことがある。体調には問題がなかったので接種を受けた。
《 給食費の納付 》
毎月決まった日に新校舎1階、玄関横にある事務室へ給食費を払いに行くことになっていた。当時はまだ口座引き落としといった振り替え手段がなく、児童が大金を紙袋に入れて事務室へ行っていた。支払日は一日だけだったため、当日は朝から事務室の前にズラッと行列ができた。
給食費は毎月一定だったが、図画工作で画用紙を使ったり粘土工作などを行ったときは実費がかかり、その分は上乗せされた。事務室ではお釣りの要らないよう1円単位まで揃えて持っていくことを求められた。カウンターにお金の入った袋を差し出すと事務員が中身を確認し、ゴム印を押して袋を返した。お金を落としたとか盗られたという事件が起きてもおかしくないのだが、小学校に居る間そのような事件は聞いたことがない。

一年における給食実施日数はカレンダーから計算可能なので、学年が始まるときに各月の給食費額を印刷した封筒が渡された。この封筒は小学6年生のとき実際に使用していた現物が存在する。封筒の裏面にはトヨタの交通安全をモチーフにした宣伝が印刷されていたが、封筒を支給するときこの部分に白紙を貼るよう求められた。何か問題があったことは確実である。
《 避難訓練 》
記事作成日:2015/2/11
年に一回、全校レベルでの避難訓練が行われた。災害時に安全な避難行動をとるための演習で、当時は新校舎以外は木造だったため火事による避難が想定されていた。行われる日はもちろん大体の時間もあらかじめ告知されていたため、本当の火事ではなく訓練であることは分かるようになっていた。

授業中、突然廊下に設置されている非常ベルが鳴り響く。それから黒板の上方に設置された校内放送向けスピーカーから「訓練、火災警報。訓練、火災警報…」のようなアナウンスがされた。授業中だがすべての動作を中断し避難に向かった。このとき身の回りの物を持ち出したり机の上を片付けようとしてはならなかった。私たちは教室を出ると、2列に並んだ状態で階段を降りた。どの順番に並ぶとかの指示は恐らくなかったが、確か右手は左手の上あたりに添えて歩くよう求められた記憶がある。これは非常時に慌てて前の人を押すと将棋倒しが発生して被害が大きくなるからそれを防ぐためとされた。一応は訓練なのでおしゃべりしながらの行動は厳禁だったが、本番でないことが分かっているからかゆっくり階段を降りたりはしていたと思う。

どの学年でも教室に居るときは指定のゴム製の上履き[1]で、この状態で土間を含めた屋外へ出歩くことは厳しく禁止されていた。避難訓練ではいちいち土足に履き替えないので、上履きのままで運動場まで出ることを認められた唯一のイベントだった。校庭へ出ると各クラスは列を保ったまま静かに待機した。全校生徒が運動場へ整列した後、消防車が運動場に乗り入れて校舎の屋根へ放水するシーンがあったかも知れない。
全員の避難が完了した後、校長先生か消防局長からの講話があった。警報が鳴ってから全校生徒の整列が完了するまでの所要時間と、そのことに対する感想、火の元に関する注意を含めた話で、概ね30分位だったと思う。訓練が終了して校舎に戻るとき下駄箱の横に設置されている足洗い場で上履きの裏を洗ってから校舎に上がった。洗い場から上がったところに掃除用の雑巾が何枚も敷かれ、そこで足の裏を拭った。

避難訓練関連だが、3〜4年生時代に使っていた2階建て木造校舎はもっとも運動場に近い場所にあって校舎の端には非常用の滑り台が設置されていた。この校舎は西側の端もしくは中央に階段が一箇所あっただけなので、避難向けに設置したと思われる。普段は滑り台に通じる廊下の端の扉は施錠されていて開けることができなかった。滑り台の下は衝撃吸収用の砂場が設置されていて、子どもたちはしばしばこの滑り台を下からよじ登って遊んだために私たちが卒業する頃には滑り台の下にロープが張られ立入禁止の札が下がっていた。3〜4年生でも避難訓練を経験している筈であるが、そのときこの滑り台を使ったかどうか覚えていない。現在は木造校舎そのものが存在しない。
出典および編集追記:

1. バレエシューズのような形をしていて足の甲を留める部分に太いゴム紐があった。大抵はこのゴム紐の部分に学年・組・名前をマジックで描いていた。色は白。足のサイズに合わせた種類はあったが爪先と側面に補強用のゴムが取り付けてあり、男児向けは水色、女児向けは赤と決まっていた。学校内ではこれ以外のものを履くことは認められていなかった。購買部で取り扱っていたし靴屋でも買えた。
《 運動会 》
記事作成日:2015/10/4
春と秋の2度行われたのは恐らく何処の小学校も共通と思われる。春の運動会は全校的な合同体育とも言えるイベントで、平日に行われるため保護者の観覧はなかった。外で弁当を食べることもなく昼は通常の給食だったと思う。このため運動会と言った場合には秋のものを指し、区別するときには「春の小運動会」「秋の大運動会」と呼んでいた。以下は秋の大運動会について記述する。
【 開催時の環境 】
運動場全体が陸上競技場のトラックの形状に仕切られ、外周には地面に打ち込まれた鉄棒に結ばれたロープが張られた。ロープの内側が競技の場で、徒競走向けに消石灰でトラックが引かれた。ロープで仕切られた外側が学童の待機エリアおよび観覧席で、一般の来訪者向けには亀浦や恩田といった地域毎にエリアが区分された。椅子などは置かれなかったので、各自がビニルシートなどを持って行かなければならなかった。学童は学年毎に地面にベタ座りで、運動会とは言えども授業の一環のため昼食を取る昼休みタイム以外は保護者の居る観覧席へ座っていることはできなかった。
中学年用の校舎があるところが正面本部席で、ここには救護用と来賓用として2基のテントが設置された。テントの脚部分は現在のような折りたたみ可能なアルミスチール製ではなく杉の木の皮を剥いで造った棒状のものだった。[1]来賓席には当時まだあまり目にしないスチール製の折りたたみ式椅子が置かれていた。いずれも前日までに一通り設置して運動会の朝を待つのは今も同じである。
各校舎は昼食時には開放され、自分の教室で親と一緒に昼食を食べることができた。観覧席には日よけがなく暑いし埃が立つので、昼食のときだけは教室へ移動することが多かった。体育館も昼食向けに開放されていたかも知れない。
雨天中止となる場合以外は、早朝にかならず花火が上がった。現在は真に運動会として開催される午前8時や9時が大勢だが、当時は朝6時に上がっていた。この花火の音を聞いて目を覚まし、いよいよ運動会が始まると心を躍らせたのである。
【 学童のスタイル 】
学童は通常の体育の服装で、休憩時はまだしも競技に参加している間は靴を履くことは認められていなかった。それから運動会ではお馴染みの紅白帽子を被っていた。紅組と白組で得点を競い合うのは恐らく何処の小学校でも同じだが、どのようにして紅白を分けていたか覚えていない。帽子はリバーシブルで大抵は風で飛ばないよう顎紐を後から縫い付け、日よけのつばが着いていて容易に紅白を被り替えることができた。[2]
【 応援 】
現在の運動会でもやっているかどうか分からないが、プログラムの間に応援合戦のようなイベントがあった。これには全員参加(女児限定だったかも知れない)の応援の歌と、応援団員によるパフォーマンスがあった。応援の歌は以下の通りである。
心も軽く、身も軽く、
みんなの楽しい運動会
紅勝て紅勝て(拍手×3回)、
白勝て白勝て(拍手×3回)、
ふれー、ふれーっ、ふれー♪
応援団員によるパフォーマンスは、応援団長が正面本部の前に設置されたお立ち台に上がり、マイクの前で三三七拍子の音頭を取る。各組から数人選出された応援団員(男児限定だったかも知れない)は、自分のクラス前のトラック側に出て団扇を持って同じ振り付けを行う。この振り付けは以下の通りである。
(右手)下、右、上、(小休止)
(左手)下、左、上、(小休止)
(右手)下、右
(右手)下、左
(両手)下、左右、上(小休止)
応援団長は三三七拍子と叫び、後は笛を吹きつつこの振り付けを行う。横では太鼓も叩く係がいた。6年生のとき団扇を持っての応援団員をしたことがあるが、どうも自ら望んで引き受けたのではなくやらされた様子で、友達にからかわれて嫌だったという記憶がある。
マイクの前で大声で叫ぶ男児は高学年で、幼少期その声が風邪を引いたようなガラガラ声であることに驚いたことがある。高学年になるにつれて男児の声変わりという現象が起きるのを知ったのはそのずっと後のことだった。
【 競技 】
競技の種目は学習の成果を見せるダンスや組み体操のようなものと、玉入れのように得点を競い合う種のものがあった。ダンスは採点の対象にはならなかったかも知れない。組み体操は男児限定だったが、ダンスは男女混合のものと女子限定のものがあった。記憶するものとしてはオクラホマ・ミキサー(5年生)とあともう一つ流れる音楽は覚えているが不明のもの(4年生)が男女混合だった。組み体操は数人が手を繋いで全体が一枚の扇形になるようなフォーメーションを作る場面があったが、昨今その危険性が問題視されている人間ピラミッドはなかったかも知れない。女子限定のダンスとしては、6年生時の南蛮音頭があった。これは授業の一環としても教えられていた。[3]

得点を競い合うものとしては、お馴染みの徒競走、障害物競走、リレー、玉入れ、綱引き、だるま送り、棒奪い、騎馬戦があった。騎馬戦はある程度練習したかも知れないが、早く走れば足りるなど特に練習を必要としないものはぶっつけ本番だった。徒競走と障害物競走では低学年のときはゴールした順位にしたがい折り紙を切って作った順位カードのようなものが配られたし、中学年から上では「賞」と赤い字で印刷された小袋に鉛筆一本が入ったものがもらえた。だるま送りや玉入れなど器具を要するものは、すべて南側に現存する木造器具庫に収納されていた。投げ入れる紅白の球は一定数の常備はあったが、学年によっては運動会が始まる前に家で各自一個作って持参することを求められた。紅色の球については色調までは指定されなかったため、帽子と同様の真っ赤ではなく色褪せたピンクに近いものや、奇妙に横長な俵状の球も見受けられた。

興味深いのは、先生自身が参加する「ロケット打ち上げ」という種目が存在していたことである。スタートラインにはバケツが置かれ、その先には丸太の上にシーソー状に板が載せられその端にドッチボールが置かれている。よーいドン!でバケツを持って走り、浮き上がった板を足で思い切り踏む。反動で高く飛び上がったドッチボールをバケツで空中キャッチし走って戻るというものである。バケツでキャッチできずボールを落とせばやり直しで、自分で板の端にボールをセットして再度試みなければならない。ボールをキャッチできれば拍手がわき起こり、何度も失敗すれば周囲の笑いを誘う些かお遊び的競技だった。日頃は先生から注意されたりでやり込められるのがこの競技では各担任の器用さや運動神経が露呈してしまうわけで、なかなかに印象的な競技だった。

得点の掲示は運動場にもっとも近い中学年校舎の2階の教室が使われた。窓から赤地と白地のボードを出し、教室に待機している点数記録係の学童が点数の変わるごとに数字を入れ替えていた。ここには全校集会向けのスピーカーも取り付けられていたので、ダンスや徒競走のときの音楽やプログラムの発表などもここから流れていた。音楽は先生がレコードやテープを再生していたが、プログラムの発表や実況は担当する学童が行っていた。
【 昼食 】
運動会の日には母親も早起きして家族の弁当を手作りした。何処でも定番の総菜はありがちだが、特に一般的なものは俵型をしたおにぎり、卵巻き、たこさんウインナーである。おにぎりを俵形に成形するのは、弁当箱へ沢山入れられることと子どもの手で食べやすいからだった。飲み物は後述するように味付き飲料は現地販売されていたので水筒にお茶を詰めて持って行った。保護者が随伴するせいかおやつなどの持ち込みもまったく自由で制限がなかった。ただし親と一緒に居られるのは昼休みだけなので沢山お菓子を持って行って食べる時間的余裕はなかった。4年生のときは教室でお昼を食べていてふざけた姿で撮られている写真が存在する。

現在と異なる点で特筆すべきなのは、飲み物を販売する業者が運動場の一角に販売所のテントを仮設することが認められていた点である。特にフジヤマ飲料は定番で、飲み物といえばほぼ独占状態だった。学校内でこういった飲み物を買って飲めることなど普段なら有り得ないことであり、その非日常性を大いに満喫した。瓶入りのコーラ・コーヒー牛乳・ミルクセーキあたりが定番だった。学校内の喫煙はもちろん歩きタバコも普通に散見されたし、観覧者の中には酒を持ち込んで呑みながらの応援も割とみられた。学校内での喫煙について厳しくなったのはごく近年のことである。
出典および編集追記:
1. 厚狭へ遊びに行ったとき鎌を使って杉の木材から外側の皮を剥ぐ作業を手伝ったことがある。

2. つばを上に向けた状態にすると紅と白が半々の状態になる。その状態で帽子を被ってつばの外観から「ウルトラマン!」とふざけることがよくあった。

3. 授業として行われていたので当時の女子は小学校卒業までに誰でも南蛮音頭の振り付けを習熟している。このため学童期を市内で育った現在の50歳代から上の女性は殆どが南蛮音頭を踊りこなせるのに対し、男性は後年自主的に習熟しなければ殆どの人が踊れないといった状況である。個人的にもまったく覚えていない。
《 社会見学 》
イベントと言うよりは社会の野外授業の一環として社会見学が行われた。低学年時は阿知須の合板工場と西本牧場、中学年時は松月堂パン工場だった。合板工場の見学では後に作文提出という課題があったらしく当時の作文が部分的に遺っている。


詳細は外部タイムラインにコメントしている。(要ログイン)
外部ブログ記事: 押し入れタイムスリップ - 小学校低学年時の作文
また、松月堂パン工場では見学後のお土産に児童一人2個ずつ菓子パンが支給された。

この他、小学生時代に見学したと思われる場所としては秋吉台、御撫育用水路の昭和隧道、木田の川越えの噴水がある。いずれも何年生配当時だったかは分からない。
《 遠足 》
遠足とは先生と学童が特定の場所まで歩いて行き、屋外で昼食を取り学校内とは違った活動を行うイベントである。
保護者にも告知するためにプリントが配られ、持っていくものの一覧が記載されていた。ちり紙・ハンカチという日ごろから携行すべきとされていたものをはじめ、母親手作りの弁当、水筒に入ったお茶、下に敷く大きめのシート、食べた後のゴミを入れる袋、そしておやつ類だった。この中の決まり事として有名なのはおやつとして持参できる菓子類の金額に上限が決められていたことである。その金額はお店での購入金額相当で上限300円と定められていた。当時の物価から言えば300円あれば3〜4点のお菓子や飲み物が買えた。定番のお菓子類としては森永のチョコボール、ジューC、チロルチョコなど現在も売られているものの駄菓子のカテゴリに入るようなものが主だった。それらは弁当と共にリュックサックへ入れるので、嵩張るものを持っていくことはできずおやつの種類も限られた。小袋に入ったあられ類は当時からあったが、ポテトチップスのような袋菓子はまだ世に登場していなかった。

当時の学童はお小遣いとして与えられる金額は限られていて、それとはまったく別におやつを買うことができたので、遠足用にどのおやつを買うか品定めすることからして学童にとっては大きな愉しみだった。しばしば仲の良い友達と一緒におやつを買いに行った。300円以内と決められていたものの金額の上限を超えていないかのチェックは行われなかった。保護者の中にはお弁当の中に半分に切ったみかんやバナナを入れていた。実質にはおやつなのだがこれも細かくは調べらることはなく、甘い菓子を持っていきたいときの裏技的存在だった。
遠足とは言っても屋外授業の一環なので、決められた以外のものを持っていくことはできなかった。例えば外で遊ぶからと言って野球のボールやバットなど遊び道具を持って行くのは禁止だが、コッソリとボールをリュックの中に忍ばせて食後に遊んだ学童は少なくない筈である。
【 鍛錬遠足 】
鍛錬遠足は小学5〜6年生実施時のものだけを覚えている。行き先は霜降山で、これは適度な距離のある市内の小学校では概ね共通していた。
恩田小学校から霜降山へ歩いたルートは現在の男山コースと呼ばれる部分で、そこまでの経路はほぼ確認済みである。即ち校門を出て恩田交差点付近まで歩き、そこから市道清水川恩田線を通って清水川交差点を横切り、市道清水川梶返線を経て梶返八幡宮で休憩、そこから琴崎八幡宮まで出て男山に向かうものである。この経路は恩田山から梶返方面へ向かう最初期の古道であり、代々昔からこの道が選定されていたと思われる。
梶返八幡宮は休憩地で、八幡宮の境内には陸生の巻き貝が棲んでいるという指摘が理科の授業でなされた。実際、境内の樹木にヤドカリを細長くしたような巻き貝を見つけたときには驚いた。現在も居るかは分からない。

この次の休憩地は琴崎八幡宮の近くにある琴崎公園である。ここから先は正確なルートがよく分かっていない。途中で男山の市食肉センター横を通っているので、あるいは真締川沿いの道を歩いたと思われる。食肉センターでは肉牛が解体された状態で吊り下げられているのを目の当たりにし、結構精神的に来る学童もいた。現在なら如何にも配慮がないと問題視されそうだが、先生はこうして私たちの食卓にも牛肉が供せられており、嫌な感じであろうがこのような仕事に携わる人々が居なければ牛肉を食べられないと冷静に説明していた。

帰りも同じ道を歩いた。琴崎公園で休憩していたとき、学童の相当人数が交替で園内にある水飲み場で水を飲んでいて先生に怒られた記憶がある。みんな何故怒られるのか理解していなかった。
【 お別れ遠足 】
お別れ遠足は各学年の3学期末に行われた。行き先は常盤公園で、これは近辺にある殆どの小学校で共通していた。同世代の市民で「常盤公園へデートに行ったカップルは別れる」という都市伝説が根強く伝承されている事実は、お別れ遠足が由来と考えられている。[1]

小学校から国道沿いを歩くと常盤公園は遠くに感じられるが、当時はまだ常盤小学校がなかったので亀浦在住の学童は毎日、学校から常盤公園の距離以上を歩いて通学していたことになる。ただし当時の交流があった級友は殆どが恩田地区内だったので、亀浦在住だった学童がどれほど居て、日々の登下校をどうしていたかは分からない。
出典および編集追記:

1. 常盤公園に関してFBページに掲載したところこの件について言及する読者が多く、未だこの都市伝説の知名度が相当に高いことを伺わせた。「FBページ|2015/2/1の投稿(要ログイン)
《 転校生 》
そう頻繁ではないが学期の途中で転入・転出する学童があった。転出は何処のクラスでも起こり得るが、転入の場合は所属させる組が決まっていたように思う。各組の学童数がほぼ同一になるように最も少ない組へ入れた筈である。
小学校時代のもっとも想い出に残る転入転出生となると小学2年生次に転入してきて3年生を待たずに転出していった女の子の事例をおいて他にない。風のようにほんの一瞬、学童期の自分と生活線が交わっただけで去っていった事例だった。
派生記事: 初恋の女の子
この他に4年生時に男子一人、6年生時に男子と女子が一人ずつの転入生があった。いずれも卒業時まで学校に居た。4年生の男子は過去に2〜3回行われたクラス会として先生の家を訪れるとき同席したのだが、転入が4年生の後の方だったようで一緒だった期間が短いせいか私を含めて同じクラスだったことが覚えられていなかった。本人はやや落胆していた模様だった。
《 修学旅行 》
恩田小学校の修学旅行は広島か別府のいずれかで、毎年保護者の意見も考慮して決定することになっていた。広島の場合は原爆ドームと宮島、別府では温泉巡りと城島高原がメインである。私たちの前年、前々年は広島だったが、私たちのときは別府見学が多数だった。一般には広島希望となる年の方が多かったようである。したがって学童期を市内で育った在住者の多くが宮島を訪れた経験がありながら、個人的には一度もない。

見学ルートは阿蘇の外輪山を見て城島高原ホテルで宿泊、翌日に別府のラクテンチで遊んで帰るというものだった。このとき観光バス内へ財布を忘れてせっかくラクテンチへ行ったのにお金がないためまったく遊ぶことができなかったのは語り種となっている。[1]修学旅行後に国語の授業で旅行の作文を書く機会があり、「ラクテンチの出来事」というタイトルで書いた作文は「恩田の子」に掲載された。

作文好きな子どもたちにとって、当時「恩田の子」へ掲載されるのは大変に誇らしいことだった。小学4年生時に受けた徹底的な文章教育以来、自分も作文にある程度の自信を持ち始めていたらしく、当初から恩田の子に掲載されることを目標に構成を練った。望み通り作文が掲載される運びとなったときは、修学旅行時の失敗を帳消しにするほど嬉しかった。「恩田の子」は各学年時に一度配布されたが、自分の作文が掲載された昭和51年度のものだけが保存されている。
こういった評価を受けることが遙か遠い昔ながら現在の記事作り好きに大きな好影響を与えている
【 集団行動の予行演習 】
これは修学旅行のときではなく社会見学に先だっての演習だったかも知れないが、体育館に集められバスの乗り降りに関する練習を行った記憶がある。バスの座席構成と同じ配置で床にテープを貼り、乗降口から一列で手際よく乗り降りする練習をさせられた。中学校の修学旅行前にも新幹線の座席へ座るとき似たような予行演習が行われており、記憶が混同されているかも知れない。
出典および編集追記:

1. 旅行が終わってからも暫くは級友から都々逸風に「財布を忘れたラクテンチ」とからかわれた。恩田の子へ掲載されたことでそのことはクラス外にも知れ渡った。もし小学6年生時代の級友でクラス会を開催したなら、私に関して開口一番に話題とされるのが確実そうなほどの知名度である。
《 卒業式 》
記事作成日:2015/2/10
卒業式は運動会と同様、当日にいきなり行うのではなく予行演習があった。特に卒業式は数日前から3〜4回くらい体育館に椅子を並べる本番と同じ形式で行われた。予行演習なので卒業するという実感がなく友達同士ふざけていた。特に卒業式で歌う歌や台詞などの練習が退屈で、替え歌などを歌っていた。ありがちなことだが、去りゆく者を見送る定番の台詞「さようなら」の部分をわざと「さよおなら」などと強調して歌うなどやっていた。
卒業式で歌われる歌は、先生が旅立つ児童に贈るものが2つあった。即ち「佳い日この日あなた方はこの学校を御卒業…」または「君たちよ」であった。他方、学童から先生へのお礼は決められた台詞を男女が唱えるものだった。音楽の授業は専科の先生が教えるので、担任の先生の歌声を耳にする唯一の機会だった。
私たちの時期は6年生が6組まで存在し、学童数は200人を越えた筈である。ステージに上がって校長先生から卒業証書を受け取った記憶は微かにあるが、一人ずつの名前呼び上げが行われたかは分からない。証書を受け取った学童は順次、出席している保護者と随伴して体育館を退出した。それまでは結構ふざけていても在校生が両側一列に並び拍手しつつ見送ってくれる中を歩いて退席すると、先生との別れに加えて小学校そのものの別れが実感されてうすら涙が込み上げて来るものだった。
卒業式の記念品は紅白饅頭だったと思う。それから絵画の時間にあらかじめ作成しておいた自画像を貼り込んだ文集とアルバムである。アルバムの写真は当然ながらモノクロであった。
また、卒業する生徒の保護者がカンパして卒業記念の品を学校へ寄贈するのが習慣となっていた。それらは植樹であったりモニュメントであったりするのだが、私たちのときには何を寄贈したか思い出せない。夢の砂山を構成するタイルに名前と組を書いて貼り付けられたものがあった。
当然ながらそれらは跡形もなく撤去されている筈である

卒業式の正確な日にちは覚えていない。3月の中旬だった記憶がある。しかし見送る在校生の側からすれば、もし卒業式が3月中旬なら春休みの始まる日よりずっと早い。在校生は卒業式の日は式のみ出席して終わるものの翌日以降は普通に授業があった筈で、卒業する学童は春休みが通常より長いことになる。

卒業式は別れのイベントではあるが、終わった後も特別な集まりなどはしていない。卒業を機に引っ越しでもしない限り、香川学園付属中学校へ進学する学童を除けば誰もが常盤中学校へと行き先が変わるだけだった。したがって小学校を卒業したという節目になるだけで友達との繋がりはまったく変わらなかった。自分としてもそれほど重要視していなかったからか小学校の卒業証書は手元に存在せず、既に廃棄してしまったようである。
《 クラス会 》
記事作成日:2015/2/10
小学校の同窓会は正規のものは行われていない。そもそも同窓会という組織自体が存在せず幹事などの取り決めはなかった。卒業後の中学校進学はほぼ全員が常盤中学校でクラスは異なるものの転校しない限り連絡が容易に取れることも要因にあった。小学6年生の修了後、中学1年生になってあまり日が経っていない頃に当時の担任を交えて常盤公園へ遊びに行くイベントはあった。

全員の集まるクラス会ではないが、小学4年生を修了したとき春休みを使って有志数人で担任教師の家へ電車で遊びに行ったことがある。このときはクラスの中で学級委員をしていたT氏の働きかけがあった。最初に行ったのは中学生時代だったかも知れない。これには学童と先生との結びつきがもっとも強かった時期であることの他に当時の担任教諭の人柄によるものが大きい。既に進学先がバラバラでありながら連絡を取れたのは、当時は卒業アルバムに学童の名と共に住所電話番号が記載されるのが普通だったからである。現在は個人情報保護の観点から記載すべきものではないとされるが、このような後年の連絡取り合いを難しくしているのは確かである。

大学時代には恐らく3度目の会合が実現している。このときはT氏ないしはH氏の働きかけがあった。しかしその後は一度も開催されていない。H氏は京大進学と話していたが、4年生時の遅くに転入してきたせいか影が薄かった。

現在はFacebookをはじめとするSNSの普及で、一旦は親交の途絶えた級友を見つけて繋がり合ったり新たな関係を構築しやすい環境になっている。しかし自分に関してはいずれ述べる事由により、名前によってSNS上で自分を見つけ出される可能性は基本的にゼロである。ちなみに現在は年一回年賀状レベルのやり取りをする級友すら存在せず、恐らく男女の別なく今では市内に居ないと思われている。もっとも一連のこの記事を公開すれば、私の名前の公開とは無関係に記述内容で特定されるかも知れない。
《 その他稀少な体験 》
記事作成日:2015/2/12
図画工作で一枚板をジグソーで削って動物を切り出し、彩色したり表面を彫刻刀で削るなどして壁飾りを造った。クラスから一つほど優れた作品を選定し提出することがあり、担任が私のとU氏の作品どちらを選ぶか迷っていたとき、実物を見て決めたいと言われて家にその作品を取りに帰るよう言われたことがある。間違いなく授業時間中のことで、担任の許可を得て授業中に学校外へ出て家に帰った唯一の事例である。これは学校の内規としては違反になったと思う。
家には誰も居なかったが玄関の鍵を持たされていたので作品を自分の部屋から取り出して学校まで再び持参した。現物を見て担任教師は熟考した結果、U氏の作品を市展へ出すことにした。私のは魚の表面に○×の細かな模様を彫った作品であり、U氏のは緑色に彩色されたカタツムリだった。最終選考に残ったことはU氏も知っていた。壁飾りは中学生以降かなり長いこと部屋の西側の壁に飾っていた。現物は段ボール箱へ入れて保存してある。

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