尾崎用水路

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現地撮影日:2014/7/13
記事作成日:2014/7/20
尾崎用水路は蛇瀬池用水路とも呼ばれ、鵜ノ島開作へ灌漑用水を送る目的で造られた用水路である。[1]
写真は崩近くの様子。


尾崎用水路の出発点は、真締川の鎌田地区に設置された鎌田井堰にある。水路の築造は鵜ノ島開作への灌漑用水供給源の一つとなる蛇瀬池を造った椋梨権左衛門俊平公によるものとされる。
写真は鎌田井堰付近にある郷土史会による石碑


井堰により上昇した水の一部は右岸寄りの水路部分を通って市道の下をくぐり、ポンプ室を経由して用水路へ送られている。
余剰水は水路部分からも落ちるので、直角に分かれた二方向から水が流れ落ちるようになる。


鎌田井堰の詳細については以下の記事を参照。
派生記事: 鎌田井堰
[1]の添付地図によれば、蛇瀬川が真締川へ合流する地点の少し手前からも用水が流れ込むように記述されている。かつてはそのような経路があったのかも知れない。ただし現在では蛇瀬川の途中から直接尾崎用水路へ流れ込む経路はなさそうだった。[2]
尾崎用水路は蛇瀬池の用水を鵜ノ島開作へ送るものでありながら、その出発点は蛇瀬池の堰堤ではなく鎌田井堰にある。即ち蛇瀬池の用水を一旦蛇瀬川へ放流し、真締川の鎌田井堰から取り込んでいる。
蛇瀬池から直接鵜ノ島開作へ向かう用水路が造られた形跡はなくそのような資料もない。当初から一旦真締川まで流し、鎌田井堰で取り入れる手法だったと思われるが、詳細は調査を要する。

この右岸側に取り入れた水を尾崎用水路へ導くポンプ所がある。
記事を作成する現在では停止されている。


ポンプ所と同様、水路自体もコンクリート製に置き換えられている。時期は不明だが外観から推測するに最も新しい部分は昭和後期のようだ。
幅は1m程度で、常盤水路(上木場・下木場)よりは一回り小さい。

宗隣寺付近には現在も耕作されている田があり、尾崎用水路から引水されている。


開渠区間はすべて建築ブロックないしはコンクリートブロック積みで、自然の石積み状態の区間はない。


開渠としては東小串2丁目まではトレースできている。
そこからはボックスカルバートとなっていて地表上からの精確な追跡は困難である。


これは平成期に入って着手された小串土地区画整理事業による改変が原因である。昭和40年代後半の航空映像と現在のものを比較すると道路や住宅の区画が大きく変わっている。特に暗渠化された先が雨水渠へ接続されていることから、ここから先は灌漑用水として利用されておらず雑排水としてそのまま海へ排出されている。

したがって東小串から少なくとも土地区画整理事業の対象となった範囲において尾崎用水路は完全に失われており、追跡する意義はない。ただし対象範囲から下流側でなお当時の用水路の経路が遺されている可能性はあるだろう。
《 形態 》
蛇瀬池は鵜ノ島開作の灌漑用水確保のために造られた人工の溜め池で、蛇瀬川はその水を供給する用水路も兼ねている。樋門より放出された用水は一旦真締川まで流れ込み、その下流にある鎌田堰より尾崎用水路に取り込まれている。この点で、常盤池の本土手より流れ出る下木場の用水路や厚東川の五田ヶ瀬井堰から取り込まれ相当な延長を有する御撫育用水路とは仕様が異なる。

蛇瀬池は沢地を堰堤で締め切っているので水位はかなり上昇している。灌漑用水を遠方まで供給するなら、樋門から始まる用水路を造った方が高度が保たれ効率が良い筈である。しかし歴史的に見て蛇瀬池の樋門から始まる用水路は造られなかった。
この理由はいくつか考えられ、恐らく以下に依るものだろう。
(1) 鎌田堰で上昇させた水位のみで鵜ノ島開作全体へ用水を供給できるだけの自然流下勾配が確保できる見込みがあった。
(2) 用水路の建設に関してコスト的・技術的・地勢的問題があった。
鵜ノ島開作の面積は厚南地区全体の開作に比べればずっと小さいし、二反田堤も早期に造られていた。また、栄ヶ迫の三段堤も単純に周辺地域の雨水を溜めるだけではなく、蛇瀬池の上流部にあたる馬の背池の用水を導いていたことを考慮すれば、蛇瀬川の役割は重要ではあったが、用水確保については代替ルートが複数あったため思ったよりも依存度は高くはなかったのかも知れない。

もう一つの仮説は、現地の地勢によるものである。仮に常盤池のような溜め池直下に取り出し口を持つ灌漑用水路があるとすれば、鵜ノ島開作の水源であることを考慮すれば現在の北小羽山側(右岸側)となる。蛇瀬池の水面高を考慮すれば絶対高度20m程度で流れる水路の存在が示唆される。昭和中期に小羽山ニュータウン造成で地勢が大きく変化したことを考慮しても、一部の水路が護国神社や宗隣寺の下に遺っていなければならないが、現在のところ痕跡などは確認されていない。

常盤池と同様の幹線水路を鵜ノ島開作まで造るとすれば、山の中腹を削って非常に長い水路となってしまう。しかも途中に刈川の大曲りがあり、ここを迂回させるか隧道を必要とする。現在の蛇瀬池は昭和初期に堰堤を嵩上げして貯水量を増やしており、それでも常盤池に遙か及ばない程度の貯水量である。鵜ノ島開作時代の蛇瀬池の貯水量は現在の半分以下であり得るから、当初から調節しつつ蛇瀬池の水を真締川に放流し、下流の鎌田井堰で取水することで足りるとみられていたのだろう。
蛇瀬川周辺の取水口から東小串までの開渠区間をトレースした記録。暫定3巻(予定)。
尾崎用水路【1】
出典および編集追記:

1.「小羽山付近の史跡と伝承」平成18年度小羽山まちづくりサークル p.6

2. 蛇瀬川下流近辺にある田へ給水するために堰を設けている場所がある。その水路から再び尾崎用水路へ返される経路は除外している。

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