宇部の上水道の歴史

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記事作成日:2019/8/15
最終編集日:2019/8/22
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ここでは、旧宇部村時代から宇部市までの時代を中心とした上水の歴史について記述する。旧宇部村とは、現在の大字区分による沖宇部・中宇部・上宇部・小串・川上の5つの村で構成されていた時期を指す。水利権などの絡みで隣接する村が記述されることもあるが、基本的には上述の旧宇部村エリアに限定して記述している。なお、殆どの記述は[1]を中心的に参照し他書籍の記述を元に推測も交えて構成している。
《 水道期以前 》
福原家が現在の宇部村相当を治めることとなった以前のこの地は、海沿いにわたって保水性が低い砂州で占められ人の住める環境でなかったことはよく知られる。人々の暮らしがあったとしても海水の混じらない淡水が必須であったことから、それらが得やすい内陸部に限定されていた。北迫や亀浦には早くから人々の暮らしがあり、遺跡や居住跡が知られる。そこは海が比較的近く、栄養源を求めた上で内陸部へ持ち帰っていた。海岸付近では淡水が得づらく簡素な庵を造るのも困難だったからである。少し海から遠のくが内陸部へ入れば河川から水を汲むことができたし、保水性のある地山を掘れば飲料水を得られていた。

最初期は生きていく上で必要な栄養源がそれほど遠くない場所に求められ、水が容易に得られる場所にムラが形成され始めた。やがてあてどなく歩き回って食糧を獲ることから栽培へと変わっていった。福原時代の前にも稲作は単発的に行われていた形跡があるが、それは河川水を容易かつ大量に得られる川沿いに限定されていた。福原家がこの不毛の地へ事実上左遷されてからは、開作に伴う耕作地の拡大と水確保の努力が払われ、少しずつ稲作によるコメの終了も安定してきて定着生活が可能となった。

稲作を可能にする開作と灌漑用水の確保が相携えて進められ、蛇瀬池築造によって鵜の島開作、その後の常盤池の築堤で沖宇部、中宇部、小串エリアでの稲作が確立された。常盤池では東西2系統の幹線を軸に用水路が網の目状に整備された。灌漑用水は稲作に欠かせない命の水であり、現在よりも遙かに重視され注意深く扱われていたことに疑いはない。しかし同じ水でありながら井戸水とは異なり直接の飲用には甚だ不適であった。井戸水は十分な期間をかけて地中を移動することで有機物が除去され、栄養源がないために微生物も繁殖しない。他方、灌漑用水は池の溜まり水を順次取り出して流すものであり、太陽光を受けて藻が繁茂する。雨が降れば不衛生な水が流れ込むこともあり得た。それでも外観は清澄に見えるので用水路の流水で衣類や食器を洗うことは昭和中期頃まで実際に行われていた。

そういった不安全な灌漑用水を飲料にしなくとも、当時の家には最低一つの井戸があった。逆に言えば井戸を掘っても水が得られない場所には人が定住することはなかった。人々は遙か昔に井戸を掘削し、安定供給されることを前提に生活基盤を築いてきた。この井戸が涸れるなど非常事態であり滅多に起こり得なかった。また、境界を越えて自由に地下を移動する水を自前の敷地から掘削して取り出すので、灌漑用水の水利権に煩わされることなく安心して利用できる水と言えた。

こうして福原家時代からも暫くの間は天変地異に見舞われない限りは各自が造った井戸による水で足りていたと考えられる。海であった地を開作して耕作地とした地は宇部に限らず周辺に普遍的であり、稲作に限定すれば特に魅力的な土地とは言えない。まだ広大な田を持つことができる小郡辺りの方が有利であっただろう。地勢的にみて不利な地を無理やり開拓し、灌漑用水を引いて耕作地とした宇部がその後飛躍的な人口増に向かったのは、耕作地の下に隠されていた資源を掘り出す技術革新と、その資源から取り出せるエネルギーが大量に求められる時代背景にあった。
【 採炭時代 】
石炭の存在そのものは、福原家よりも遙か昔の常盤池築堤以前から知られていた。塚穴川の刻む深い谷地により地中の比較的浅い位置にある炭層を露出させていたようで、常盤原に住む人々はその黒い石を火に晒すと継続的に燃焼し、明かりを与え、山から採取してきた薪よりも効率よく熱エネルギーを与えることに気付いていた。稲作に重ならない期間に採掘することが行われ、耕作地を掘って採炭し次の稲作までに仕戻しすることも行われていた。彼らは足元の広範囲にそれが埋まっていることに気付いていた筈だが、効率的に採取する術がまだなかった。

常盤池の築堤により新田開発が進み、人々は少しずつ海の方に向かって生活領域を広げていった。従来は内陸部の沼や琴芝あたりまで海の潮が入り込んでいた地も、内陸開作や新田整備によりある程度の収量が得られる田ができていった。沖ノ山の砂州近くまで生活領域を広げていった背景には、常盤池築堤以前から知られていた黒い燃える石の存在が、上宇部や琴芝でも採取可能と分かり人々が採掘し始めたことも要因にある。動力の利用も可能な時代になると、効率的な採炭法が次々と開発されていった。得られた石炭を需要地まで効率的に運び出すために馬車での運搬からトロッコ輸送に転換した事例もある。

当時の技術で容易に取り出せる内陸部の石炭が大方掘り尽くされると、人々の努力はまだ手つかずの海へ向かっていった。海底の更に下を掘るには海水による圧力という脅威があったが、それさえ克服できるなら陸地のように地表の地権者問題に関わることなく広範囲に掘削できる点で有利だった。殊に石炭を掘り出しそれを搬出する手順の効率化が確立されてからは、海に向かって掘り進む炭鉱がいくつも誕生した。
【 人口の急増と水不足 】
海底炭田がいくつも開発されると、更なる労働力が求められた。搬出が機械化されたとは言っても石炭層の最前線で掘り出すのは人力頼みなので、人手が多ければそれだけ採炭量が増えた。このためどの採炭地でも労働力が求められた。重労働であり海底の下というリスクを背負うことになるも相応な収入があったので県外からも労働力の提供者が一気に押し寄せた。しかし炭田のある近くはいずれも砂地で、労働力を提供できても生活していく上で必要な水を得るには絶望的な環境だった。

現在の市街部へ人々が移り住み始めた最初期は、井戸水や真締川の時に潮の混じる水を飲用に使っていた。石炭採掘の発展で人口が急上昇したとき水不足は深刻なものとなってきた。沖ノ山は東西に伸びる砂州であり、元々水が得にくい地である。井戸を掘削して有用な飲料水が得られたのはごく僅かで、島や琴芝といった地山のある周辺部に限られていた。砂州で井戸水が得られた場所は非常に限定され、それは急増した労働力人口を賄うのにとても足りなかった。このため人々は汲み上げるだけですぐに使える真締川の水を飲用に使ったが、それは潮の影響を受けやすく、また生活地近辺から採取するため生活に伴って出る排水が混じりやすい不衛生な水だった。

江戸期以来、宇部村エリアに限らず各地で疫痢(現在のチフスやコレラに相当)が蔓延している。川上村と西岐波村の境近辺にあった黒杭村がかつて床波以上に繁栄しながら村民が滅亡し村自体がなくなったのも疫痢が原因と言われている。猛威を振るう疫痢に初期の人々はただ祈る以外なかった。これも人口が増え始めていながらも飲料水と生活排水(屎尿なども含めて)の分離が厳格ではなく、汚れた水が飲料水に混入したことが原因である。そして市街部の真締川を元にした飲用も例外ではなく、人口が多いが故に瞬く間に蔓延し深刻な事態となっていた。
《 上水道黎明期 》
人口の増大により更なる水不足は明らかであり、衛生で安全な水が求められていた。急増した人口を受けて宇部村は一躍市制を敷き宇部市が誕生したのだが、安全な水供給が追いついていなかった。人々は未だに汚染された水を利用する以外なく、疫痢の予防にワクチン注射が推奨された。しかし痛い目に遭うから嫌だと拒否する市民も少なくなく、宇部市の発足で全国的に有名になったのは村から市への市制施行だけでなく伝染病日本一だなどと揶揄される事態だった。汚れた水を飲用に使うのを止める以外に切り札がなく、安全安心な飲料水が切望される土壌が整っていた。
【 水源地を何処に求めるか 】
市制施行に足るほどの人口を擁する状況にあれば、水道を引くにも全市民へ平等に行き渡るものでなければ意味がない。その上で供給すべき水道水の水源を何処に求めるかの議論があった。
当初、川上より上流の宇部本川に求めることが検討されていた。市街部からそれほど離れておらず建設コストが安くつくことに加え、川上は旧宇部村領域内にあるので水利権の調整が比較的容易であったこと、過去に常盤池の慢性的な渇水対策として深山堤より常盤池まで水を送る用水路建設が行われたことに依ると思われる。後者の用水路は福原時代に策定され、実際に一部の用水路建設も行われていたが、明治維新により頓挫している。現在は深山堤の私有地一角に当時の余水吐とされる石積みが御作興として遺るのみである。

発足した当時の宇部市に潤沢な資金はなく、近場の川上から上水を得るのは経済面から見て妥当な案であった。この当時で人口急増の間接的な要因であり資金も相対的に潤っていた沖ノ山炭鉱は、自社の採炭業に必要な水を既存の灌漑用水以外で確保する必要性もあったことから、市街部へ給水する設備の建設に乗り出すこととなった。このとき沖ノ山炭鉱が建設し市へ有償譲渡することが前提となっていた。

沖ノ山炭鉱の頭取であった渡邊祐策は各地を視察し、宇部市街部を東西に分かつ元となっている真締川ではなく、西側にある厚東川に水源を求める提言を行っている。このとき 「今、厚東川の水を利用しておかなければ、このことは永遠に難しくなるかも知れない。ぜひ、厚東川の水を利用したい」という言葉を遺しており、渡邊翁の決断が現在の宇部市の水源を支える大元となっている。

この「難しくなるかも知れない」というのは、ほぼ間違いなく水利権のことを指していると考えられる。厚東川はその東岸でも藤山村、厚東村など他村に接していて当時の宇部市が接している部分はなかった。工業の発展で人口が増え水需要も増えれば、自前の村にある分は水利権を確保する動きに出るだろう。祐策は自前の沖ノ山炭鉱が擁する労働者の急増を知っていた。更に上昇すれば、目先で川上から水を引いても早晩足りなくなってしまうだろう。水源開発が旺盛にならないうちに他村と交渉してでも水利権を確保しておきたかったのではと思われる。もし反対意見が大勢で川上より引いた水で発足直後の宇部市民に供給していたなら、常盤池が築堤後慢性的な灌漑用水不足に悩まされていた轍を踏むことになっていただろう。

初期の水源地は藤山村の沖ノ旦にあった。沖ノ旦付近は満潮時には厚東川を潮が遡行する地であるため、潮位を考慮して取水しなければならなかった筈である。そのことは当時から分かっていたのだが、潮の影響を受けない末信や温見で採るにもそこは厚東村エリアだった。沖ノ旦のある藤山村は宇部村に隣接していて石炭の廻船運搬を含めて早くから人々や文化の影響があったが、厚東村は山岳部で接するのみであり、主要な往還路もなくいきなり水利権交渉に向かうには「遠い地」であったからではないかと推察される。実際、沖ノ旦の取水地は廃止されて厚東村の末信に水源地が変更されている。この末信水源地には市上下水道局の管理する取水設備が置かれ、現在も水利権を継承している。

最初期には沖ノ旦で、後に末信で取水された厚東川の水は、現在の中山浄水場がある地までポンプを用いて原水を送って上水を作っていた。工程後の水はポンプで桃山の高台へ押し上げられ、桃山配水池として貯水された。この水は桃山配水計量室(六角堂)を経て市街部へ送られることで、念願の近代的な上水設備が完成したのである。そして当所の予定通り、沖ノ山炭鉱は設備一式を宇部市へ有償譲渡した。宇部市は譲渡を受けた後に市費を投じて更なる設備の増強を行っている。中山浄水場はその後も拡幅工事を重ねつつも、沖ノ山上水道時代の緩速濾過法と設備を援用しつつ現在も宇部市街部に上水を供給している。

沖ノ山炭鉱は設備を宇部市に譲渡後、再び自力で水源を開発しほぼ同じ経路で工業用水向けの設備を完成している。これが沖ノ山工業用水道である。沖ノ山工業用水道も末信水源地と同様、補助的な位置づけでありながら現在も使用されている。
《 工業用水としての水利用 》
厚東川の水を取り入れて中山で浄化し市街部へ送り届けるシステムが確立してから暫くは従来よりはるかに安全な水が供給されることとなった。真締川よりも相対的に水量が豊富で安定している厚東川の水を利用したからであるが、それでもなお河川水にそのまま頼るだけでは不十分な出来事が立て続けに起きている。降雨に乏しい渇水による断水である。

厚東川の水量は豊富で安定的とは言っても相手が自然現象であり、降雨の頻度に大きく影響された。取水先を末信水源地のみに頼っているので、渇水期に水質が悪化したり、水そのものの取り入れが困難になる事態になった。歴史的にみて最も酷かったのが昭和10年代前半の大渇水であった。

それまででも末信水源地での取水が不足することが起きており、これより厚東川を上流に遡った温見地区に取水用の井戸を掘削しポンプで末信水源地に送る臨時工事を行っている。このときの井戸は現在も温見地区に遺っている。更に昭和14年には未曾有の大渇水で厚東川の水が干上がったところに満潮に伴い末信潮止井堰を越えて更に上流側へ海水が遡行し、末信水源地へ流れ込むことで機能停止に陥る大惨事が起きている。

飲料水もそうだが、もっと深刻な被害を受けたのは常時水を必要とする田であった。水利権は上流側優位の原則があることから、厚東川のより上流の五田ヶ瀬井堰や小野田市用水は少ない水を取り入れることができたが、それより下位に取水口を持つ末信水源地は窮地に立たされることとなった。危機的な水不足からトラックを小郡まで走らせて給水を受ける事態になっている。飲料水は何とかそれで持ち堪えるも、連続的な給水が必要な田は絶望的な局面になった。

このとき宇部市は危機的状況を打開すべく、厚南村にある御撫育用水路の水を分けて欲しいと交渉に出向いている。御撫育水利組合は強硬に反対したものの、村長に約束を取り付けることで水を確保し何とか窮地を凌いでいる。このことが発覚し村長はポストを追われ、御撫育水利組合は「厚南村長は宇部市になけなしの水を売った」と非難する事態となった。
これが遺恨となり厚南村が宇部市へ合併するときも御撫育水利組合は最後まで合併に反対し続けた

更に象徴的な事件は宇部市が厚南村を併合した翌年の昭和17年に訪れた。渇水とは反対に今度は大雨による洪水という災害に見舞われたのである。このときの災害は台風による大雨と高潮が重なったところに、厚東川河口部付近の堤防が戦時の爆撃(対岸の油化を攻撃すべく落とした爆弾の余波とも言われる)で破壊されていたものが修復不能になっていたところを台風に襲撃された不運があった。いわゆる厚南大水害であり、切れた堤防から海水が押し寄せた結果、際波開作から竹ノ小嶋まで押し広げられていた開作地殆どすべてが海水に浸かり、夥しい犠牲者を出した。一連の開作が始まる江戸期以前の風景まで戻ってしまったと言われる。厚南村は前年に宇部市と合併していたため、復旧工事は宇部市の財源で行われることとなった。
このことは宇部市と合併しておいて良かったという見方が増える要因となった

一連の極端な渇水と洪水に接し、河川水をコントロールして必要なときに取り出せるダム建設が現実路線に上ったことは疑いない。実際、これより早い昭和13年には厚東川ダムの建設は内務省による決定事項となっていた。大元となる厚東川を地形の急峻な木田の北側、落畑で堰き止めるダムを建設することとなった。既にきな臭い硝煙立ち上る戦時期が近かったが着工され、戦時中の物資不足により工事が中断している。戦後工事が再開され昭和24年に竣功している。翌年には県営の厚東川利水事業も完工し、水利権を取得している。

厚東川ダムは当初から利水だけでなく治水と発電もダム機能として盛り込まれており、河川総合開発の初期の事例である。これに付随して従来は厚東川上流より長い水路をもって灌漑用水を導いていた長溝用水は、ダムの水を取り出す工業用水道に置き換えられた。こうした背景により木田地区など長溝用水や丸山用水を利用していた地域では、現在も水利権の補償で工業用水道から灌漑用水の分水を受けている。

厚東川ダム建設と工業用水道の完成により、従来の末信水源地の強力なバックアップとして厚東川ダムの水が中山まで来るようになった。この設備は後年県企業局に所管が移り、市街地西部の工業用水需要に応える形で市が独自に中山から平原までの区間を追加建設している。中山には従来の末信水源地からの原水に加えてダム水を取り出す中山分水槽が建設され、中山浄水場は現在も主にここから取水している。文京台の丘陵部をくぐり東平原に達する工業用水は、平原分水槽を経て現在も沿岸にある工場群に供給されている。
【 近年の動向と将来の見通し 】
昭和中後期まで工業用水需要は一貫して増え続け、既存の厚東川ダムの貯水量でも足りなくなる見通しとなった。初期にダムの嵩上げが検討されたが、上流側の水没エリアが拡大することで反対意見が多く頓挫した。この代替案として、厚東川ダムより西側に離れた沢地に別のダムを建設し、渇水期を見越して厚東川ダムから水を送って貯留する案が浮上した。この貯留地として丸山溜め池を含む周辺地域が宛てられた。厚東川ダム建設時と比べて大規模な立ち退きが殆ど発生しなかったのは、ダム水を工業用水として供給していた時期から丸山溜め池に遊水池を造って貯留していたためと思われる。ここに宇部丸山ダムを建設し、小野湖から湖底を圧力隧道で接続しダム水を相互運用するという「高度な水資源運用」が実現している。

それでもなお工業用水需要の逼迫が予想されていたため、第3期工事として更に西隣りの立熊地区を流れる大坪川をせき止めて同様に宇部丸山ダム湖から導水管で水を送って貯留する大坪ダム計画があった。しかしこの案は住民の反対もさることながら、その後のオイルショックで工業用水需要が伸び悩み、既存のダム設備で足りる見通しとなったため立ち消えとなっている。

近年、厚東川ダム直下に宇部丸山ダムポンプ場を設置し、小野湖の余剰水を強制的に宇部丸山ダムへ送る追加工事が完成している。これは厚東川ダムが利水だけでなく治水機能を持たされているため、梅雨末期の大雨に備えて(いくら灌漑用水が必要と分かっていても)ダムの水位を下げることで対処しなければならないためである。このときの余剰水は河川維持水として利用されず捨てられていた。宇部丸山ダムは建設時から工業用水貯留に特化しているため治水上の制約を受けることなく余剰水を蓄えることができる。電力を使ってでも小野湖の水を宇部丸山ダム側へ移しておいた方が有利と判断されたための建設である。

かつては夏場の渇水期になると頻繁に工業用水の大幅カットや果ては時間断水も行われた時期があるのだが、最近は断水が殆ど回避されているのは宇部丸山ダムポンプ場による間接的な恩恵である。後に宇部丸山ダムの工業用水取水口内部のバルブをタービンに置き換えることで、落差を電力として回収する設備が宇部丸山発電所として追加建設された。

取水先を一箇所に限定したときの事故が波及した歴史的経緯により、現在では市内分に限定しても工業用水管はバイパス管建設や二条化が進められている。厚東川を横断するルートは今なお主要であるが、一箇所が分断されたからと言って完全に水が回らなくなるなどの事態は起きにくくなっている。例えば1期工業用水道が被害を受けても上水道自体は広瀬にて表流水を取水しているし、末信水源地を稼働させれば(分量は少ないが)伏流水を取り込める。現代では隣りの山陽小野田市と宇部市の上水道事業の統合計画があり、既に工業用水部門を含めた大枠で合意に達している。

宇部市は今後の人口減少が見込まれており、工業用水の需要は緩やかに低下していくことが予想される。楠町船木にあるNEC工場の後継であるルネサスセミコンダクタは撤収が示唆されており、居能開作に展開していた協和醗酵も撤退が決定している。両社とも工業用水の大口利用者であり、跡地に別会社が建ち水利権を継承することがなければ、県企業局は供給能力以上の工業用水を持て余すことになる。他方、近年でも工業用水カットに至るまでの少雨は起きており、将来的には宇部市と山陽小野田市という近接自治体に限定することなく県内レベルでも原水を融通できるインフラを整える時期が来るかも知れない。

厚東川以外では2期工業用水の一部に美祢ダムからの原水が含まれ得る。しかし市内その他の河川は利水の対象となっていない。特に真締川は現在においても利水の対象となっておらず、今後も真締川ダムの貯留水が利水や発電に用いられる可能性はほぼ皆無である。
出典および編集追記:

1.「宇部の水道」宇部市水道局

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