白岩公園・第九次踏査【4】

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(「白岩公園・第九次踏査【3】」の続き)

この白い縄張りはK氏のお仕事だろう。去年、第7番御堂に案内するために設置した青いリボンも遺っていた。


白いロープがあればここに踏み跡があるようだと認識される程度の経路だ。実際にここを通って御堂などに往還していた道があったかどうかは全く分かっていない。


久し振りの藤山八十八箇所・第7番御堂だ。
藪の中にぽつんと存在し周囲には何の目印もない。現在でも板根の樹から注意深く辿らなければ迷わず到達できる自信のない場所だ。


7番御堂に関しては別途記事を書く積もりなのでそこに掲載することとして…
ここから先の経路が現在なお未開拓状態である。実際は忠魂碑までそれほど離れておらず、かつては絶対に園路の続きがあった筈だ。しかし第7次の合同調査会のときも道を失い案内できなかった。
この御堂を経て直接忠魂碑へ到達したことは一度か二度ある。それは踏み跡も認められない場所をまったく適当に藪漕ぎした結果なので、一連の記事で何度も言及しているように「経路再現性がない」状況だ。
今回も念のため御堂から先を辿ってみた。しかし以前白岩公園コースから倒壊御堂を辿ろうとして2度も失敗したときと同様、まったく踏み跡の痕跡すらなかった。

忠魂碑へ至る経路は一応、確立はできている。それは白岩公園入口のボール橋を渡って最初に出会う沢を遡行した先に石積みがあり、その上の平場にマーキングが施されている。そこを辿れば到達できるのだが、一旦メインの園路まで降りて沢を登り直さなければならない。このような状況のため、7番御堂と忠魂碑がどの程度離れているかも分かっていない。もしかして直線距離で十数メートル内にあるのかも知れないが、恐らく高低差は違っていると思う。

踏み跡が消失する場所から振り返って7番御堂を撮影したところ。木の幹と御堂の屋根が同色なので少し離れただけで完全に自然へ溶け込んでしまい視認しづらい。
藪がある程度おさまる今の時期とてこんな状況なのである。ここは初回踏査時からまったく変わっていない。


この程度のただの藪なら全国津々浦々何処にでもある。重要なのは、藤山八十八箇所の礼拝所としてかつて重要だった場所でありながらまったく誰からも顧みられることなく自然に還ろうとしている場所が私たちの足元にあるという事実だ。時代が移ろい人々に必要とされなくなったものは、静かに自然へ還る運命にあるようだ。どんな重要な遺構も事実も。現代に於いては情報や人とてまた然り…

忠魂碑行きは今回も見送ってロープで示された踏み跡を引き返した。


この経路は若干のアップダウンを繰り返しながら、先ほど崖の上から眺めた石材の散らばっている場所へ出てくる。
何度目かに行った東ピーク側の藪漕ぎの過程で見つかった。
先ほどは前方上部から見下ろすように撮影した


高さ7〜8m程度の垂直な岩があり、その下に柱状の石材が何本も散らばっている。


初めてここを訪れたとき、この柱状の石材からかつて御堂か石積み構造物があったのではと推測していた。石材の下からはレンガの一欠片も見つかっている。しかし今回改めて現地を眺めてここも「鼻岩」があった場所のような石切場だったのではと考えるようになった。

垂直な崖に接近してみる。
自然に形成されたにしては奇妙に整った平面が直交している。この切り欠き方は鼻岩と同様だ。


別の場所の岩肌にはもう少し決定的な部分が見える。


鼻岩と同様、何か細長い鋼棒を撃ち込んで岩を割ったと思われる痕が残っている。
拡大画像はこちら


もう一つ、石切場を想起させるものがあった。
外力を加えてできた石材の欠片である。全体が均質な岩なら自然にこのような窪みはできない。これは石材を採取している過程で剥がれ落ちた部分だ。
切り込み部分を拡大撮影した画像はこちら


したがってここは御堂跡ではなく単純に園内の石材を調達する石切場だったのではないかと思う。
足元に転がっているのは、切り出して荒削りしたまま搬出されなかった石材と考えている。


もし御堂などの構造物跡だったなら、石材はもう少し丁寧に加工されているものである。園路の石段に使うならこのまま搬出するし、御堂や法篋印塔の前にみられる雛壇を作るなら一旦現地へ運び、各石材の接する部分を現地合わせする作業が要る。重い石材をわざわざ遠くまで運ぶこともないので、東ピーク側に設置された石段などに賄ったのだろうか。
一世紀近く放置され石材は木の葉や土砂に埋もれかけている。割れたレンガが一欠片見つかっているので、作業用の小屋程度なら建っていた可能性はあるだろうか。
次期バージョンの地図ではこの場所を石切場として追加する予定

ここまでに至る経路は枝道が知られていない。板根の樹まで戻るのは大儀なのでそろそろ撤収することとして強引に斜面を下った。
適当に斜面を下るとメインの道途中にある御堂の跡らしき場所に出てきた。


この場所も未だに何だったか分かっていない。きちんとした石段がメインの道両側に造られているので、出店か休憩所があったと考えられている。あるいは人が住んでいたのかも知れない。

斜面の上り下りが多く、しかもその殆どは正規の道がついていない場所なので長丁場はさすがに堪える。園内の探索は1時間半が限界だ。


ボール橋の岩。これは石切場からではなく近くにあった岩を適宜接ぎ合わせて設置したのだろう。


なお、途中で拾ってきた柿を橋の上に置いてきた。野生動物が食べてくれるだろう。
ボール橋じゃなくて柿橋にするか…何か良い勝手呼称を考えて欲しい

個人的な見方だが、この橋から先が白岩公園で水路が境界になっているのではと考えている。メインの園路は恐らく私有地だろう。地区道から橋までは水路の管理があるだろうから里道と推測している。

橋から地区道までの間に2つ積み重なったような形の岩があることが知られている。
今までの踏査でも多分写真に撮っていると思う。


この岩の外観に不自然なものを感じる。
自然が大岩を侵食した結果としてこのような横方向の筋が入るものだろうか。


当初は頓着しなかったものの、最近これは人為的に積み上げられたものではないかと考え始めている。白岩公園の入口であることを示すランドマーク的存在として設置したなど…”白岩公園入口”などの文字が刻まれていれば決定的なのだが、岩の表面に文字などは何も見当たらなかった。

地区道から白岩公園に向かうときはこのような見え方になる。


今でこそ周囲が藪化してしまったので目立ちづらいがかつてはもう少し遠くから見えていた筈だ。注意して眺めていれば常盤用水路を横切る辺りから木々を通して視認できる。この岩にも何か勝手呼称を与えておきたい。
その形状から「二ツ岩」とか…あまりにもベタかな…

常盤用水路のところへ停めていた自転車の元へ戻った。


周知の通り手揉みポンプと火挟みを携行していたので、再び自転車のステムに取り付けてガムテープで留める作業が要った。結局、調査と言っても殆ど気休め程度にしかならなかった。
まあ、それでもいい。多分ダメだろうなと思って実際ダメだったわけで、もし必要なら次回もっと「強力な手段」を援用できる。その時が至れば小井戸だけでなく上池・下池も夾雑物を全部取り除いて清掃と現状復帰を兼ねた調査を行えばいい。
ただし、それを私一人単独で行う積もりは今のところない。白岩公園は調べるに値する興味深い踏査対象だが、私有地でありかつ市民が共有する公園だ。私および読者の知的好奇心を満たすためだけに独自で現状を大幅に変えてしまう調査は行うべきではないと考えている。落ち葉や木の枝が溜まっている現状に年月の経過を感じ価値を見いだす観察者もあるだろう。私が園内の樹木の伐採一つとっても慎重なスタンスを取っている理由である。
もっとも現に既存の構造物を破壊へ至らしめる種の竹や雑木について適宜伐採されることに異論はない。今回の踏査でも小井戸から先は一定範囲が伐採されていたが、これによって接近が容易になり今まで分からなかった石段が見つかるなどメリットの方が遙かに大きい。

伐採に従事されたのは山岳会の方々であったことは既に述べた。この12月に山岳会主催で霜降山の縦走と共に白岩公園を訪れるイベントが計画されている。私はまだこの方々と直接の接触はないが、安全に山野を歩けるよう標識を整備し、かつて親しまれていた筈の白岩公園の存在を市民に再度広める主旨に賛同し参加を予定している。[1]そこで有用な繋がりをもち情報交換できればと思う。

去年の3月に始まり、当時は一部のマニア向けだった白岩公園が昭和初期・中期のように市民に親しまれる存在へ返り咲くときが近いのを感じる。その折りには当サイトの一連の時系列記事から個別記事までもう少し整理し日の当たるところへ引きだそうかと思っている。
現状あまりにも乱雑だよね…初回踏査からの流れを書籍化したら面白いかなぁ…

出典および編集追記:

1.「イベント情報」NPO法人 霜降会の12月7日(日)開催分。
集合場所や時間などは例えば Facebook のタイムライン情報など。(要ログイン)
なお、この記事を作成している現時点ではまだ上記イベント情報に詳細が書かれておらず完全に一般向けかどうか分からないのでここでの案内は差し控えています。詳しくは必要に応じ個別にお問い合わせ下さい。

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