真締川・鎌田井堰

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記事作成日:2020/7/23
最終編集日:2020/7/23
情報この総括記事は内容が古くなった旧版をコピーして再構成されています。旧版は こちら を参照してください。

鎌田(かまた)井堰は真締川のもっとも下流にある堰で、満潮に伴う海水の遡行を止めると共に後述する尾崎用水路の取水口となっている。
写真は左岸側から2019年の右岸刈り払い後の撮影。


位置図を示す。


井堰は真締川へ最初に架かった橋として知られる鎌田橋より100m程度上流側にある。
鎌田橋から撮影。


右岸の土手道は交通量の多い市道真締川西通り2号線となっているため、井堰の右岸側への接近は(交通上)安全ではないが、左岸側は殆ど車が通らない未舗装の農道となっている。
《 概要 》
鎌田井堰は真締川より灌漑用水を取り入れる機能をもつ最も下流の堰である。真締川の前身である宇部本川の河川そのものは人々がこの周辺地域へ暮らし始める以前から存在していたが、堰を設けて灌漑用水を導くなどの手を加え始めたのは福原時代からのことと考えられる。初代の井堰構造がどのようなものであったかは未だ記録に接していない。現在はコンクリート構造であり、建設は真締川の初期の護岸整備や灌漑用水路のコンクリート水路化をおこなった昭和中期と思われる。

厳密な測定データの手持ちはないが、井堰直下のエレベーション(絶対高度)は1m程度と思われる。井堰の高さは50cm程度であり、満潮時には恐らく海水混じりの河川水が井堰の直下まで押し寄せる。即ち鎌田井堰は潮止め井堰の役割も担っている。井堰より下流に可動堰はなく河川勾配が緩やかになるため、少なくとも西ノ宮橋真下までは海水が遡行することは分かっている。

干潮時でも井堰直下が干上がることが起こらず、常に河川水が滞留している。このため井堰周辺の岩質などはハッキリとは確認できていない。左岸側の土手に少しばかり露岩が見える場所がある。
写真は左岸側刈り払い直後に撮影…護岸の下に僅かばかり露岩が見えている


後述するように、鎌田井堰から取水された河川水は尾崎用水路(蛇瀬池水路)[1]を経て鵜の島方面へ送られ、鵜ノ島開作の耕作面積を増大させることに貢献した。井堰の位置は海水が遡行し得る上限である。この位置では嵐や台風といった荒天時に海水が堰を越えて混じることがあったかも知れない。[2]そのリスクを承知でなるべく下流側に造ったのは、鵜ノ島開作へ送る用水路の長さを短くする意図が考えられる。

鵜ノ島開作の水源として造られた蛇瀬池の水は、現在調べられている限りでは樋門から開作地まで送られる水路の存在が知られていない。即ち調節しつつ蛇瀬池の水を取り出して蛇瀬川へ流し、それを鎌田井堰で受ける形になっている。ただし蛇瀬川が真締川に注ぐ手前の屈曲点で小規模の堰が存在し、山沿いを通る小水路が確認されているので、かつて真締川を通さずに灌漑用水路へ接続されていた可能性はある。
以上の記述は仮置きであり尾崎用水路の総括記事を作成した折に移動する
【 井堰の構造 】
井堰というと通常は河川の流れに対して垂直に設置される。鎌田堰は用水路の取り入れ口がある側に導水用の副水路があって余剰水がこぼれ落ちるようになっている。


もっとも一連の構造が明瞭に分かるようになったのは比較的最近のことである。
右岸側の灌木繁茂が酷く、接近はおろか対岸からも殆ど視認できない状態だった。
総括記事の旧版にある写真はすべて刈り払い以前の撮影である


2019年9月に真締川右岸の灌木や雑草が一斉に刈り払われた結果、取り入れ口に降りる階段より井堰と取水口に接近できるようになった。
【 尾崎用水路取水口 】
冒頭の地図でもこの堰から道路の下をくぐって尾崎用水路が伸びているのが分かる。取水口が井堰の右岸側にある。道路の反対側にはポンプ小屋もあるため取水口があることはかなり早くから分かっていた。

市道側から車の通らないときに撮影している。
堰の高さを若干低くして水路部分を造り、そこから必要量を取り入れて残りは河川側へ返すような構造になっている。


取水口へ回ったうちの四畳分は、護岸側にある水路へ流れ落ちて川へ戻されることが分かった。
中央の水路部分は先が溜まった土砂で詰まっているように見える。


この構造の理由はよく分からないが、土砂を落とすためかも知れない。
【 石碑 】
左岸側の農道の傍らに上宇部校区の郷土史関連有志によって設置された石碑がある。


石碑には毛利藩開拓の鵜の島開作の用水・取水の施設であることが記されている。


作業用の軽トラがたまに入るくらいの農道であるため、交通量の多い市道を避けてこの農道を散歩する人が多い。しかし石碑の存在に気付いている人は少ない。
【 増水時 】
2020年梅雨時の長雨と豪雨により水かさが増したときの映像。
このときは堰全体が水没して見えなくなるほどだった。


動画でも採取している。[再生時間:23秒]


上流の井堰 上流側にある井堰に移動 下流側に井堰はありません 下流の井堰
御手洗堰---

出典および編集追記:

1.「小羽山付近の史跡と伝承」(平成18年度小羽山まちづくりサークル)p.6

2. もっとも琴崎八幡宮が現在地に遷宮してからも川を遡行してすぐ下まで舟が入っていたという記録がある。井堰が皆無だったのは言うまでもないが、当時は山からの土砂の流れ込みがまだ少なかったこと、平底の舟だったことが理由として考えられる。更に縄文時代まで遡るなら現在より海水面が4m程度高かった(縄文海進)ことから貝や魚も採取できていただろう。
《 地名としての鎌田について 》
鎌田(かまた)とは大字中宇部に存在する小字で、小串へ抜ける古道である現在の市道丸山黒岩小串線は字鎌田の南端、西端を通って鎌田橋に至る。真締川から西は大字小串になるが、鎌田橋を渡って下流側にも大字小串字鎌田が存在する。
現在の住居表示では中村1になるものの、平成期に入って設置された中村地蔵尊にある記念石碑に鎌田の文字が見えるように、今なお現役地名としての知名度をもつ。隣接する地区名である中村、川津と合わせて頭文字を採ってNKKと呼んでいた地元在住者も存在する。

鎌田は「蒲田」に通じ、近くに蒲の生えていた耕作地に由来するのではと推測される。真締川の曲がりくねった川筋に接する鎌状の田という解釈も可能かも知れない。同じ読みの小字名は(蒲田の表記を含めても)市内では他に確認されていない。

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