情報クレクレタコラ

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記事作成日:2019/2/3
最終編集日:2019/2/14
情報クレクレタコラとは、端的に言って無形物として提供された情報に対する見返り意識が著しく希薄で、空気と同様タダで手に入れられて当然のように考え、更なる情報搾取を企てようとする態度を指す。ここに言う「見返り」とは、金銭による対価支払いに限定されず、当該情報に付随する関連情報の提供や道義的に求められているレスポンス(謝意や応援など提供者へポジティヴに働くもの)も含む。それらすべての見返り意識が皆無というだけで既に潜在的であるが、それに加えて取得した情報を自分の功績とみなして無断流用したり、利用するだけ利用した後に難癖を付けたり、もっと追加の情報をよこせなどの態度で情報提供者にネガティヴな作用をもたらすなら、典型的な情報クレクレタコラである。一個人や団体組織に対して用いられる。

当サイトの管理人による比較的最近作られた勝手呼称であり、この上ない侮蔑が込められている。この奇妙な勝手呼称は、先述の「もっと情報をよこせ」という無節操な搾取態度をクレクレタコラのストーリーに準えている。[1]
《 詳細 》
【 有形物と無形物の対価性 】
果物屋の店先に積まれているみかんの中に、どう見ても売り物になりそうにない傷んだものがあっても、店主が「持っていっていいよ」と手渡してくれない限り勝手に持ち帰ってはならない。当たり前である。みかんは食品であり、食べれば甘くて美味しく栄養があり空腹も紛らわされる。原価はゼロ円ではないし、売り物として並んでいる限りゼロ円でない対価が明示されているわけだから、黙って持ち帰れば窃盗である。どなたも異論はないだろう。

しかるにいくら価値あるものでも情報のような無形物の場合、多くの現代人において対価を支払って手に入れるべきという意識が途端に希薄になる。対価が明示されておらず事実上自由に入手できるならタダと考えるし、原価など意識すらされない。挙げ句に利用したいだけ利用した後で難癖をつけてみたり、そのくせ情報の価値だけは認識しているのか「そこまでタダで提供したのならもっと寄こせ」という態度になりがちである。

例えば朝から喉が痛み鼻水も出て熱っぽく感じるとしよう。自分の身体に何が起きているか凡そ想像はつくが、あまりに酷ければ大抵の人は内科に足を運ぶ。受付で問診票を書き、院長からいくつか質問されると共に簡単な診断を施されるが、結果的にインフルエンザなどの重篤な症状でないことだけが分かり、ドラッグストアでも買える対症療法的な薬が処方されて様子見する場合が結構多い。

そういった体験をした後、次にまた同じ症状に罹ったとき、わざわざ内科へ出向かず電話で院長を呼び出して尋ねようというのはどうだろうか。自分の今の症状をとつとつと語れば、院長も人だからアドバイスしてくれるかも知れない。電話代はかかるにしても初診料よりずっと安いし保険証も要らない。そこで得られた情報を元に以前処方された薬の飲み残しを流用するなり、ドラッグストアで第二類医薬品を買えば内科で診てもらう費用と時間を節約できる。[2]そのような判断に基づいて実際に着手し、教え渋る医者は無視して複数の内科へ次々と電話をかけるとすれば情報クレクレタコラ認定となる。

さすがにそこまで露骨なことをする人も稀だろうが、実は似たことを多くの人がやっている。事務所勤務の人で自分のノートPCの調子が悪いとき、同僚に詳しい人が居ればこれって一体どうなっているのか分かるか位のことは尋ねるだろう。親切な人は自分の仕事がそれほど忙しくなければ、現物を診てくれる。中には異なる部署からでも気を利かせて診に来てくれる人もあるが、彼らがサラリーマンであることがその行動のハードルを低くしている。定刻まで会社に拘束されることで対価が支払われる給与体系だから、タダで情報搾取されているという感覚はあまりないからだ。ところがこれと同じことを平気で自営業者に求める人がある。

PCメンテナンスを業務に謳っている場合は別として、困っているからと懇願されて出向けば作業の結果を保証できない手前、ほぼ間違いなく無料奉仕となる。不慣れな人にとってPCは不可解な動作を起こしやすい家電製品だから、たまさか巧く直ってしまうと「またお願いね」となりがちだ。仕舞いには電話一本で無償でいつでも駆けつけてもらえる便利屋さんにされてしまう。自営業者はサラリーマンと異なり事務所の椅子に座っているだけでは一銭も得られないという厳然たる事実がまるで理解されていない。尋ねる側からすればPCの不具合が直りさえすれば良く、着手する人がサラリーマンか自営業者かなんてのはどうでもいいことだからだ。

PCショップで診断を受けるには自力でPCを持ち込み、最初に対価を支払うことを求められる。それも診断するだけであり、そこで原因が分かったとしても不具合を直すのに必要な工賃は別途請求される。専門性の高いPCショップでは、電話して症状を話したとき不具合の原因と思われる情報を提示してくれることも多い。しかしそれを良いことに電話で自分のPCに起きている不具合を事細かに報告し、応対した店員に考えられる原因をいくつも列挙させるのは情報クレクレタコラである。店員が答えたところでお店の売上げにまったく貢献しない上に、サービスの一環で応対すると言っても長電話されれば店員は他の作業ができず拘束されてしまう。更に言えば、そのような態度は何処の誰かも分からないユーザーからの問い合わせに対して懇切丁寧に回答しているのに「知っているのなら教えろよ。別に減るもんでもないだろう」と言っているも同然である。

一定の情報を元にしたスキルや手続きは、当該情報のみよりも更に重要である。かなり自明なことなのだが、いくら親しかろうが演奏会を開催するような友人のピアニストに「ちょっとあの曲を弾いてよ」などと気安くお願いしてはいけないのである。本人からすれば実行するのは簡単だし「減るものでもない」のだが、多くの聴衆が有償で参加する演奏会で披露されるべき作品を、自分一人のためだけにそれもタダで弾けと命じているも同然だ。同様に、市内で流行のケーキ屋さんに勤めている友人に「こないだ買ったあのケーキ美味しかったからレシピを教えて」などと言ってはならない。中には気を利かせてレシピを調べて教えてくれる勤め人があるかも知れないが、これなどもう歴とした犯罪である。

情報は目に見えないし、授けられた情報を両手で恭しく押し頂くこともできないが、有形物以上に相応な態度をもって取り扱われなければならない。現代は情報化社会だから重要視されているわけではなく、ずっと昔から重要だったのだ。現代ではピンと来ないだろうが、マツタケの群生する「シロ」が何処にあるかは身内でさえも容易には教えなかったと言われる。伝統工芸においても親方はいちいち製法を伝授せず、弟子は「目で見て盗む」のが普通だったことからも明らかである。
【 無形たる情報の取得はどんな態度であるべきか 】
対価は支払えないけど有用な情報を下さいと教えを請う態度のすべてが悪というのではない。ドライと思われている現代社会とて、善意と一定範囲での無償奉仕により成り立っている。誰かが「〜について教えてくれる?」と尋ねたその都度「いくらで?」と返される言葉のやり取りであふれた世界を想像してみると良い。本当に当該本人以外誰も知らない極めて重要な情報なら対価交渉もアリだろうが、一般の会話では同質の情報をもった人物が他にいくらでも居るのが普通だから、尋ねた人は「もういいanger!」となるだろう。のみならず、しょうもない情報を押し売りしたがる奴という悪評が立ち、逆クレクレタコラ認定されてしまうだろう。

世知辛いと思われる現代社会において、ネット上では意外にも状況は大いに異なる。ホントにタダで教えてもらって良いのだろうかと思えるほど、ごく狭いカテゴリの特殊で詳細な情報がさまざまなサイトから提供されている。本来なら有償でも需要がありそうな情報が無償でネット経由で得られるのは、情報提供元からすれば代価を得ることだけがモチベーションではないことの証である。

当サイトでは市内限定の郷土関連という極めて狭い範囲だが濃い情報を発信している。読者が公開されている情報を脳内へ取り入れ持っていくことに何の問題もないし、中には更なる情報が欲しくてメールなどで問い合わせる方もある。その殆どが聖なる知的好奇心を満たしたいというのがモチベーションだから、私も知っている範囲で情報提供するし、可能なら関連書籍をいくつかあたって回答もしている。自分が調べることで新たな知見が得られれば私にとって有用だし、その結果を編集追記すれば当該記事の充実にも繋がり、他の読者にも有益にフィードバックされる。当サイトのみならず、現在ネット上で無償で手に入れられる情報やデジタル素材の殆どが、率先して提供するから有益に共有し活用して欲しいという「善なる精神」を土台に成り立っていることを忘れてはならない。

最近、目からウロコとよく言うが大変に納得のいく言葉を知った。これは提供されるものの有形性・無形性を問わず共通してあてはまるフレーズである。
「感謝」の反対(対義語)は何だろうか。それは「当然」である。
何故なら感謝することを「有り難い」と言う…「有ることが難い」程に稀だから。
しかるに当然とは「当たり前」と思うこと…「有って当然」と考えることから。
感謝されれば誰だって嬉しい。知っていることを他の個体へ教えてあげたがるのが人間という存在である。当サイトの記事にしろメールでの回答にしろ、私は情報提供したからといって代価はもちろん感謝をも要求はしない。感謝の気持ちが「あって当然」とは思わないが、自ら「なくても平気」「そういうのは不要」とまで公言はしない。だからそれより更に斜め前に踏み出し利用したいだけ利用した後に「こんなのはダメだ」と難癖を付けたり「もっと寄こせ」という態度を、善なる精神への破壊行為とみなし積極的に否定するのである。

賢明な読者の皆様へ。どちら様も情報クレクレタコラにならないようお願いしたい。無形物だから、誰にでもいくらでも提供できるものだから、まして原価もないのだから…等と考え、提供されて当然とばかりに感謝もせずケチを付けたりもっとよこせなどというのは恥ずべき態度である。特に誰に対してもろくに自分から情報を与えようとしないのに、他人の発信する情報は好きなだけ持ち去って利用し更にもっと寄こせと振る舞うなら、やがて有用な情報はあなたの周辺を避けて流れるようになる[3]だろう。
《 実際に観測された事例 》
情報クレクレタコラは、現在のところ当サイトでは記事においてまだ使用された例はない。日常生活での使用例もない。しかし定義に該当しそうな人物や組織はいくつか観測されている。定義該当にグレーな状況も含めて、以下に事例を挙げる。

・かつてYahoo!ブログに常盤用水路の全経路を踏査してレポート形式の記事を公開していた。恐らく市内在住の大学生が一連の記事に興味を示したまでは良いのだが、数回のやり取りの後でこのようなコメントを寄こした:「卒論のテーマにしようと思うのでこの記事を使わせてください」私はやんわりと卒論は自分で書くようにとだけコメントを返した。

・アカウント登録することでアンケートが配信され、最後まで回答すれば所定のポイントが付与されるサービスが複数社より提供されている。そのポイントは当該サービスを運営する母体系列のショップなどで買い物するとき1ポイント=1円として使えるようになっている。しかし一部には回答者へ報酬を与えるという意識が極めて希薄と見做さざるを得ないようなアンケートが存在する。詳細は以下の外部ブログ記事を参照。2011年6月21日作成。
外部ブログ: 楽天のケチ臭いアンケート|Amebaブログ
現在も楽天アンケート自体は利用しているが、抽選で一部の回答者にのみポイントが付与されるアンケート、本調査の実行に先立ち抽選で参加者を選ぶためにポイント付与なしで住所氏名など個人情報の提供を求めるアンケートは情報クレクレタコラと認定し、いっさい協力しない。

・昭和期に一大コミュニティーを形成していた商店街の店舗履歴を記録し続けている方がある。相当な長期間を費やして調べ上げ手書きのマップにまとめていらっしゃる。商店街を利用していた当時の客は元より、誰の目にもその重要性は明らかである。ある日、マップの話を聞きつけてお店に来たある客から事も無げに言われたそうである:「そのマップをコピーして私にもらえませんか?」
さすがにマップの制作者も目がテンになったと言われた。私を含めたうちのメンバーも話を伺いに行ったのだが、手持ちのカメラでマップを撮影するのも憚られた位だったのだ。どのみちその客は冷やかしが単なる一見さんで、もう二度とその店へ行くことはない(普通の精神の人間なら行けない)だろう。
ある投稿サイトでの規約があまりにも一方的なために批判を浴び、規約の改定に至った事件に対する痛烈な批判記事。2014年8月12日作成。
外部ブログ: 「儲かるデータは俺らだけのもの、だが損害が起きたらお前の責任だ」|Amebaブログ
出典および編集追記:

1. クレクレタコラとは昭和中期に流行った子ども向けテレビ番組である。主人公のタコラは常に周囲を見回し、欲しいものを見つけるやどんな手段を用いてでも自分のものにしようとする。現在では知る人も殆ど居ないが「〽何でも欲しがるク〜レクレタコラ〜」は定番フレーズである。昭和中期の親は、店にあるものや他の同年代の子どもが持っているものを見ると無闇に欲しがり、諫めてもダダを捏ねるような我が子に対してクレクレタコラと諫めることもあった。詳細は「Wikipedia - クレクレタコラ」を参照。
もっともこの番組を批判する意図は毛頭なく、現代社会にありがちな身勝手で手段を選ばない情報搾取を痛烈に非難しているのである。私は情報搾取性の喩えとしてこれ以上良い表現を思い付かない。ただし現在ではクレクレタコラというフレーズそのものが死語と化している。

2. そのような問い合わせには一切応じられないのが普通と考えられる。ここに挙げたのは極端な喩えではあるが、将来的にはちょっと具合が悪い位で内科へ足を運ぶのではなく、かつ電話で尋ねずに可能な限り自力で調べて対処するセルフメディケーションが求められるだろう。

3. このことはFBにおけるマイルールとして以前から経常的に運用している。FB上でリアルの面識がない利用者が友達申請して承諾したものの、その後本人からのレスポンスが何もないというパターンが典型例である。実際には申請した本人はそこまで考えていないのだろうが、FB上で友達になれば、友達限定で配信される投稿を読めるようになる。この場合、一週間程度の経過観察後になおレスポンスがなければ友達を解除している。即ち友達限定で配信される情報を読むことだけが目的の「にわか友達申請」は認めないスタンスである。詳細は「FB|友達・友達関係の解除について」を参照。

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