浜田橋

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現地踏査日:2013/6/16
記事公開日:2013/9/12
浜田(はまだ)橋は、市道平原浜田線の終点付近、中山川を渡って県道に接続される部分に存在する橋である。
写真は市道終点付近から撮影している。


橋の県道接続部をポイントした地図を下に示す。


本編では橋の下流側にある古い石碑についても掲載している。

市道平原浜田線の終点は、この浜田橋になっている。
何の変哲もないコンクリート床版構造の橋だ。


県道の十字路に面しているので、市道の信号待ちの車は橋にかかる形で停車する。
青信号で車が走り去った後に撮影開始した。


下流側の左岸は「中山川」と表記されていた。


右岸側。
平かなで「はまだはし」。


上流側左岸。
「浜田橋」となっていた。


一枚だけ近接して写してみた。
ブロンズのプレートに陽刻というタイプで、ガードレールに取り付けられるタイプとしては標準的仕様だ。


橋の竣工時期は昭和61年3月となっていた。
かなり新しい。


市道平原浜田線でも随所で触れたように、高校生時代幾度となくこの市道を自転車で走った。竣工年が昭和61年なら、私はこの一つ前の世代の橋を渡っていた筈だ。
しかし残念ながら元がどんな橋だったかまったく記憶に残っていない。この市道や橋に限らず、県道琴芝際波線に関しても「このあたりのコースを通ったはず」という大まかなことしか分からない。

何か昔の橋の痕跡を残すものがないか…と周囲をちょっと歩き回っていて、もしかすると…というものを見つけた。


これは旧橋に関するものでは…?


橋の袂に農機具小屋のような建物があってそのすぐ横に加工された石が積まれていた。
全体が雑草にまみれていてこの場所に置かれて相当期間経っているらしい。


棒状に加工された石材の一部は、他の部材の留め代を作るように削られていた。


しかしこれをただちに旧浜田橋のものとするには些か決め手に欠ける。ざっと観察した限りでも親柱のようなものは見当たらなかったし、それ以上に懐疑的な見方にならざるを得ない要素があった。

野積みにされていた石材はこれだけだった。橋の部材全体にしては量が少ない。
高校生時代に自転車で走った頃には既に四輪の車も通れるだけの幅はあったから、ここにある石材を組み上げただけでは到底車の通れる橋は造れない。


石材にみられる筋状の切り欠きは堰板を固定するための石柱としてよく見られるタイプである。橋ではなく川に設置されていた井関の石材ではないかと思う。

この橋はかつて汐差橋と呼ばれていたらしい。[1]恐らく県管理となった暁に中山川と名前を変え、その後に橋が現在の形になったとき浜田橋になったのだろう。それ以前の私が自転車で通っていた頃に古い名称だったかどうかは今のところ不明である。

《 六十六部供養塔 》
現地踏査日:2013/8/27
記事編集日:2014/10/13
浜田橋から数メートル離れた場所に極めて古い石碑がぽつんと建っている。
この写真でも浜田橋に対してどの位置にあるかが分かるだろう。


終点の浜田橋で綿密な写真を撮り終え、さて引き返そうか…と自転車の向きをここで変えたときに気が付いた。

この石碑だけである。他には何も手がかりになりそうなものがない。


全文が読み取れるように撮影した積もりだったが、彫りが浅く判別できない漢字がある。
分かる範囲で書き下してみると…奉納大乗妙典経…その下にまだ6文字程度あるようだが読みとれない。


裏側には縦書きの二行にわたって文政五年 三月建立と読み取れる文字がああった。
年月が経ちすぎて元からの石材の凹凸に紛れてかなり読みづらくなっていた。


起点に存在した新設道路標に対応する何かの遺構かと思われた。しかしこの場所は市道としての終点というだけであり、私有地を寄進して造られた道はここまで至らないだろう。
もう一つ考えられるのは、浜田橋の袂にあった石材との関連性だ。峠を越えて最初に出会う川なら、一つのランドマークだっただろう。そのような意味合いを持つ遺構だろうか…

この石碑一つだけでは無理だ。経典などという文字が見えることから、何かの宗教的意味合いを込めて据えたのかも知れない。

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後日、出典[2]に接することでこの石碑がやはり浜田橋に纏わるものであることが判明した。

この場所は中山川(県管理以前は汐差川)の厚東川寄りで下流にあたる。上流からの水を集めているために容易には渡れず、かつては飛び石伝いに渡っていた。しかし潮の干満の影響を受けるため、満潮時には渡れなかった。とりわけ雨が続くと水位が上がって数日もの間渡れない状態が続いたという。
諸国を巡る六十六部の僧侶がこの状況をみて橋を架けるために托鉢し橋を完成させた。架橋によって汐差川の往来が楽になり、僧侶の徳をたたえてこの供養塔を橋の袂に建てたとされる。[2]

それほど重要な橋でありながら、現在は昔をとどめる橋の姿はそこにはない。石碑のみ遺して橋を完全に解体撤去することは考え難く、現在の浜田橋の上流側左岸に遺されていた石材は、やはり当時六十六部の僧が架けた橋の一部なのかも知れない。
なお、この石碑は昭和52年に中山川の浚渫工事を行った際に川底から見つかり、現在の位置に据えられたものである。[3]

出典および編集追記:

1.「ふるさとの道」(山口県ふるさとづくり県民会議編)による。

2.「なつかしい藤山」p.18 による。
書籍に掲載された写真によれば、石碑の下に台座があるらしい。現況は土に埋もれていると思われる。

3.「藤山史跡まっぷ」(藤曲ふれあいセンター)の38番。

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