よく尋ねられる(に決まっている)素朴な質問

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記事作成日:2012/12/31
ここでは読者の方々がきっと疑問に思っていらっしゃるであろう質問に先回りして答えています。

・これは何ですか?郷土史とも違うっぽい感じですが…
郷土ツーリズムと呼ばれるものの一形態です。ニュー郷土史とも呼べるでしょう。
郷土史と言えば(やや固定観念も混じっていますが)それぞれの地区ごとに独立して活動し、会報を出版して一部の研究家・愛好家が集って主に歴史を掘り起こす活動を記録する活動というイメージがあります。こうした草の根的な活動のお陰を受けて豊富かつ詳細な出典を参照できるわけですが、郷土の歴史を後世に伝えるという志向するところは共通でもニュー郷土史の取り組み方や対象は些か異なります。

例えば市内の道路やダムなどの風景を撮影した写真が頻繁に登場しますが、一連の詳細情報は担当部署に照会することで殆どいつでも詳細を知ることができます。また、客観的にみてもそれ自体を掘り下げて研究する価値に薄く、その意味では「郷土史になじまない」対象です。
しかしあらゆるものは時の流れと共にその姿形を変えます。殆どは微細で言及に値しない変化ですが、昭和期にあった橋が取り壊されたとか道路が改修された場合、以前どうだったかを一般人が知る方法は基本的にありません。工事業者であれば着工前の写真を保存している場合がありますが、基本的にネットという「誰でもいつでも閲覧できる場所」には提示されず、ましてその場所で起きた特殊な事件などは情報を持っている人が提出しなければ永遠に歴史の闇に葬られてしまいます。

歴史ある寺院は正統派の郷土史編纂者が充分に調べてくださっているので、このホームページでは基本的に「物件」として取り扱いません。重複する事象を取り上げるよりは、自分を含めて少人数が持っていると思われる情報を提出した方が参考になる可能性が高いからです。
郷土史が先人たちの歴史を後世に正しく伝えていくものとすれば、ニュー郷土史と目されるものは自分自身の体験および見聞した今と昔の情報を後世に伝えていくものと考えています。
郷土史に携わる人々が江戸・明治・大正期の遺構で資料が少なく正確な情報を伝えようとするのに苦労なさることが多いのと同様、ニュー郷土史では昭和中後期に造られたことが分かっている遺構や現役構造物でさえもその詳細な成り立ちなどを知る人が見あたらず苦労する場合が意外にあります。こんな最近の簡単なことが分からないもどかしさや不思議さを抱きつつ謎解きに向かうプロセス自体も面白みの一つと言えます。ひいては数十年経って今、目の前にある構造物などが本当に「古くなってしまった」とき、数十年後あるいはそれ以降を生きる人々にとって価値ある記録になると信じています。

・正直「こんなもの写真に撮っても仕方ないのでは…」という記事が目立ちます。
だけどあなたはそんなつまらない記事をお読みになってしまっているのです(微笑)
当サイトの記事を見ると、ダム見学会レポートや由緒ある素堀り水路などの記事は分かるとして、普通の道路や公園を題材にした記事が目立ちます。それだけでも記事の存在価値を疑うのに、水の引いたダム湖や決して綺麗とは言えない溜め池の中に入って写真を撮った記事もあり、理解不能というか意味不明に思われていることでしょう。

一連の記事の存在理由は3つあり、そのうち最大のものはまったくの自分による好奇心です。「そこには何があるのか?」「一体どうなっているのか?」の回答を最も明確かつ客観的に提示してくれるのはデジタル画像です。客観資料を遺すことはテーマ踏査の基本ですからこの作業は省略できません。
それを何故また記事化しているかという理由が残りの2つであり、読者にこういった視覚的・頭脳的刺激を与えることで最低限は暇潰し、あわよくば如何にして知的好奇心を研ぎ澄ましていくかを間接的に示すことができるからです。
まったく興味も関心もなければ、当該記事やこのFAQもお読みになっていない筈です。しかし理解不能と思われる連載記事のいくつかは何となく最後まで読んでしまっているでしょう。その行動様式は、やはり「この先どうなっていくのか?」という些末ながらも知的好奇心が介在している筈です。

私独自の考えですが、これは感動の閾値と達成感、納得感が些か異なるだけで「どうして人は旅行に出かけるのか?」と本質的には等価と思っています。旅行に出かける場合多くは未だ一度も訪れたことのない場所か、知っている場所ではあっても日常生活ほど頻繁には訪れない場所に限られます。そこへ足を運ぶことで日常生活では出会わない視覚刺激を得ることができるでしょう。美しい山々、広々とした海、由緒あるお寺などです。
自分の暮らす市内でもまだ一度も行ったこと・見たことのない場所はいくらもある筈ですが、そこへ出かけることを人は旅行とは言いません。しかしそこに眠る物件があなたの知的好奇心を刺激し、非日常的感を味わわせてくれるならば、それは旅行することで得られるのよりはるかに小規模だけれども同様の刺激をもたらしてくれます。
ただしそれを理解し記事に書いたり読んで理解しようとするならば、その物件が刺激を与えてくれると感じる程度に背景を知っておく必要があります。想像力に加えて感動の閾値を自力で下げていく感受性も要るでしょう。これはとりもなおさず自分の暮らす地域を見直すことに繋がり、この過程で人は長期にわたって故郷に暮らしていながら「如何に自分は故郷を知らなかったか」に気付きます。

・何でこんなに長文なんですか?
あなたの日常会話を全部文字化すれば同じ位になると思います。
人間誰しも自分の知っていることは熱く語りたい、他の人に伝えたいという欲望があることが分かっています。だから多くの人は友達と会話を持ちたがります。しかし沢山書きたがる人はそう多くはありません。その理由は使える語を選ばなければならないことと何かのデバイスで文字入力しなければならないという制約によるものです。この双方について克服すれば直接しゃべるのより依然遅いにしても手書きよりは素早くこなせます。全てこれらを手書きしろって言われたら私だってやりませんが…

・テーマ踏査とは何ですか?何がテーマとなり得ますか?
実際に到達可能な場所で映像を記録することができれば、すべてがテーマとなり得ます。
テーマ「踏査」と呼んでいるくらいですから、観察者が赴くことのできる場所が存在することが必要になります。身の回りにあって興味を惹かれる対象まで足を運び、画像や動画などで記録し、自分の脳内で翻訳した言葉で結び付けられたドキュメントを遺す活動を指します。(テーマ踏査の定義)
言葉は私が恣意的に造りだしたものですが、取り組み自体は何ら新しいものではなく以前から多くの方が手がけていた筈です。例えば電車や機関車が好きで、駅や沿線でカメラを構える趣味を持つ方は昔から存在し、最近では「撮り鉄」と呼ばれることが多いですが、彼らの取り組みも広義のテーマ踏査となります。
撮影して個人的に楽しむだけなら通常の撮り鉄派とも言えますが、自分は何故被写体にカメラを向けるのか?その魅力は一体何?と問われるなら、恐らく魅力を余すことなく語りたくなるでしょう。そのために写真や動画を元に自分なりの解説をつけたり電車の特徴を調べて一覧にしよう…などと考える人もいます。そのモチベーションにテーマ踏査の存在意義があり、対象は何であろうと重要ではありません。

・テーマ踏査が娯楽として嗜まれ得る背景は?
低コストで映像や動画を記録し、それを一般向けに発信できる環境が整ってきたことにあります。
生まれたときからデジカメが身近にあった世代には想像するも困難でしょうが、かつて身の回りにあるものを映像の形で記録するのは非常にコストがかかっていました。目に見えているのと同じ状態で記録するデバイスとしてカメラは昭和期から存在していましたが、まずカメラそのものが非常に高価でした。映像を記録するには毎回新しいフィルムが必要で、24枚分しか記録できないフィルムが数百円かかりました。更には撮影したフィルムを現像するための作業が要り、これには暗室という環境と特殊な薬剤、そして技術が必要なのでカメラマニア以外の庶民は専ら専門店に「現像」してもらっていました。この現像にまた数百円を要しました。
写真一枚撮るにもこれほどコストがかかってしまうので、デジタルカメラの出現以前は、カメラで写真を撮るのは特別な場合および特殊な対象に限られていました。人物なら正月など皆が集まったときの記念として撮影し、景色なら旅行に出かけたときくらいのものでした。庭先で遊ぶ我が子の写真は撮っていましたが、家の前を通っている市道や何でもない溜め池の写真を撮る人など居なかったし、そんな場所でカメラを構えていれば、気が触れているのでは…と思われたことでしょう。
デジカメの出現は、昭和期に特有だった「カメラが被写体として選ぶべきもの」という常識を完全に塗り替えました。フィルムに相当する部分は記録用メディアに置き換わり、初期費用はフィルム以上にかかりますが、パソコン等にファイルの形で取り込んだ後消去して何度でも使えます。何よりも現像という概念がまったくなく、写したその場で即座に映像を確認できます。失敗と思えば即座に消去して撮り直しが効くので、フィルムの無駄を気にする必要もありません。デジカメで撮影された画像一枚当たりのコストは限りなくゼロです。
それでいてカメラで撮影された映像は「過去を切り取った一幕」である本質的部分は変わりません。時間は常に正の方向へ流れて行き過去には戻らないとなれば、何の気なしに撮った一枚の写真が後々で大きな意味を持つ場面が往々にして起こります。そうであれば「我々はデジカメというデバイスを手にした以上、もっと積極的に過去を切り取り、記録に遺さなければならない」とも言えます。

この流れと実にぴったり呼応するのが、情報発信に係るコストの低下です。
同じく昭和期の人々は、後世に何かを遺したい、広く伝えたいと願ってもそれを可能にする手段が極めて限られていました。一般には自費出版、新聞や雑誌などへの投稿です。いずれも個人でそう簡単にできるものではなく、細々と個人的な日記をつける程度でした。
今やブログやホームページという手段があり、ネット接続に係るコストを除けば完全にゼロコストで情報発信できます。それも自らが著した書籍が配信される地域という狭いものではなく、全世界にです。

ここまでお膳立てが揃えば、高画質なデジタル画像を添えて自分の思うままの解説をつけて、全世界に何でも発信できます。画像情報の配信にはつい最近まで容量の制限という壁がありましたが、記録媒体の高度化に伴いデータ保存に係る単価はメディアの登場初期とは比較にならないほど安くなっています。これに伴い、大量のデータを保存する領域を無償ないしは安価で提供するサービスが出現し、現在のようなホームページ造りを可能としています。

・各地域のマニアックスなホームページが出来るとか…
むしろそのような流れを加速させるためにマニュアルの作成を考えています。
真に面白くて役に立ち、必要とされている情報なら、殊更に宣伝しなくても黙って誰かが始めるものです。私が知らないだけで、以前から同種のホームページは全国に散在していましたし、これから増えていくことでしょう。

皆様の地元にある自慢の史跡や美しい景色を自分たちの子や孫、次の世代に語り継ぎたいと考えるのは自然でしょう。映像や動画で記録する手段や公開する方法は既に整い、しかも殆どゼロコストで実現できます。あとは現地へ赴いて映像データを採取しそれを誰もが24時間閲覧できるネットという場へ提示するだけです。小難しい解説は必要ありません。きっとどなたか詳しく知る方が情報提供なさるでしょうから。

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