真締川・御作興

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現地踏査日:2014/9/27
記事公開日:2014/10/4
御作興(ごさっこう)とは現代においては真締川の上流端付近、男山にある巨大な石組み構造物を指す。
写真は正面からの撮影。


位置図を示す。


御作興とは聞き慣れない単語である。後述するように元々は江戸期に計画された導水工事そのものを指す言葉だった。名称は恐らく福原家による灌漑用水関連工事だったことに由来する。この工事は部分的に着手されたものの中止され、現在では溜め池の余剰水排出口とされるこの石積みが最大の遺構となっている。[1]このため現代では御作興と言えばこの石積みの構造物を指すのが通例である。
以下では御作興を原義に基づいて全体的な意味として使用しこの遺構は「石積み構造物」と記述している
《 アクセス 》
上の地図で示すように、御作興は市道男山線を北へ進み、真締川ダムを過ぎた先の真締川上流部にある。一度訪れればすぐ覚えられるが、現地およびその周辺に御作興を案内する標識や説明板などはなく一般には殆ど知られていない。

市道男山線を終点へ向かって走ったとき、真締川ダムを過ぎて更に北上し終点より100m程度手前、市道が真締川を渡ったところに左右の分岐路がある。


このうち左への分岐路は真締川ダムの管理道(林道大無田線)であり車は進入できない。反対側の右側には若干下る未舗装路がある。


この未舗装路を進むと再び真締川の上流部を渡り、左側に石積みの構造物が見える。
初めて石積み構造物を見つけたときの一枚。


この未舗装路の先は民家なので私道の可能性がある。通路外に車を停めおける余剰地はあるが、真締川以外の隣接地すべてが私有地かも知れないので車で訪れる場合はここへ乗り入れず市道の端ないしは男山自治会館付近に停めて歩いた方が良い。また、石積み構造物の上部は民家の敷地となっていて接近できない。
市道男山線に面して立入禁止の掲示が出ている
《 概要 》
以下に代表的な写真を載せる。
石積み構造物に関してのみ掲載しているが、今後御作興に関するその他の遺構が見つかれば随時写真を追加する。

正面から撮影。
真締川は石積み構造物の前で屈曲している。
後年付け替えられた可能性がある


真締川は石積み構造物の下を石畳で流れている。この部分も江戸期からのものか平成期の真締川改修によるものかは調査を要する。


石積み構造物の高さは5m程度あり接近は困難。
城壁のような転びをもたせた石積みの上部に、石材を組んで拵えた樋管が突き出ている。


注ぎ口部分をズーム撮影。
この部分だけは荒削りして直方体に加工された石材となっている。水が流れた痕跡はあるが干からびていた。


平成初期までは樋管から水がダイナミックに流れ落ちるのを観ることができていたようだ。
現在は石積み構造物のすぐ上が民家の敷地となっている。したがって大元の溜め池自体は既に埋め立てられ消失したと考えられている。
《 歴史的背景と経過 》
御作興に関してはまだ充分に調査しておらず、詳しい情報源も[1]のみである。当面はここに記載された内容と推測を交えて記述している。したがって内容が書き換えられる可能性がある。
【 御作興の意義 】
この石積み構造物に限定して説明するなら、すぐ裏手にかつて存在していた大無田池から真締川へ余剰水を排出するための石塔であった。冒頭にも述べたように、江戸期に計画された導水工事にまつわる遺構の一つであり、水不足を解消するために大無田池からある別の場所へ灌漑用水を導くのを主体とする工事が御作興であった。そのある場所こそ、常盤池 なのである。

常盤池は元禄十一年(1698年)に椋梨権左衛門俊平により築堤された。彼は鵜ノ島開作の灌漑用水を賄うために蛇瀬池を築堤し、成果をみた。蛇瀬池をプロトタイプとして築堤されたのが常盤池と言っていい。
しかし上流部に馬の背堤を擁し相応な降水域を持っている蛇瀬池とは異なり、流入河川に乏しく湛水面積の広い常盤池は、築堤当初から充分な水が溜まらず慢性的な水不足問題に悩まされていた。水の神様を勧請したり周囲に漏水防止の松を植えたりしたが効果がみられず、椋梨権左衛門俊平は工事の責任者として腹を斬らねばなるまいと噂されていたという。[2]

俊平公は常盤池の完成を見ずに辞世しているが、彼に築堤を命じた福原家としても常盤池の灌漑用水問題は懸案事項だったようで、更に時代が下って慶応三年〜明治元年の福原家文書には奥山御作興所などの記載が見えている。[1]即ち御作興とは常盤池の慢性的な水不足問題を解消する目的で、男山にある大無田池から灌漑用水を導く福原家による工事だった。しかしこの工事は常盤池の水不足が根本的な解決をみないまま中止された。
【 中止に至った理由 】
御作興は立派な石積み構造物をはじめ、大無田池から常盤池へ至る半ばあたりまで水路が造られた段階で頓挫したようである。石積み構造物は大無田池の余剰水排水路として近年に至るまで機能していたが、水路そのものは恐らく利用されることなく放棄され現在では痕跡も失われつつある。中止に至った理由は維新の変によるものとされている。[1]しかし[3]でも少し述べたのだが、私見として工事が中止された真の理由は地元住民の強硬な反対に遭ったからではないかと推測している。この推論の根拠は以下の通りである。
(1) 地元住民にとって命の次に大事な灌漑用水を供出させられることへの抵抗感。
(2) 労役の負担や水路用地の提供と受益者が異なること。
(3) 椋梨権左衛門の時代でも川上から水を引こうとして強硬な反対に遭ったという史実。
もっとも考えられそうな理由は (1) であろう。常盤池の大きさや水事情については男山地区の住民も周知していた筈で、そんな広大な溜め池を用水で満たすために男山の水を送るなどとんでもない話に映った筈だ。
(2) についても用水路を造るなら新規に水路部分の供出が要る。相応な費用で買い上げるにしても地域住民には直接メリットのない工事に賛同が集まりにくいことは容易に想像される。時代は下るが、最終的に常盤池の水不足問題を解決することとなった常盤用水路の布設においても同様の問題が起きている。[4]
(3) は常盤池を築堤した椋梨権左衛門俊平自身の体験で、彼自身常盤池の水不足問題を解消するため当時椋梨家があった川上の溜め池から水を引こうとして鉄砲で脅された[5]経緯があった。このとき俊平公が水源として求めていたのが御作興のある大無田池と同一であるかは分からない。

この他にも予算的な問題や、後述するように男山にある小さな溜め池へ注ぎ込む程度の水量で広大な常盤池を賄うことには無理があるのではないかと再考した結果による中止も原因として有り得るだろう。
【 もし御作興が完成していたら常盤池の水不足問題は解消したか 】
情報以下の記述には個人的見解が含まれます。

歴史に「たられば」を持ち込むことを躊躇しないなら、もし御作興が完成していた場合、常盤池の水不足問題は解消されただろうかという問題を考えることができる。福原家において起工されている以上、当時は対費用効果が相応にあることを見込んでいたものと思われる。さもなければ導水元の大無田池と常盤池のほぼ中間地点になる川上センター付近まで水路が伸びる以前に中断していただろう。[6] 竣工に向けての本気度が窺える。

この問題は、平成の現代においては「常盤池の水源を現在の未来湖で賄うことが可能か」と焼き直すことができる。もちろん江戸末期において現在の真締川ダムのようなフィルダムを容易に造れるとは思えないが、少なくとも降水域と気象条件については当時とほぼ同一と考えられるからである。

この厳密な回答を得るには対象区域の降水量や計画していた送水量などのデータが必要だが、現状をみる限りでは完成すればある程度貢献はしたものの水不足問題の根本的解決には至らなかったのではないかと思われる。即ち完成した当初から投下された労力と投資に対して得られる水量は不十分で、百歩譲って当初は賄えていたとしても遠からず再び水不足問題に悩まされることになっただろう。その理由は以下の通りである。
(1) 現状の未来湖と水系との兼ね合い
単純に湛水面積を比較しても未来湖と常盤池は数倍の開きがある。真締川ダムは貯水目的と言うよりはむしろ治水のために造られており、未来湖自体の水深は浅い。他方、常盤池はかつての常盤原全体を水没させて造られた溜め池で最大水深として20m近い場所がある。雨が続けば真締川ダムからも自然排水されているが、その量だけで常盤池全体を賄えるかは大いに疑問である。更に実際の御作興は真締川水系の上流となる大無田池からの引水を計画しており、戸石川水系分は含まれない。
真締川上流域の水は昔から地元男山地区が利用しているので慣行水利権があった筈だ。したがって常盤池へすべての水を回すわけには当然いかない。仮に充分な降雨があったとしてもそれを貯留する大無田池およびその上流の溜め池では役不足であり、際波の御撫育用水路かそれ以上の規模の導水路を造らなければ送水しきれないだろう。
(2) 後年の水需要の高まりに追随できない
仮に御作興が完成した当初には常盤池へ充分な水を送ることができて男山地区の給水にも支障がなかったとしても、歴史的にみて常盤池の水を求める需要は急速な右肩上がりだった。この過程で大正期に余剰水を塚穴川へ流していた分も無駄なく貯留する目的で女夫岩池が築堤されている。この頃から産出される石炭を元に重工業が発展し、工業用水需要が急進している。水不足問題は昭和期に入ってもなお続き、県営の常盤用水路により厚東川の水を導くことで最終的に解決している。
常盤用水路は現在でも常盤池の水位が低下したり夏期の用水需要期においては随時稼働されている。近年は水需要が昔ほど高くないので水路が干上がっていることが多いが、送水時には幅2m、水深1m近い開渠一杯に間断なく水が流れる。それも取水元は小さな溜め池ではなく上流部広域の豊富な水系を取り込む厚東川である。その厚東川ですら、厚東川ダムの築造により水量変動を平滑化することで下流域の水の安定供給を実現している。これを自然の降雨頼みで遙かに狭い降雨域から成る真締川水系だけで賄うのは無理ではないかと考えられるのである。

以上の理由で、大無田池の上流水源から導く水だけで常盤池の水需要は賄いきれず、御作興が完成したとしても水不足問題は解決できなかっただろうと考えている。ただし以上の推論は上流域の降雨量、当時湛水可能だった溜め池の総量、水路の規模などを充分に検証していない現段階におけるものであり、今後の調査によって変化する可能性はある。
【 遺構としての重要性 】
石積み構造物は江戸期のものであり、造られた時期や背景が明確に判明している数少ない歴史的遺構である。灌漑用水を送る水路という直接的な遺構ではないものの、この余水吐を擁する溜め池から常盤池へ送る水路を計画していた福原家起工の唯一のものであり遺構としての価値は高い。とりわけ常盤池の水不足解消のため、川上という遠方から灌漑用水を導く大工事に向かわせたことを証明する現存唯一の遺構と言える。
しかしながら御作興の宇部市民に於ける知名度は著しく低い。川上ふれあいセンターに設置された川上校区内の名所・旧所マップには記載されているが、現地付近には御作興の説明や石積み構造物を案内する表示板はいっさいない。石積み構造物自体の保存状態は良好だが、私有地に隣接しているためか石積み構造物付近の斜面の状態に一部難がある。[7]
《 調査を要する事項 》
以下は、本総括記事を作成した現時点における疑問点であり、追加調査を予定している。
(1) 大無田池について
石積み構造物を擁する溜め池は御作工の池ないしは所在地より大無田池と呼ばれていた。しかし現状は石積み構造物のすぐ上に民家が建っており溜め池が存在しているような気配がない。[1]によれば元から浅い池だったもののかつては泳いだり魚釣りをしていたという。その後埋め立てられた可能性がある。
本記事の冒頭に配置したYahoo!地図では、屈曲する真締川上流部の付近にいくつもの小さな溜め池が記述されている。しかし航空映像ではそれらはまったく視認されず、真締川を挟んだ右岸側に溜め池が一つ存在しているのみである。また訪れておらずかつての大無田池であったのか調査を要する。[8]
(2) 石積み構造物の存在意義
石積み構造物は大無田池の余剰水を真締川へ排出するために造られたとされている。しかし市内にいくつかある溜め池でこれほど重厚な造りを成す石積み余水吐は他に知られていない。常盤池へ水を送る関連設備の重要さを鑑みればある程度は納得されるものの、施工順序としてやや疑問がある。貯留元となる大無田池の護岸をしっかり石積みで整備するなど、そちらを重視するものと考えられるからである。先行して余水吐部分にこれほど立派なものを造りあげた意義が理解し難い。この点は元の溜め池が何処にあったのか、導水路をどの経路で計画していたかによって明らかになるかも知れない。
(3) 当時の水路はどの程度遺っているか?
[1]では、当時着手された導水路が部分的に遺っていることを指摘している。多くが開渠だが、素掘り隧道も数ヶ所あったらしく、大まかな経路は分かっている。書籍では個人宅名を列挙して導水路の遺構位置が説明されているのでここに記述はできないが、例えば川上ふれあいセンターの南側斜面に僅かながら開渠が遺っているようである。
真締川ダムに伴う真締川上流部の付け替えなどで現地はかなり改変されており、既に失われている可能性がある。どの程度追跡可能かは未知だが、工事が中止されているため常盤池まで辿れるものでないことだけは明白である。

以上の件については成果が得られれば順次記事化する代わりに本項目から解決案件を削除する。
《 個人的関わり 》
書籍で存在こそ知っていたものの、本記事を作成するつい最近まで場所が分かっていなかった。また、この石積み構造物が真締川としての上流端と理解していた。この件については現在では誤りで、上流端は石積み構造物より更に数十メートル遡行した位置にある。詳しくは以下を参照。
派生記事: 真締川・上流端石碑
Yahoo!地図では御作興付近の真締川線形が奇妙であり、その周囲には実際の航空映像に反映されない小さな溜め池がいくつも記載されている。この溜め池の正体が何であるかの興味は以前から持っていた。
初めて御作興を訪れたときの時系列レポート。全2巻。
御作興【1】
大無田池の存在調査を目的に現地を再訪したときの時系列レポート。
御作興【3】
出典および編集追記:

1.「歴史散策かわかみ」p.62〜63(川上郷土史研究会)

2. 常盤神社境内に設置された俊平公の頌徳碑に記録されている。

3.「FB|2014/9/30タイムライン(要ログイン)

4. 常盤用水路においても末信地区を通すにあたって地元住民には直接メリットがない導水管を田や土地へ埋設することへの反対が強く交渉が決裂した経緯がある。最終的には県が介在し公営事業とすることで解決をみている。

5.「宇部ふるさと歴史散歩」(宇部時報社)p.79

6. もっとも大無田池から連続的に水路を造ったかどうかは分からない。着手可能な場所から順次水路を掘っていたかも知れず、工事計画が失われている現在では詳細は不明である。また、完全な水不足解消には至らないのを承知した上で着工しなければならない程に水不足が切実な問題だったことも考えられる。

7. 石積み構造物を正面から観たときの左側斜面にゴミの投棄が目立つ。

8. 後日の現地調査によれば、航空映像で見えるこの溜め池は近くにある民家の所有する池のようである。これとは異なる場所に大無田池の痕跡らしき場所を同定できている。

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