誤りと認識している構文や語法

筆記インデックスに戻る

記事作成日:2017/10/13
最終編集日:2024/4/21
どんな内容であれ自分以外の誰かに提示される作文は、同等程度に日本語を理解する人に何かを伝える目的で作成される。形のない概念やそのままでは伝えられない視覚などで得られた情報をなるべく正確に記述するものでなければならない。このためにすべての書き手は、一般的な現代社会人が持ち合わせていると思われる共通概念を交えて読み手の脳内から引っ張り出すことを試みる。

共通概念を代表するキーワードは、ただ単に羅列するだけではなく適正な論理で接合されていなければならない。これを無視した文章は分かりづらいだけでなく誤解を産み出す。そこまで行かなくとも極めてリズムの悪いものになってしまう。そのような事象がみられる文章を個人的には「文章の関節脱臼」と呼んでいる。読んでいて大まかな意味が通じるが、構文として何処かしら疵(きず)を持つものをいう。以下、そのような具体例を挙げる。これらの”関節脱臼症状”は重度で殆どの読者にとって受け入れられないと感じられるものから、それほど目くじらを立てる程でもないのではと容認されるレベルまで多種多彩である。

以下に示す内容は、注意深く検討し回避するよう努力している項目である。○が私の主観的判断で適正と推奨される文体、△はかつて誤用と考えられたり今なお疑義を唱える向きがあったりするなど好ましくない要素を含む文体、×は現代においても誤りで修正すべきと考える文体である。これらはすべて記述文の場合に限定され、会話文ではこれほど厳密に扱われない。ここでは論述を前提とした最も厳格なルールの元で考えている。
《 並列描写の破綻 》
軽度の例。現代ではかなり頻繁に見受けられる。
×「この溜め池で魚を釣ったり泳いではいけない」
○「この溜め池で魚を釣ったり泳いだりしてはいけない」
「〜たり」は2つある事象を並列し描写するものなので、「AしたりBしたり…」の形で用いるのが正則である。構造的には「魚を釣る」ことと「泳ぐ」ことが「いけない」に等価に結びついている。ただし実際に溜め池へ設置される看板では、しばしば冒頭のような表記になっている。これは構文規則の順守よりも短い文章にして立て札を見る人々の理解を最優先にしているからである。正規の用法では長くなってしまうため、簡素化を旨と為す現代社会ではかなり容認される傾向にある。この意味でここでの×は△に近いかも知れない。

上記は名詞の並列だが、同様に複数の事象を記述する文を並列させる場合も、各事象を受ける形を明確にしなければならない。
×「私の趣味はカラオケで演歌を歌うことと、毎月一回くらいボウリングにも行っています。」
これも上記の並列叙述のルールを犯している。意味はもちろん通じるし会話などでは意識さえもされない。しかし記述された文章では目で複数回追えるので、構文として不適切であることがすぐ分かる。
「私の趣味は」で始まりカラオケに対しては演歌を「歌うこと」としているので、ボウリングに対しても同様に「〜すること」の形にしなければならない。上記の文章を並列型に分解すれば、後半部分は「私の趣味はボウリングに行きます」となってしまい意味を成さない。したがって構文的には
○「私の趣味はカラオケで演歌を歌うことと、毎月一回くらいボウリングに行くことです。」
が正しい。[1]

会話では文章にするよりも短時間で多くを語れるので、敢えて単一文に仕立てることなく英語文法でよくみられる「叙述したいことを冒頭で手短に述べてその直後に詳細説明を沿える」形式が取られる。単一文に拘らなければ、記述文でもこの形式の方が分かりやすいとも言える。
○「私の趣味はカラオケとボウリングです。カラオケでは演歌をよく歌うし、ボウリングは月に一回くらい行っています。」
上記の後半部で「カラオケでは演歌をよく歌うし」は「カラオケは…」にも置き換え可能(「カラオケ演歌を歌う」と誤解される余地がないのは明らかなので)だが、後者の方がくだけた言い方になる代わりにカラオケの部分が主部のように聞こえて違和感があるという意見もあり得る。後ろの「ボウリングは…」の部分は「ボウリングでは」に出来ないのは自明である。

ついでながら並列すべき項目(特に名詞)が3つ以上になるとき、現代国語ではどのように書くべきか特に標準形式はない。並列関係さえ崩さなければ接続詞「と」を介して単純に列挙して構わない。
○「豆腐と醤油とネギを買って来て。」
ただし述部に配される場合や並列項目が3つ以上に及ぶときは、英語の A, B and C のような書かれ方をされることもある。これは4つ以上に及ぶ場合は特に顕著である。
○「習熟に必要なのは努力、継続、そして忍耐だ。」
この場合、3番目の項目の前に「そして」を配することは必須ではない。英語ではかならず and で結ぶが、日本語の場合はやや仰々しさを感じさせるので上記のような強調文的な使い方をするとき以外あまり一般的ではない。例えば冒頭の例で「豆腐と醤油、そしてネギを買って」とは言わないし書かれない。あまりにも英文直訳調で不自然だからである。(この他の例については「英文直訳調が強い表現」を参照

4項目以上に及ぶ場合、または3項目でも特に重要で強調したいとき、いきなり並列項目を供述するのではなく、後続にいくつかの注意を払うべき並列項目がある旨の前置きをする場合がある。これは会話において特に顕著であり、前述の英語形式の踏襲とも言える。
○「今から言うものを忘れず買って来てね。豆腐、醤油、ネギ、黒ごま、わさび。分かった?」
この語法は英語の仮主語 It や There is 構文のように主部よりも叙述部の方が長い場合に伝達内容の見通しをよくする目的で自然と用いられている。

もっとも上記のような会話文であれば技巧よりも実際に話者によって発せられた語順が最優先される場合が多い。これがおよそ等価で主部述部を伴う項目を列挙する場合は、文章の記述においては句点で区切りつつ一文にまとめようとせずに箇条書きする方が分かりやすい。
《 自動詞と他動詞の受け方 》
長い文章になると見落とされがちである。
△「蛇瀬池は元禄六年(1693年)のこと、領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に築堤された人工の溜め池である。」
○「蛇瀬池は元禄六年(1693年)のこと、領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に築堤した人工の溜め池である。」
この文章は二重構造になっている。「蛇瀬池は」が主語であり、副詞節が挿入されて「溜め池である」となっている。挿入された副詞句も主語+述語を備えているが、この部分においては「椋梨権左衛門俊平が」が主部である。この述部を考えるなら明らかに「築堤された」ではなく「築堤した」でなければならないことが分かる。全体の構文は以下のように解析される。
蛇瀬池は
 ・元禄六年(1693年)のこと、
  ・領主福原家の命を受けた椋梨権左衛門俊平が
   ・鵜ノ島開作の灌漑用水確保を目的に
  ・築堤した
人工の溜め池である。」
ここが「築堤された」のままで正則の文章であるためには、書き手に「築堤なさった」のような尊敬語の義が含まれている場合に限られる。現代日本語では「〜された」は受け身ないしは尊敬の義をあらわす助動詞だからである。ただし書き手に元からそういった意味合いを込めているなら、両方の意味に取れる「〜された」ではなく「〜なさった」など別の尊敬表現を使う方が良い。

ただし現在では一文がこれほどの分量を持つだけで長文とみなされ、それだけで分かりづらいという目で見られる。論述文の場合はともかく、一般向けの平易な説明を想定している場合は(文字数制限が求められていない限り)いくつかの文に分割し記述した方が分かりやすい。読点が連続しなかなか句点にたどり着かない長文は、読者に対して単に長くて分かりづらいと感じさせるだけでなく、主張の内容を追っていくことすら困難にさせてしまう。
《 特定の形式の後置が求められる副詞 》
△「全然平気ですよ」
○「全然ダメだ」
「全然」を副詞として使う場合、後ろには「〜でない」のような否定形を置くことしか認められないのが正則である。現時点では「誤りではないが読んでいて(聞いていて)違和感がある」状態なので、カジュアルな場合を除いて避けている。他方、副詞「とても」もかつて「とても…ない」の如く否定形を後置する形でしか認められなかった。現在は肯定否定双方の使用が一般的になっている。「とても綺麗なバラですね」を誤った文とみなす現代人は皆無だろう。
《 可能を示す助動詞の省略形 》
タイトルよりもむしろ「ら抜き言葉」と言った方が分かりやすいだろう。次のような例である。
×「お子様にも食べれるカレーです。」
現代社会はこの表現をほぼ容認している感じがある。一般人の会話ではまったく違和感なく受け入れられるし、誤りとすら認識されない傾向がある。ただし、さすがに権威あるレベルのアナウンサーの口から語られることはない。
このことは記述文においてさえ同様で、メニュー紹介などでは上のような語法はまったく一般的である。しかし多くの世代は未だこの語法を日本語として広く容認されたものとはみなしていない。個人的には現時点での現代国語文法として(記述・会話を問わず)完全に誤りのレベルと考えている。したがって当サイトでも会話文を除いた地の文で用いられることは絶対にない。例えば飲食店で上のような表記を書いたメニューを見たなら(元々気楽な雰囲気を前面に押し出したお店なら別として)私は教養レベルが窺い知れる店と考えてしまう。

正則には「食べれる」であるべきところを「食べれる」と表現することから、一般には「ら抜き言葉」として語られる。文章変換でも「たべれる」で変換を試みると「ら抜き表現」として指摘される。
ら抜き言葉はまったく頓着せず気にならないという人から、極めて品位が低いと嫌悪する人までさまざまである。時代が進めば違和感も緩和されるというものでもなく、一定年齢より上の世代からは殊の外嫌われている。敢えて誤った語法を取り入れて自分の発する文章の品位を低下せしめることもないだろうから、幅広い世代に読んで頂く文章を書くなら注意深く回避しなければならない。

ら抜き表現は今後まだ揺らぐ可能性がある。それと言うのもすべて「〜れる」が誤りで「〜られる」にすべきだとは言い切れない表現も存在するからである。例えば以下の表現は「登られる」に変えなくても良い(ら抜き言葉ではない)とみなされている。
○「お子様でも30分程度で登れる山です。」
ら抜き言葉はしばしば若者に目立つの省略語の代表格のように思われているが、そのような指摘以前から一部の地域では古くからの方言として用いられていた事実がある。したがってら抜き言葉イコール若者の日本語の乱れの象徴と決めつける論法は必ずしも正しいとは言えない。

「ら抜き言葉」は、記述文よりも会話において強く意識される点が他の語法とは異なっている。安直な回避ルールとして、すべて「〜られる」に言い直すというものがある。しかし「登れる」で済むところを「登られる」と表現すると、今度は「〜られる」を尊敬語として解釈されかねないという誤解の元となる。

どのような場合にら抜き言葉になるのかの判断は個別に体得する以外ないと思われるが、経験則としては「ら」を抜いたとき「れる」の直前にエ行の音が配される場合は容認されていない「ら抜き表現」となることが多い。「食べれる」「出れる」の類である。これらが特に耳障りだとして非難される理由は、エ行の音の衝突に由来すると思われる。音感的にだらしない印象が強まってしまうのである。
エ行の音をたくさん含む語は、概して品が無かったり粗野だったりする表現が多い。「何言ってやんでえ」「そうにちげえねえ(違いない)」の類である。共通項が見いだせただろうか。
《 同一助詞の連続 》
助詞「の」に於いて顕著である。
×「市役所の3階の西側の端の突き当たりの部屋の奥に…」
実際には3度目の「の」が現れた状態で助詞の重複が指摘される。


「の」が重なる文章は鈍重で長たらしい印象を与える。小倉百人一首において柿本人麻呂の詠んだ「あしびきの山鳥の尾のしだり尾の…」は、この効果を意図的に取り入れた名句である。こなれた文章を目指すには相容れないが、重複する「の」を回避するのは難しい場合がある。上記の例では「市役所3階の西側端の突き当たりにある…」などと別の表現手法に置き換える方法がある。

その他の助詞の連続も個人的には好ましくないものとして回避している。
△「懐かしい」は、すべての世代の人々に肯定的に受け入れられる概念である。
○「懐かしい」は、すべての世代の人々へ肯定的に受け入れられる概念である。
これは誤りではないものの音読・黙読したとき如何にも不自然で収まりが悪いからである。例えば「に」では2度目の重複だけで指摘される。このような場合、どうしても他の適切な助詞で置き換えられない場合を除いて別のものに置き換えている。
以上の例はごく基本的なものであり、走り書きしたときに若干発生させてしまうことはあるにしても多発させてしまうことは(少なくとも日常的に記述を行っている人々の間なら)まずない。一連の基礎的条件を順守するだけでも文章のこなれ度は相当に向上する。
出典および編集追記:

1. ここで「ボウリングに行く」は、ボウリングへ行くこととボウリングをしに行くの2通りの解釈があり得る。厳密には一義のみを与えるこなれた文章のルールに反するが、実際には上記の2つは同義であることが通例なので問題視していない。

トップに戻る