市道東条下道線・横話

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ここでは市道東条下道線の派生的記事をまとめて掲載している。

《 居能花正の石碑 》
現地踏査日:2014/1/4
記事公開日:2014/1/5
本路線の起点に近い道路の左側、ブロック塀に沿う形で”花正”という文字に読み取れる非常に古い石碑がある。


石碑の位置を拡大地図で掲載する。場所は居能町1丁目である。


石碑は民家のコンクリート煉瓦塀から少し離して設置されている。


正面と言えるかどうか分からないが、もっとも大きく目立つ文字で彫られた面はこの「花正」と読み取れる部分だ。


字体は楷書体を少し変形させた外観である。「花」の草冠をこのように刻むのは割と見るとして、下の「正」のように読める文字の上部がなべぶたのような形になっているのが気になる。もしかすると異なる字かも知れない。
正の文字は花よりかなり小さいし彫りも浅い

初めてこの石碑の存在に気付いたのは一昨年2013年の夏のことだった。早くから手がけていた一部の市道を除いて居能は殆ど手つかずの地で、図書館で借りた書籍と藤山ふれあいセンターで入手した史跡マップで少しずつ情報を蓄積している段階だった。


側面には明治四十一年九月と明瞭に読み取れる状態で彫られている。
異例の古さだ。


後年この石碑は幟などの固定用に流用されたのだろう。上下にポールを留める 金具が取り付けられ、掲揚用のロープが結わえられていた。
もっともそのロープも近年はあまり使われていないように見える。


裏側は…ブロック塀があるので撮影も目視も困難だが「居能花正…」と彫られているようだ。
文字のズーム撮影画像はこちら:上半分下半分


「居能花正」の下にもあと2文字程度彫られていると思う。それはポール部分に隠されて判読できない。ポールの両側から指先で石碑の表面を触る形で調べたところ「正」の下は縦長の棒状の彫りが確認された。その下にも更に1文字程度ありそうだが本当に読めなかった。

さて、この石碑の正体は何だろう。今まで見てきたものとは一風変わっている。今まで調べてきた限り柱状の石碑が示す形態は御大典記念碑、道標、ムラ境関連で8割以上を占めている。石碑の中で大多数を占める庚申塔は曲がりなりにも自然石に手を加えて造られており四面を加工された直方体状のものは知られていない。

石碑の文字が真に「花正」であると仮定してそれが何であるかを考えたとき最初に連想されたのは遊郭であった。そして次の理由により居能にかつて存在した遊郭が私的に据えた石碑ではないかと予想する。

情報以下の記述には個人的見解が含まれます。
(1) 刻まれた文字の「花正」が遊郭の屋号と考えられること。
(2) 道標や御大典記念碑のような公に設置された石碑とは文字のイメージが異なること。
(3) 既知の藤山校区における史跡マップに掲載がないこと。
時代背景と花という文字からは花魁(おいらん)が想像される。花正が人名とは考えがたいし少なくとも小字絵図には見えていない。地名として関連性があるとすれば花河内である。遊郭の屋号かあるいは花河内にかつて存在した商号ではと考えたくなる。宣伝の目的で設置したのではと考えた。
そのことは (2) の推測にも繋がる。石碑の文字を観察するとどこかたどたどしさを感じる。特に側面の年号を記した部分によく現れている。御大典記念碑のような重要な石碑だと相応な腕のある石工が手がけるのか、何処の石碑も字体のバラエティーは別として文字が整っている。しかしこの石碑の年号の彫り方にはそれをあまり感じない。当時店を仕切っていた総支配人に相当する人物が自ら刻んだように思える。
(3) は意外に有り得る一つの根拠と思う。それは藤山校区だけでなく概ね何処でも当てはまることとして、現代社会において容認されない風俗や差別的な要素を持つ史実については著名な書籍や郷土資料で語られにくい傾向がある。遊郭の存在は宇部に限ったことではないし、特に炭鉱の繁栄した時代は現代の視点からすれば歴史上風紀的に最悪な状況とも言えた。石炭成金が女遊びに豪遊し少年非行も増加するなど荒んだ町を呈していたことを当時の地元紙が報道している。[要出典] 市内には遊郭にまつわるとされる場所や遺構などがいくつか知られるが、いずれも一部の書籍に掲載があるだけで、一般向けの史跡マップなどにはまず現れない。

以上の論拠により石碑は遊郭に纏わるものという仮説を唱えてみようと思う。藤山村は郷土史関連の資料が豊富なので、あるいは郷土史研究会の文献に遺されているかも知れない。このたびFacebookに開設しているページ側に写真を提出してみたが、今のところ読者からの情報は寄せられていない。[1]

石碑の設置時期は明治41年となれば、まだこの場所に初代の宇部軽便鐵道すら通っていなかった時代だ。資料によれば大正期に入って後に宇部鐵道となる宇部軽便鐵道が宇部駅〜宇部新川駅間に開通した。その当時は初代の駅となる藤山駅がこの近くにあった。[2]
この石碑は鉄道敷地として確保された後レールが敷かれ、白煙を吐き出す汽車が往来し、鉄の粉を頭から浴び、藤山駅から藤曲駅へ改名され、やがて宇部電車区となってそれも平成期に入って廃止され…そのときの流れをずっとここで眺めていた筈なのだ。

なお、この石碑にある「居能花正」の文字から副次的に居能という地名の使われ始めた時期を知ることができた。居能の由来は現在の梶返付近からこの近くまで西へ細長く伸びる砂州があり、それが犬の尾のような形状であったことに由来するとされている。
しかし石碑は明治41年の設置ながら既に「居能花正」と刻まれていることから、漢字表記の居能は既にこの時代には存在していたことが立証される。
【 記事公開後の変化 】
項目記述日:2018/5/17
近年、前面道路が舗装し直された折に草地だった石碑の周辺に草抑え施工がされている。


石碑そのものに変化はなく現在も文字は読み取れる。
《 藤山八十八箇所・第55番 》
現地踏査日:2013/9/24
記事公開日:2014/1/5
花正の石碑から本路線に沿って50m程度進んだ左側に藤山八十八箇所の御堂がある。
石碑から十分に近いので地図は掲載しない


祠は建築ブロック製で、民家の軒先に接する形で据えられていた。
ブロックの外観から昭和後期か平成期に入ってからの造り直しだろう。


弘法大師と立像のセットでそれぞれに手製の服が着せられていた。
新しい花も活けてあり近くに看る方がいらっしゃるようだ。


台座部分に第五十五番の番号を確認できた。
弘法大師そのものの台座文字は墨入れがされているように見える。


民家に完全に接しているため側面や背面の写真は撮影しなかった。
市道に面した場所でもありこの札所は当分は安泰だろう。
出典および編集追記:

1.「FBページ|2015/1/5の投稿(要ログイン)

2.「Wikipedia - 宇部線|歴史

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