上下抜地池【旧版】

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現地踏査日:2013/9/18
記事編集日:2014/1/13
上下抜地(じょうげぬきぢ[1])池は、厚南区の黒石にある溜め池である。

堰堤の位置を中心にポイントした地図を掲げる。


この溜め池の市道中野開作黒石目出線を挟んで北側に平尾池がある。平尾池に比べて低い標高位置にあり湛水面積もかなり小さい。
それほど特徴あるとも思えないこの溜め池に関して最初に気になったのは、その一風変わった名前である。市内にある溜め池の名称を調べようとゼンリン©の地図を閲覧しているときに気付いた。
名前の由来はもちろん読み方さえもさっぱり分からなかった。素人目にも「上と下を抜いた土地にある池」とは何ぞや?と考え込んでしまう。

これほど特異な名前なら、ネット検索でこの溜め池の素性が分かるのでは…と考えた。それで現地踏査を行う半年くらい前に検索したとき、確かにこの溜め池がヒットした。読み方は書かれていなかったが、市内の危険な溜め池の一つとして記述されていたように思う。
現時点で再検索すると、溜め池などの整備過程を記録したあるサイトがヒットする。[2]それによると、溜め池名の読み方は素直に「じょうげぬきぢいけ」であるようだ。

一体、どんな溜め池なんだろう?
現地に行けば何かヒントがあるのかも知れない…厚南区にある既知物件の写真再撮影に合わせて現地踏査してきた。

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地図によれば、この辺りから左へ入る道がある筈だ。
市道中野開作黒石目出線の終点を前にした最後の市境の登り坂麓である。写真には入っていないが、市道の右側には平尾池の堰堤が見えている。


入口らしき場所にセフティコーンと単管バリケードが置かれていた。その向こうには堰堤に特有の水平線が見えていたのですぐ分かった。


バリケードは車の誤進入を防ぐためのものだろう。立入禁止の札などは出ていなかったので、遠慮なく立ち入らせて頂く。自転車を連れて行く意義に薄いので、歩道の脇に避けて施錠した。
隣接する敷地は車の整備工場で、整備工らしき方々が場内を行き交っていた。もっとも平日の昼間っから溜め池を偵察する私如き人間に頓着するほど仕事人は暇ではない。

工場のすぐ裏側が堰堤になっていた。
草木の伸びる時期ながら堰堤の形状も分かるほどスッキリしているから、最近草刈り作業したのだろう。


堰堤まで軽トラ程度なら入れる幅の道になっていた。もっとも乗り入れること自体なさそうで、タイヤの跡はみられない。
堰堤の端に石碑が建っているようだ。


溜め池は水位が低く。お世辞にも美麗な溜め池とは言えない状況だった。そのせいか溜め池の歴史を物語ってくれそうな石碑に注意が向けられた。
2つ並ぶ石碑のうちの片方は古く、もう一つは新しい。最近建てられたもののようだ。


竣工は平成19年2月となっていた。一昨年のことである。


裏側には溜め池管理者や事業費が記録されていた。


そしてもう一つの古い方の石碑…
溜め池の元の姿を探るヒントになりそうな文言が刻まれていた。


上の方には篆刻で「皇紀二千六百季記念事業」の文字が見える。
元号および西暦で言えば昭和15年(1940年)にあたる。


実際、この溜め池の起工と竣工が皇紀二千四百季節を挟んでいる。
そして当時この溜め池が呼ばれていたと思われる呼称が目に着いた。
抜地溜池


上下抜地池という名称はここには見られない。少なくとも昭和初期あたりでは抜地池とでも呼ばれる名称だったらしい。
その下には「並水路」となっており水路工事も合わせて施工されたようだ

この石碑の名称で、現在ある溜め池の呼称の由来が少し探り出せた。
以前は抜地池の上池と下池が分かれていたのでは…
同様の例として、藤山区の栄ヶ迫溜め池が想起される。実際には溜め池は3つに分かれており、昔から三段堤などと呼ばれてきた。現在では上堤・中堤・下堤として区別しているものの、一般には三段堤全体を総称して栄ヶ迫池と呼ばれている。
これと同様に、現在ある上下抜地池も元は抜地池の上池・下池と分かれていて溜め池整備の過程で一つになったのでは…と推測された。恐らく「抜地」という小字が存在し、そこに2つの溜め池があった…という塩梅だ。いくら何でも「上下抜地」という小字が存在するとはとても考えられない。
この推測を理由にファイル名を"nukiji.htm"としている

あいにく手元には厚南地区の小字マップがない。マップで確認できれば、それが溜め池の名称の由来と言えるだろう。[4]もっとも抜地という小字が何に由来するかはまた別の問題である。[3]

古い方の石碑の背面には世話人4名と区長1名の名前が刻まれていた。
詳細な名称についてはこちらの接写画像を参照


さて、現在ある上下抜地池の全容も観察しなければなるまい。
傍目にも水質は今ひとつで、水位も何故か低い。


石碑があるのと同じ側に樋門が取り付けられていた。
水位が充分に低いので一番下まで降りられそうだ。


階段の一番下まで樋門を操作する鉄棒が伸びており、蓋が開けられていて溜め池の水が自然排出されていた。
灌漑用水非需要期なので水位を低く保っているのだろうか。


奇妙なのは殆ど溜め池の底に近い場所に操作可能なバルブが取り付けてあることだ。こんな場所にあったら、水位が上がればバルブ操作ができなくなってしまうように思う。
一つ前の写真を見ると、堰堤の張りブロックには高い位置まで水の跡が残っている。樋門の階段に設置された手摺りもかなり上の方まで汚れていることから、バルブ全体が水没する水位まで上昇することがあるらしい。

階段の一番下から岸辺を撮影している。
岸辺には立ち枯れ状態の樹が残っていた。


岸辺の傾斜がかなりきつい。灌漑用の溜め池にしてはまるで山間部の谷池のようである。
こういう意味での「危険溜め池」だったのだろうか…


乾いた張りブロックの下よりも更に水位は退いており、このまま余水吐の方へ歩いて行けそうだ。


ブロックの下は明らかに乾いた土だったが、予備知識として持たされた「危険な溜め池」という文言が頭を過ぎった。しっかりしてそうな地面に見えて思い切り深くハマる事態も予想されたので、土の上を歩かず張りブロックの上を伝った。

余水吐の下から溜め池全体を撮影している。
こちら側の岸辺の方が傾斜が幾分緩やかだ。樋門のある側が一番深くなっているらしい。


傾斜が緩やかなのでその気になれば岸辺を辿ることはできた。しかし奇妙な名前以上の関心がなかったので追跡はしなかった。どうにも危険な溜め池というキーワードが頭から離れないために、不用意な行動で思わぬ事態を招きそうな気がしたので。

余水吐を下から撮影している。
実際に越流したことがあるようで、越流部の天端に沿って水の跡がついていた。


引き返さずにここから堰堤に上がった。

余水吐からの流水路は堰堤に対して斜めに伸びていた。
整備工場の建屋がかなり近い。上流に水量豊富な河川がないので特に問題にはならないのだろう。


余水吐から眺めた上下抜地池の全体像。
地図で示される通り、溜め池の奥は二俣に分岐しているらしい。


もっともそこまで追う気もなく、自分としては満足だった。溜め池の眺めは秀麗とは言い難かったが、昭和初期に遺された石碑が一見由来の分からない奇妙な名称の手がかりを与えてくれたからだ。単に上下抜地池という表記を眺めていただけでは、元々の抜地溜め池という存在を理解できなかっただろう。

一度現地を訪れる必要はあったものの、これで必要十分だ。恐らく再度訪れることはないだろう。
私は待機させていた自転車を解錠し、市道を挟んで反対側にある平尾池に向かった。
平尾池の記事を書き上がり次第リンクで案内する

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出典および編集追記:
1. 出典[2]の表記に基づいた振り仮名表記にしている。もっとも現代仮名遣いでは「ぬきじ」と書いて差し支えなく、そのように表記されている文献などがあるかも知れない。
これに倣ってファイル名も"nukiji"としている
※ 注:その後振り仮名表記が「ぬけぢ」と書き換えられていることが分かった。これに伴い新たに作成した総括記事のファイル名もそれに合わせたが、この記事のファイル名を変更すると参照元がリンク切れを起こすので変更せずそのまま時系列記事に降格した。

2. NPO法人防災ネットワークうべの記事による。

3.「ぬき」は「貫」に通じるので、灌漑用水を通す堀割や隧道が造られた地という意味ではないかという憶測が働く。これは常盤池の「切貫」からの連想である。

4. その後、厚南地区の小字図を閲覧し、上抜地・下抜地の小字を確認した。

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