萩原の配水塔

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記事作成日:2016/8/6
最終編集日:2018/2/8
西岐波にある市営萩原団地の高台に、遠くからも目立つ奇妙な形をしたコンクリートの塔がある。
写真は現地での映像。


この構造物の位置を地図で示す。


地図を拡大すると「市営住宅122号棟」などの文字が見えることから分かるように、[a1]この棟は萩原市営住宅の平屋群の一角に建てられている。このことより萩原団地の高台に給水していた配水塔といわれている。しかし後述するようにこの形状の採用背景など未だよく分かっていない点がいくつかある。ここでは萩原の配水塔と仮称して以下現地の映像と分かっていることについて総括的に記述する。

幼少期からの個人的関わりもあり、早くから認識され興味の対象になっていた。現地には複数回撮影に向かったが、最初期には給水塔であることすら分からなかった。


この配水塔は萩原の高台にあるため、離れたいろいろな場所からも見られる。
市街地から床波バイパスを走るドライバーにとってこの配水塔の存在に気づくのはここからの眺めかも知れない。
江頭より床波バイパスに入り、最初の坂を登って萩原方面への三差路を過ぎて権代交差点へ向かって下る途中の左側である。


道路沿いに家が建ち並び、山腹の樹木も背丈が高くなった今では注意しなければ見えづらくなった。


住宅地の少ない昭和後期あたりまでは中央のくびれ部分より下側も見えていた。また、後述するように床波バイパスを走ると萩原の高台にかなり長い間同じように見え続けるため不気味な存在でもあった。

西岐波地区在住の方にとっては、権代交差点から請川方面に向かう昔の県道(現在は市道権代沢波線)からだと正面に見える。


国道からズーム撮影している。
遠方から眺めても中央部分がくびれている特異な構造がハッキリ分かる。


現在は県道の起点が東側に移りこの道の往来は若干減ったが、地域在住の方にとってはここからの眺めは印象深いものかも知れない。
《 アクセス 》
上記のように複数箇所から見える配水塔であるが、現地へ行く道は分かりづらくやや面倒である。最も簡単なのは、昔の県道の萩原交差点から萩原方面に曲がり、坂を登り切って平坦になる辺りの緩い右カーブに接続される道を右へ入るルートである。


かなり急な坂を300m程度進んだところの左側に配水塔がある。上記写真の看板に出ているように老人福祉施設の手前になる。

これより萩原交差点寄りで坂の途中から右へ入る道がいくつかあるが、団地内道路で行き止まりになってしまう。
配水塔は山頂付近のなだらかな場所にあり、斜面には住宅が建ち並んでいるため遠くからは見えるのに配水塔へ近づくにつれて逆に位置が分かりづらくなる。配水塔のある前面道路は地元管理の道である。高台の東側は大きく開けていて急斜面なため視界が大変良く、地域在住者の満足度が高い。この辺りはかつて鯨山と呼ばれていたようである。[要出典]
【 Google ストリートビュー 】
前面道路を通って映像データを採取している。
以下は配水塔と祠、122号棟が見えるアングルの映像である。


2013年5月の採取なので萩原住宅にまだ居住者がみられるが、現在は殆どが空き家となっている。
《 不明な点と推測 》
その特異な外観から西岐波地区在住者のみならず市民でも一定の認知度を得ている。しかし以下のように詳細が分かっていない点が多い。
(1) いつ造られたのか?
(2) どうしてこの形状が採用されたのか?
(3) 現在も使われているのだろうか?
(4) 内部はどのような構造になっているのか?
萩原団地のもっとも高い場所に造られていることから、萩原市営住宅が整備された昭和中期に造られたのではないかと推測している。ただし数年前市住宅課に尋ねたところ分からないということであった。
このことから市営住宅だけでなくそれ以前から高台にあった家にも給水する役割だったのかも知れない。

この奇妙な形状は最大の興味である。遠目に見ても配水塔は明らかに中央部分がくびれた形状をしている。
コンクリート柱を現場打ちするなら、寸胴の円筒柱にするのが施工上もっとも容易である。現状のような「逆転び」の構造を実現すべく型枠を組むのはかなり困難な筈だ。それも給水の機能上必要不可欠な構造とも思えない。どうしてわざわざ手間のかかる外観にしたのかという疑問がある。
近年、ネット上に提示された各種配水塔の分析によってこの形状は施工当時の流行によるものではないかと考え始めている。他地域で造られた昭和中期以前の配水塔に同様の形状を採用したものが散見されるからだ。[a2]
ただそれだけの理由というのも現代では納得し難いものがあるが、構造物のデザインがその当時の世相や流行を反映することは一般的である。特に背の高い建築物が少なかった当時ではコンクリートの配水塔は周囲に圧迫感を与えてしまうので、多少施工に手間がかかっても景観配慮したデザインを採用したのだろう。特に同種の配水塔があるなら、同等のデザインのものを造った後で形状に違和感を唱えられても「他の地区にも同じものがある」と答えることができる。

この配水塔が現役であるかどうかも分からない。最初に現物を見たときは見るからに古そうな外観と地面に繋がっていない梯子から廃物と考えていた。現在では実際に使用はしていないが管理はある程度継続している(廃物件ではない)と予想している。
配水塔であれば市上下水道局の管轄である。夏場はこの周辺一帯が雑草に包まれるが、一時期になるとキレイに草刈りされていることもある。地元在住者が直接関係のない場所を草刈りするとも思えず、上下水道局関係者が行っているのだろう。

配水塔のある領域の小さな階段横には「西ヶ原配水区計装盤」という表示のあるボックスが設置されている。
この存在も配水塔が市上下水道局に関連づけられると考える理由である。


ただしたまたま同一場所に設置されているだけで給水系統として繋がっているかどうかは分からない。

内部がどのようになっているかは私だけでなく現物を知っている人とも興味が共有されている。[a3]現地にはこの塔があるだけで外周に扉などの内部へ進入可能な設備は何もない。航空映像で調べる限りでは上部は密閉されており点検用の蓋のようなものが見られるだけである。
後述する電動ポンプの痕跡かも知れない

もっともあり得そうな予想は単純に中央がくびれた円筒柱をしているだけで中は空洞になっているというものである。外からは何も見えないが、内部には少なくとも供給用と取り出し用の2つの管が配されている筈である。取り出し用の管が最下部にあって各戸に繋がっている一方、供給用の管は配水塔の最上部まで独立して存在し、内部の水量が下がる都度上から補充する機構になっていると思われる。一連の動作は別系統のポンプ所からの送出か、あるいは配水塔に付属する電動ポンプだろう。塔の外側には電力を供給していたと思われる電線を留める碍子の痕跡が今も観察される。
もしそうならこの配水塔は既に動作していないことになるだろう

配水塔がある地面の周辺には塔自体の保守設備が何もないので、点検口は最上部にあると思われる。配管の老朽化で取り替えや点検が必要になることを思えば、内部にも梯子があるだろう。配管や梯子が飲料水に接するのは衛生上好ましくないので、塔の内部で梯子などの保守部分と貯水部分が分離されているかも知れない。その場合でも当時は堅牢で軽いFRPのような素材はなかったので、貯水槽部分もそのままコンクリートだろう。既に内部は排水され空の状態かも知れないが危険なことに変わりはない。

側面にある地面まで繋がっていない梯子は破損しているのではなく、子どもたちが面白半分に登れないよう当初からこのように造り、点検時には作業員が別途梯子を持ってきて登っていたのではないかという意見がある。


高台は水圧が下がりがちであり、単一の本管から多くの家庭が蛇口をひねると遠隔地のポンプ所からの供給だけでは追いつかず出水不足が起きる。そこであらかじめこの配水塔に貯水しておいて水需要の急変動を緩和しているのかも知れない。
配水塔が相応に古いものならば、ある程度加圧して上水を送るポンプ所の存在が想定される。西岐波地区に水道管が布設されたのは昭和23〜26年であり、最初期は見初ポンプ所から、その後に則貞ポンプ所から送水していたようである。[a4]一連のポンプ所はどれも現存しない。

配水池など水道関連の構造物であれば書籍[a4]に建設時期を含めた詳細なデータが収録されている。しかしこの配水塔に関する記述は見当たらない。後述するように数年前から配水塔に関する写真つき記事を掲載し、またFBページでも何度か取り上げている。

萩原団地を管理する市住宅課か市上下水道局のいずれかにデータがあるものと思われる。充分に古い構造物なら西岐波区の郷土資料に取り上げられるものだが、掲載がないところからすると昭和期のものであろう。比較的近年の構造物でありながら素性がよく分からない存在となっている。
本件に関して新たな情報が得られればこの総括記事を随時更新する予定である。
《 周辺に存在する付随物件 》
平屋122号棟のすぐ前に初期の消火栓が知られている。


萩原住宅を整備したときに設置されたのはほぼ確実だろう。
今やこのタイプの消火栓は非常に少なくなってしまった。


また、配水塔のあるすぐ下の雛壇状のエリアには古めかしい祠がある。


この場所は配水塔からも前面道路からも入れるように階段が造られている。


祠には江戸期の年号がみられる。


場所が繋がっていることから最初はこの配水塔を造るとき設置したのではないかと考えていた。しかしその後祠に江戸期の年号が見られたことから現在では配水塔とは無関係と考えている。その外観から恐らくはマムシ避けを意図した八王子神を祀った祠と思われる。
水の神様を祀る意図で萩原団地造成のとき移設した可能性はあるかも知れない
初めて現地を訪れ写真を撮ったときのレポート。Yahoo!ブログに作成されている。全2巻。(2006/5/28)
外部ブログ記事: 奇妙な形の配水塔

なお、本物件は時期を変えてかなり多数回訪れている。それらのうちから総括で言及しなかった細かな部分に限定して時系列記事を作成するかも知れない。その折りには更新履歴で案内する。
出典および編集追記:

a1. この総括記事を作成した現時点では表示されているが今後地図から文字が(あるいは平屋の存在自体も)抹消されるかも知れない。

a2. 具体的なページは提示しないが配水塔や給水塔で検索すると同様の形状や上部が拡がった形状の構造物の写真がヒットする。

a3.「FBページ|7月28日配信分(要ログイン)

a4.「宇部の水道」p.63, p100
《 個人的関わり 》
萩原の配水塔は、初めて目にしたときから実際に現地へ赴くまでの期間がもっとも長かったものの一つである。同様のものとしては厚東川水路橋が知られる程度である。特にこの給水塔はその特異な外観故に、幼少期の自分には強烈な記憶として遺っていた。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

初めて現地を訪れたのは2009年5月6日だった。時期的には市街地となる現在のアジトへ生活拠点を移して間もない頃で、純粋にこの配水塔の撮影目的で出かけたようである。このときの現地での撮影枚数は僅か18ショットだった。怖いという感覚は当然なかったが、異様で不気味という印象はなお拭い去れなかった。

この後、2013年と2014年に一度ずつ現地へ行っている。2015年より西岐波方面へ月に最低一度は仕事で訪れるようになってからは、天気の良い日に撮り直しを意識して何枚も撮影している。この頃には不気味云々というよりも自分の幼少期に映像的インパクトを与えた想い出の構造物として捉えており、それが失われる前に記録を遺しておきたいというのが行動モチベーションとなっていた。
《 近年の変化 》
老朽化した萩原市営住宅の後継として集合アパートである西岐波市営住宅の建設と住み替えが進められている。この過程で西岐波市営住宅と重なる場所にあった萩原住宅の古い平屋は取り壊された。配水塔にもっとも近い122号棟の二軒長屋はこの記事を制作する現時点でなお存在するが、既に居住者はない。

萩原住宅の跡地利用は未定だが、何かの用途に転用する目処が付いた折にはこの配水塔も取り壊されるのではないかと考えている。他方、昭和中期と思われる構造物ながら歴史的構造物とも言える存在であり、萩原地区の顔として保存することを望む人の声もある。
【 読者による情報 】
項目作成日:2016/8/13
この物件をFBページ側で紹介したところ、読者より関連する情報が得られた。
この配水塔が造られたのは昭和40年代頃のことで、萩原団地の造成時期と一致する。この奇妙な形状の理由はよく分かっていないが、鼓型になったすべてが貯水槽となっているのではなく上半分のみである。くびれ部分より下側は上部構造を支えるための土台として機能している。配水塔は廃物ではなく現在も使われているそうで、屋上部分にマンホールが設置されていて定期的に内部の水を抜き梯子で降りて内部を清掃しているという。[c1]

鼓型の形状は水道局側で指定したものではないとされる。建設業者による自由設計だったのかも知れない。上部が漏斗状に若干開いているのは、安定性を保持しつつも直径を拡げることで貯水量を増やす意図、噴水や当時の貯水槽で多く採用されていた外観によるものかも知れない。

萩原団地のうち市営住宅となる部分は殆ど人が住んでいないが、同地区には一般の民家があるし道路を挟んで比較的近年に入って造られた老人福祉施設がある。高台の出水不足は起こり得る現象なので、あるいは現在でもこの配水塔を介して給水を受けている可能性がある。更に情報が得られ次第、随時追記する。
【 コラム向け執筆 】
本物件は2016年6月より(株)宇部日報社の折り込みチラシ「サンデー宇部」で開始した郷土コラムにおいて、「西岐波萩原の給水塔」のタイトルで最初に執筆された記事[c2]である。
【 市住宅課による情報 】
項目作成日:2018/2/8
萩原市営住宅は初期に建てられた平屋部分を取り壊して西岐波住宅となっているが、54号棟以降は木造・鉄筋問わずそのままになっている。最近、ある情報筋から既存の住宅類をすべて取り壊して再開発するという話を得た。市のホームページでは2015年に議事として挙がっている。[c3]

この点について市住宅課担当者に尋ねたところ、現時点で未だ検討段階であり、当該エリアを何に転用するかも定まっていない状況であるらしい。市住宅課の所管であり、再開発の折りには住宅群と共に給水塔は撤去される予定ではあるものの、近年ただちに取り壊されるような状況ではない模様である。
なお、この談話の中で萩原市営住宅が昭和38年から40年代初めに造られたこと、既に萩原住宅は住み替えが完了していて居住者は皆無であること、給水塔も萩原市営住宅内においてのみ給水しているため現在は使われていない(地区道に隣接するむべの里には給水していない)という。
出典および編集追記:

c1.「FBページ|2016/7/28投稿文に対する読者コメント(要ログイン)

c2. ただし、Vol.1となる最初の掲載は「新川の掘削」である。これは掲載開始が6月で新川市まつりの直後であり、市民の意識が祭りから遠ざからないうちに公開した方が良いという考えで順序を変更したためである。実際の配信は2016年7月27日であった。

c3.「宇部市|第3回 宇部市都市計画マスタープラン改訂委員会 会議録 p.3」(PDFファイル)

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