町内の行事

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市内全ての町や自治会にわたって記録することなど途方もないので、個人的関わりの多かった恩田町に暮らしていた時期に限定して記載している。町内の組織は恩田27−3区全体、恩田子ども会、そして恩田町5丁目、そこに所属する各班である。学童期の記述が多いので現在では状況が異なっていることが有り得る。特段の必要ある場合を除いて個人的関わりの項目も分離せずそのまま本編に盛り込んでいる。当面は相載せ方式で記述し、分量が多くなってきたら本記事を総括として詳細記事へ移動しリンクで誘導する。
《 回覧板 》
記事作成日:2015/2/3
現在でも町内における広報機能を果たすもので、一般的項目は[1]を参照されたい。

恩田27−3区はいくつかの班で構成され、回覧板は班単位で運用されていた。班長さんが自治会長のところへ取りに行き、閲覧後決められた順番に各戸へ回すシステムである。初期の回覧板は厚手の紙製で、A4ないしはB3サイズの二つ折りサイズだった。開くと中ほどに金属クリップがついていて、必要な回覧物が挟まれていた。内容的には自治会便りのほか、管轄する派出所からの盗難や火の用心に関する注意喚起、イベント案内、廃品回収の開催日時の告知などだった。少ないときは自治会便り一枚のみのときもあったが、概ね複数枚が挟まれていた。それぞれのチラシ下部には既読欄があって、閲覧後はサインまたは簡素な認め印を押して次の家へ回すシステムだった。いずれも閲覧するのみで、各戸で一枚ずつ抜き取る配布式のものは含まれていなかった。各戸に要する資料などは広報などの配布に併せて班長さんが配達した。

回覧板を回す各戸の順番は、うちの班では特に決められていなかった。直前に何処の家から回されて次に何処の家へ持っていくべきかが頭に入っていたからである。回覧板を隣の家へ持っていくのはしばしば子どものお使いの一つだった。このとき恐らく当初から意見があったと思われるが、大きすぎる回覧板のボードはしばしば留守の家に持っていくときの障害になった。幼少期は回覧板一つ持っていくにもわざわざ呼び鈴を押し、家の人に手渡していた。留守でも確実に次の家へ回さなければならないにしろ、当時各戸に設置されていたどの郵便受けに対しても回覧板のボードは大きすぎた。家のドア本体やその横にはしばしば内側に開く形の造り付けポストがあったが、その中にも入らず、角を差し込み固定する不格好な入れ方しかできなかった。雨風が強いときはしばしば雨に打たれ、文字が滲んで見づらくなることがあった。我が家が受け取るときも造り付けのドアポストにも郵便受けにも入りきらないので、留守中に玄関に停めていたママチャリのカゴに入っていたこともある。[2]

読んだら迅速に次の家へ回すべきものでありながら、しばしば回覧板は各戸に滞留した。うちも数日間保持したままという事態はざらにあった。旅行などで何日も家を空ける家庭もあるので一周して班長の元へ戻ってくるまでの日数は余裕を見てあったが、班長になったときしばしば「回覧板の帰らん板現象」に悩まされた。これはどこの町内や班でも同様であろう。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - 回覧板

2. 昭和期の玄関ドア横ないしは本体に造り付けられた新聞受けなどのポストは概ね幅が共通している。そして厚紙の両開きで拵えられた当時の回覧板はそれより大きくポストへ入りきらないのは明白だった。そのサイズで造った裏には、次に回覧すべき近所の家のポストへ黙って突っ込むのではなくキチンと手渡しすることを前提としていたのかも知れない。
《 ラジオ体操 》
記事作成日:2015/2/8
ラジオ体操そのものは学童期に限らず中学校の体育の授業ではよく実行されていたし、高校に入っても第一体操は動作を間違うことなく遂行できるかは体育実技テストの一つでもあった。しかし個人的に殊の外想い出深かったのは、小学生時代の夏休みに行われる朝のラジオ体操であった。

これは町内の行事と言うよりは子ども会関連の行事であったが、場所は後述する廃品回収のときの集積場だった自治会長さんの庭で集まるのも町内の子どもたちに限定されていた。
一学期の終業式の後で夏休みの過ごし方の諸注意が教室で行われ、保護者向けのプリントも配られた。その中にはラジオ体操の推奨項目があり、各町内で行われる毎朝のラジオ体操に出席することが求められた。プリントと一緒にハガキサイズの紙が渡され、それには夏休み40日分の枠が印刷されていた。カードの端には穴が空いていて首に通せるほどの紐が結わえ付けられていた。ラジオ体操に行くとき子どもたちはかならずそれを持参しなければならなかった。

幼少期の私は運動嫌いだったせいか虚弱体質の低血圧とあって朝起きが殊の外苦手で、この子ども会のラジオ体操が嫌で嫌で仕方がなかった。ラジオ体操は朝6時半に始まるので[1]朝6時頃には自治会長さんの庭に集合しなければならなかった。小学校へ登校する普段でも朝は7時近くまで寝ていた子どもだったので、朝6時前の起床はまったく苦痛だった。せっかくの夏休みなのに何で普段より早起きしなければならないのだろうとラジオ体操が恨めしかった。諺に「早起きは三文の得」と言われるが、昭和中後期となっても未だその諺が尊ばれていて大人も子どもも関係なく朝ゆっくり寝ていることはだらしない人間のすることであった。
ラジオ体操は第一体操のみで終了し、自治会長さんからカードに印を押してもらった。この印がカードの欄をすべて埋め尽くすのが至上とされたが、夏休みを利用して旅行したり帰省したりということは当時からあったので強制ではなかった。しかし家に居る限りうちの親はどんなに私が不平を垂れようが叩き起こしてでもラジオ体操へ行かせた。自分も嫌々ながら行ったのは、町内殆どの子どもが集まるのと兄貴が参加していたからだった。兄貴は早起きはそれほど苦痛なくこなしていたらしい。兄が参加しているのに自分が行かなければサボっていることが明白だった。子ども会の行事はすべて小学生までが対象だったので、中学生に上がることで漸く夏休みのラジオ体操から解放された。

ラジオ体操の話ついでに。実施されるのは専ら第一体操だったが、稀に第二体操を行うことがあった。第二体操の最初で交差した両腕を拡げて両腕を肩の横から上げた姿勢で2回腰を落として蹲踞する動作を行う場面がある。学童期のこと、これが便所で用を足すとき力む仕草や排便後に水を流す紐[2]を引っ張る動作に似ていると誰かが指摘し、この場面で排便時の擬音を口ずさみながらやる子どもがいた。
出典および編集追記:

1.「Wikipedia - ラジオ体操|ラジオ体操会」参照。
当時は体操を録音したテープを流すのではなくラジオでリアルタイムで受信しつつ体操していた。

2. 現在の水洗和式トイレは水を流すとき便器先端のレバーを押下するが、初期のものは水を溜めるタンクが便所の片隅高い場所に設置されていて、引き紐を引っ張って水を流していた。タンクを高い場所に取り付けるタイプの水洗トイレはまだ存在するが引き紐型の水洗トイレは絶滅危惧種であろう。
《 廃品回収 》
記事作成日:2015/2/3
一般的に廃品回収と言えば各家庭では不要になったものの回収して再利用したり資源化が見込めそうな物品に限定して組織的に集めること、またその行事を指す。

私の幼少期では子ども会の行事として年に1〜2回廃品回収があった。小学生の私たちは決められた日曜日、リヤカーを引っ張って町内の家々を歩き回り、古新聞や一升瓶など決められたものを回収した。今で言えば「リサイクル」という概念になるものの、当時はまだそのような言葉が一般に使われていなかった。
恩田27−3区はいくつかの班に分かれていて、廃品回収は概ね市道長沢源山線に沿った班の小学生で構成されていた。廃品回収で巡回する日や時間は、あらかじめ回覧板で各戸に周知されていた。集積所に近い家は各自で持ち込んでいたし、ある程度離れていた家はリヤカーで集めた。本来なら自前で処理すべきところを子どもたちが巡回して回収してくれるので各戸の協力度は高く、概ねどの家でも勝手口から不要品を渡してくれた。当日不在の家ではあらかじめ分かる場所に新聞紙を紐で縛って置いてあったりした。

回収品が一杯になるとリヤカーを牽くのも大変なので、溜まったらその都度集積所まで持ち込んだ。集積所は回収品を持ち込んで分別できる広い庭がある自治会長さんの家と決まっていた。庭一杯に回収品が拡げられ、古新聞や一升瓶など種類別に分けられた。子どもたちは空いたスペースへリヤカーから回収品を降ろしてまた別の場所へ向かった。降ろされた回収品を種別毎に分別するのは母親たちの役割だった。町内すべての回収が終わると子どもたちも自治会長さんの庭へ集まり、分別を手伝った。最後にそれらを軽トラに積み込むのは父親たちの参加もあった。積み込まれた回収品は所定の回収業者の元へ運ばれ、最後に庭先を清掃して終了した。廃品回収は町内全員参加型のイベントだったのである。

廃品回収に参加したこと自体のご褒美はなかったが、回収品は業者に買い取られることで売却益が得られてその収益は子ども会の運営費に充当された。この運営費により子ども会でのイベントや社会見学旅行を開催することができたので、間接的に還元されていたと言える。現在なら子どもという無償の労力を使って地区のリサイクル品回収業務に従事させるのか…という意見が起こるかも知れないが、当時はたとえ子どもだろうが町内に暮らす一住民として地区の奉仕活動に参加すべきものであるという考えが一般的だった。

私たち子どもとしてはせっかくの日曜日を拘束され手伝いをさせられるので不平が出そうに思えて、実際そうでもなかった。少なくとも私個人としても夏休みに毎朝早く起きて行かされるラジオ体操ほどの負担はなかった。それと言うのも町内の子どもたちは同じ小学校へ行ってはいても学年が異なればなかなか顔を合わせる機会がなかった。廃品回収は遊び感覚でみんなが共同作業できるし、親のお墨付きで何時間でも過ごせるので、家に居て親から勉強しなさいと口うるさく言われるよりは結構愉しんで取り組めるイベントと思われていたようである。
廃品回収は恩田子ども会のイベントなので、私が中学生にあがってからは一度も参加したことがない。[1]私が参加していた間も中学生や高校生の姿を見たことは一度もなかった。現在は子どもの数が少ないので廃品回収は行われていないと思う。いつ頃まで続けられていたかは不明である。
出典および編集追記:

1. 代わりに中学校では生活班というものがあって定期的に古新聞の持参を呼びかけていた。
《 区費の集金 》
子ども会や町内会、班などの集合単位では共用物の補充や修繕に係る費用が発生する。生活道に設置された防犯灯の電球や夜間の電気代、道普請で必要な一輪車やスコップなどの備品、子ども会だよりを印刷するためのガリ版代や紙代など多岐にわたる。アパートやマンションなどの集合住宅における共益費の部分で、所属する部会にそれぞれの共益費が設定されていた。自治会費、婦人会費、子ども会費といったもので、半年ないしは一年一括で集金を行った。恩田27−3区に係る共益費は区費と呼ばれていた。

集金は概ね班長の仕事だが、子ども会に係る集金は小学校最年長の子どもが行っていたと思う。自分も集金して回ったことがある。廃品回収など子ども会行事で顔を合わせる子どもがいる家への訪問なので、集金すること自体に特に問題はなかった。留守でさえなければ区費を取りに来たと言えば快く支払ってくれた。活動財源の大元であることが理解されていたから払い渋ったり滞納したりする人は居なかった。
《 道普請 》
記事作成日:2015/2/6
道普請(みちぶしん)は地元在住民によって定期的に行われていた町内や地区の道路を清掃する作業全般を指す。ここで言う道路とは現在の認定市道も含まれる。主要な作業は草取りであった。
当時は市道長沢源山線に沿って流れる雨水渠は民地側が石積み、道路側は通常の土手というスタイルだった。このため道路の側面に雑草が茂りやすく、定期的に草取りする必要があった。草丈が高くなれば鎌や草刈り機も必要になろうが、道路沿いはそれほどの草が生えることはなかった。引き抜いた草や落ち葉、路上のゴミ等は集めてゴミステーションに持っていった。
生活道に関しては草引きの他に簡単な補修もやっていたようである。路面の荒れた部分は適宜均し、土が流れて痩せた部分は別の場所から削ってきた土砂を入れた。この作業では一輪車も要った。

ただし道普請は大人の仕事であって、少なくとも私自身は一度も参加したことがなかった。回覧板で道普請が告知されるものの各戸から一名人員を提供すれば足りていて、専らうちの親が出ていたからである。
町内で定期的に行われる道普請が現在も行われているかは分からない。少なくとも認定市道に関してはなくなったと思われる。市道沿いにあった雨水渠はコンクリート製の蓋付き自由勾配側溝に置き換えられた。草が生えないし土砂が溜まることもないので、親は道普請を含めて町内や班で集まる機会がなくなったと話していた。このことは各戸が提供する労力や時間の削減にはなったが、町内や班で在住民が顔を合わせる機会が激減したのは確かだった。
《 溝普請・溝掃除 》
記事作成日:2015/2/9
溝普請(みぞぶしん)は地元在住民によって定期的に行われていた水路の泥浚えを含む維持管理作業である。私たちの町内および班では溝普請と言ったときには長沢を流れる松尾水路、そこへ流入する市道沿いと生活道路沿いの共同排水路と付随する溜め桝を指した。
松尾水路は長沢と中長沢の間を流れる排水路であり、私たちの班および居住地からは相応に離れていた。しかし当時は町内どの家庭も生活排水を最寄りの溝に流しており、それらは松尾水路に入る。有機物に富んだ生活排水はヘドロを産み出し、放置すると水路の底に溜まった。そのため町内に属する区間は水路沿いの田畑所有者でなくともヘドロを除去する作業に参加する必要があった。

溝普請は道普請と同様、各戸から一名出せば足りるので私自身は松尾水路の溝普請に参加したことは一度もない。ヘドロを浚えるのは重労働なのでオトコの仕事という認識があった。それだけに近所の女の子が溝普請に出て手伝った話を聞かされたときは衝撃的だった。[1]

これとは別に班内の生活道に沿って流れる排水路や雨水渠があり、そえらの清掃は各班で行うことが求められた。班内の溝掃除は当番制で回ってきたので親が忙しいときはしばしば私にも掃除するよう言い渡された。
写真は当時溝普請を行っていた排水路の一部


注意以下には汚穢物などに関する記述があります。食事中の閲覧はご注意ください。承諾頂ける方のみ「閲覧する」ボタンを押してください。

溝掃除は平成の始めに汚水管工事が完了してからは完全になくなった。未舗装路だった道も舗装されたために土砂の流入もなくなり、雨天のときに各戸の屋根から集められた雨水だけが流れるようになった。したがって現在では市内の殆どの排水溝と呼ばれる部分は乾いているか、上流からの雨水のみを流しているので概ね清潔である。この溝自体は現在も蓋をされることなく存在している。
出典および編集追記:

1. 溝普請に出る人が少なかったとき、母が同じ班に居た女の子が参加したと話したことがある。大した心がけだと感心していた。それでも自分は幼少期の溝にまつわる嫌な思い出から最後まで溝普請に出ることはなかった。
《 ゴミステーション当番 》
うちの町内や班に限らずゴミ出しに関しては平成期に入ってから分別を強く求められた。それまでは結構いい加減に出していたのではないかと思う。ワンウェイ容器の普及でゴミの排出量が増加したこと、環境に配慮したゴミの出し方が説かれ始めたことが背景にある。燃えるゴミ・燃えないゴミは区分するだけではなくそれそれゴミステーションへ出す曜日や時間も定められた。しかし従来のゴミ出し要件が甘かったことと充分な周知徹底がなされていないからか、必ずしも守られない例がでてきた。そのためある時期から当番でゴミステーションに立哨し、指定された通りのゴミ出しが行われているかの立哨が求められた。
写真は恩田在住期の班のゴミステーション


ゴミ立哨は各戸に当番で回って来て市の回収車が来る時間まで現地へ居なければならなかったと思う。しかしゴミ収集は平日の午前中だったので日中の仕事を持っていれば当然ながらできなかった。したがって私自身実情がどうだったのかはまったく分からない。指定以外のゴミが出ている場合は収集車は置き去りにして帰ることになっていた。粗大ごみは元々ステーションには出せないのだが充分に理解せず提出される事例もあり、そうなると誰のものか分からないゴミがいつまでもステーションに残る事態も起こった。一連の事態は何処でも抱えている問題である。

ちなみに昭和期では良く言えば大らか、悪く言えば大雑把といったところで、物理的に燃やせるものは何でも各戸で燃やしていたと言っていい。昭和50年代始めまでは多くの家庭が木切れや石炭で風呂を沸かしていたので、包装紙や紙箱は格好の火種だった。今ほどポリエチレンなどの石油由来の梱包材がなかったのも理由にある。ただし少しずつ出回り始めたビニル袋などは風呂釜で燃やすとカロリーが高すぎて釜を傷めるので燃やさないよう親からも言われていた。しかし庭の片隅には建築ブロックを積み上げて造った簡易焼却炉があり、庭木の剪定で出てきた枯れ枝などと纏めて燃やしていた。こうして発生した嵩張らない焼却灰を燃えないゴミとして出していた。

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