新川橋(旧橋)

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記事作成日:2021/7/4
最終編集日:2021/7/5
ここでは、新川橋(旧橋)として、国道190号の新川橋のすぐ下流にある橋(以下「旧橋」と略記)とそれ以前の橋や周辺の関連する話題について記述する。
写真は現在の旧橋。


位置図を示す。


なお、旧橋以前に架かっていた諸々の橋は同じ位置にあったとは断定できず検証を要する。
《 概要 》
旧橋は昭和12年2月竣工で、国道190号の新川橋より下流側十数メートルの位置にある。新川橋が現在の常盤通りの線形に沿って架かっているのに対し、旧橋は真締川に対して直角に架かっている。


現在では橋の延長上に道が存在しないが、東側は昔の常盤通りが続いていた。戦時の宇部大空襲で市街部が焼け野原となったため、一から街区や道路を整えることによって昔の常盤通りは旧橋筋のみ遺してすべて消失している。

旧橋の欄干は当時のものを遺すが、いわゆる4点セットのうち2つが欠けている。現在は「新川橋」の漢字表記と竣工年月を記したブロンズプレートのみが存在する。



欠けたプレートのあった窪みは親柱と同じ色のモルタルで塗り潰されている。真締川に架かる他の橋の4点セットから、失われたプレートは「しんかわはし」「眞締川」と思われる。プレートの逸失は戦後の混乱期による盗難と推測される。

欄干は部分的に空隙を造った石材の壁であり重厚感がある。空隙部分は荒い鉄格子になっているが、転落を防ぐための後年の追加施工かも知れない。橋脚の構造も戦前期のものにしては重厚で、後年補修されている可能性がある。


河床からの撮影。
2ヶ所に櫛形の橋脚を降ろす構造で、これは新川橋と同様である。


旧橋は昭和12年の架橋であるが、その後全体を架け替えることなく何度か橋面などの変更を行っている。現在の新川橋が架かる昭和27年までは旧橋が東西の交通を担っていた。歩行者の往来の安全確保のために車道よりも一段高く歩道が造られていた。

宇部大空襲のとき旧橋に焼夷弾が当たったときの痕跡が永らく遺っており、橋の東側に説明板が置かれていた。この痕跡は歩道部分を削って車道と同一にする改良工事を施したことによって消失した。
標識柱と説明板は暫くそのままだったが、現在はどちらも除去されている。
写真は標識柱が存在していた2016年2月の撮影


旧橋は当初、現在の常盤通りの橋を架ける折りに落とされる予定だった。前後の通りが既になく橋自体も近い位置に重複して架かるため存在意義がないとも考えられた。しかし旧橋を温存し戦時期の道筋を今に伝える遺構とする必要性を訴えたのは元市長の藤田氏と言われる。[要出典]

温存後も平成期まで橋面が異様な色でペイントされているなどあまり管理されていない様相だったが、2012年頃橋面を明るい色で舗設し直し、更に花壇を設けてオブジェも据えるなどして景観造りに貢献している。現在は四輪の通行は橋前後の礎石で塞がれ、歩行者と自転車のみが通れるようになっている。橋の両岸に繋がる真締川公園の一部に含まれ、橋そのものも市公園緑地課の管理地となっている。
【 旧橋以前の橋について 】
江戸期に新川が掘削されたことで内陸部の水浸し状態は幾分緩和され耕作面積の拡大に貢献はしたが、以前は繋がった砂州だった場所が新川で分断されることとなり当然ながら往来は不便になった。最初期の新川は現在の川幅の半分以下とみられるものの潮が差せば渡れないことに変わりはなく、初期は短い距離ながら船渡しを利用したり干潮時を利用して飛び石伝いに渡られていたようである。
以上の記述は将来的に新川の記事を作成したときには移動される

この地に木橋が架けられたのは明治36年とされる。[b2]石橋が架けられたのは明治41年であり近年親柱が再発見されたことから、新川の東西に人が集まり始めて往来需要が高まってから架け替えられたと思われる。天候や水位を気にすることなく荷物を載せた馬や人力車も安全に通れることは大きな歓迎をもたらしたのは想像に難くなく、宇部百景と称して市内随所を撮影した画像の中には新川橋の全容を東西から撮影したモノクロ画像が知られる。

現地にある旧橋は昭和12年架橋で、後に両側に歩行者が安全に通行できるよう一段高い歩道部分が設置された。
国道の新川橋の親柱を中心に周辺を合わせて調べたときのレポート。この総括記事以前から作成されていた記事で写真が古くなったため時系列記事に降格した。(2013/6/19)
時系列記事: 新川橋【2】
出典および編集追記:

2.「新川から宇部へ」(高野義祐)p.47

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