善和児童公園【2】

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(「善和児童公園【1】」の続き)

ここまで苦労してやって来たのだ。万難を排して接近したい。
まずはズームで先を窺った。

ブランコは2連で4基設置されていた。
2基と思っていたので自分でも意外だった
現地踏査した時刻は既に午後5時を回っていたので、光量不足でピントが甘くなってしまうのは否めない。

昔から大好きだったブランコ…
幼少期、この公園で一番長く乗っていたブランコ…
変わり果てた姿を嘆く気持ちはまったく起きなかった。
笹藪に取り囲まれ、誰からも顧みられることない状況にありながら当時のままの姿を見せてくれたことが嬉しかった。
まだ遺っていてくれていたんだ…
野生動物ですら辟易してまず近づかないであろう笹藪の中を泳ぐように進んだ。

錆び付きや傷みが激しいが、さすがは金物だ。まだチェーンの外れなどはみられなかった。


フック部分も健在だった。
チェーンも一ヶ所も切れておらず、完全に繋がっていて正常に動いた。もしかすると乗れるかも知れない…と思ったくらいだ。


残念ながら座板は木製だったせいか朽ちて無くなってしまっていた。


公園へ遊びに来たとき、真っ先に腰を下ろしたのがこのブランコだった。
鉄棒では休めない。滑り台は休むことはできるが一人が天辺に登ればもう定員だ。だけどブランコは3〜4人で公園へ行っても皆が座ることができて、ゆらゆらと前後へ身体を振って非日常的な体験を味わうことのできる最適な遊具だった。

さて、そろそろこの辺で私とこの廃公園との関わりを熱く濃く語ってみようと思う。

下に示すのは、私たちが遊んでいた頃のこの公園の平面図である。
地図を元に描き込んだので上が北であり、善和交差点はこの地図の南側になる。


廃モノの踏査レポートを離れて、暫くは上のイラストを元に語るので、この地図を別ウィンドウで表示させておいた方が分かりやすいかも知れない。
こちらをクリックすると上のイラスト地図が別ウィンドウで開きます

以下の内容は、幼少期だった自分が証人として語っている。昔の話で記憶違いがあるかも知れないので、自分の中でも特に確実性の高いものに限定している。

=== 40年近く昔へタイムスリップ... ===

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物心ついて私が従兄弟の住む善和へ遊びに行くようになった当時から、この公園は存在していた。つい最近確認したところ、公園や遊具は善和地区に帰属するものだという。地区に公園は他に一つもないので、公園を造って欲しいという要請があったのかも知れないが、経緯は分からない。
昭和期の子どもの遊び場は専ら屋外である。とりわけ今も善和は今も野山が近い自然の環境にあるので、外へ出れば遊びをクリエイトできる題材は無限にあった。私たちはその中に身を置いて殆どイタズラや悪さに近いものも含めて野山に遊び回った。

そのため遊園地へ遊びに行った回数は、私が従兄弟の家へ泊まりに行った回数とは一致しない。恐らくその半分以下だろう。遊具がなくても家の周りで遊ぶ方法はいくらでも知っていたからだ。
しかし従兄弟の家からそれほど遠くはなく、集落に一軒あるお店へお菓子を買いに行けば比較的公園までは近かった。
善和交差点の角にかつて個人商店があった…国道拡幅にかかって今は存在しない
それでお小遣いを持ってお菓子を買いに行き、そのまま公園に寄って遊ぶというパターンが多かった。

公園は現在の消防器具庫がある裏手から伸びる細い道を通って行った。周囲はクローバーなどの下草が伸びる野原で、人が通るところだけ地面が露出する典型的なシングルトラックの小道だった。
この公園の入口近くで山から出る湧き水の流れる部分があり、ここに長さ1mくらいのコンクリート柱を3本横に並べた形の簡素な橋があった。
地図で灰色の長方形として描かれている部分…まだ確認できていない

広場は山際を平らに削っただけで、西側が剥きだしの斜面になっていた。遊具は滑り台と鉄棒とブランコの3種だけで、ベンチや水飲み場は最初からなかった。
当時はまだ水道が引かれておらず井戸水を使っていた
これほどの広さがあるので、子どもが集まればソフトやろくむしをするには好適な広さだった。しかし幼少期にこの公園へ遊びに行っていた頃から既に集落には同年代の子どもが殆ど居なかった。野球をするほど人数が居ないし、また私自身もそういう遊びを忌避していたので公園でボール遊びをしたことはない。
いつこの公園に行っても他に誰かが遊んでいるのを観たことがなく、利用者はほぼ完全に私たちだけだった。当時からこの公園を”自分たちの貸し切りだ”と認識していた。

従兄弟と遊ぶのを目的に来ていたので、私が一人でこの公園へ行くことはなかった。一番多いのが私と従兄弟の2人で、お盆や正月など家族が集まれば兄貴と3人の場合もあった。
少人数なので、遊びと言っても滑り台に登って遠くを眺めたり、ブランコを漕いで靴を投げる、飛び降りる…などしか出来なかった。

しかし子どもの興味は何処にでも向くものである。
マップでも示されているように、この公園の南東部に小さな土の斜面から常時山から湧き水が流れ出ているところがあった。そのままだと公園内が水浸しになるからか、山際に沿って溝が切られていて湧き水はそこを流れるようになっていた。
湧き水の出る斜面は粘性土で、沢の部分を歩いて濡れた靴で不用意に歩くと物凄くよく滑った。そんな場所を運動靴で歩けば当然こけ易いのだが、スリルを求めて私たちは敢えて滑る斜面に取り付いて頂上まで目指す探検ごっこをして遊んだ。
子どものことだから何度もやっていれば失敗する。須く足を取られて尻餅をつき、泥まみれの斜面を一番下まで滑り落ちた。もっともそうなると分かっていながら登っているので、転倒して痛い思いをすることはあってもそんなのは遊びの範疇であった。

元から子どもというのは泥遊びを好む。転倒して服に泥がついたなんてのは、むしろ更に過激な遊びに向かう良い踏ん切りになった。泥で汚せば叱られるのは分かっていたが、少し汚れるも泥まみれも一緒と思っていたからだ。
こうして滑る土斜面の探検は少しずつ泥遊びに移行した。沢を流れた水が溜まる部分に靴を突っ込み足先でこね回した。泥と水が混じってとろとろになり、傍目にはコーヒー牛乳を連想させた。
瓶入りでしか売られていなかったコーヒー牛乳が大好きだった

泥で汚れてくると踏ん切りがついてきて、私たちは更に過激な泥遊びを求め始めた。手足が汚れるのにわざわざ四つ這いになって斜面を登り、何度もこけてツルツルに滑る泥の斜面を活用して滑り台代わりにして遊んだ。もちろん座板を敷いて滑るなどそんな上品なことはせず、ズボンそのままで滑った。しまいにはペンギンのように腹ばいになり、頭を下にして泥の斜面を滑った。
もう全身泥だらけの泥まみれ。この”泥まみれ”が訛ったのか私たちは「まべべ」と言い合っていた。[1]
なおも飽き足りず、私たちは斜面の一番下で水が溜まって泥も充分過ぎるほど捏ねくり回された中でわざとこけたり倒れたりして泥の洗礼を楽しんだ。全く理不尽でもあるのだが、まだ服の汚れ方が足りなければ、お前もこけろよとばかりにわざと足を引っかけて泥の中に転倒させたり突き飛ばしたりして楽しんでいた。
中学生のとき従兄弟と当時の思い出話を収録したカセットテープが遺されている

最初にこの遊びをやったときは滑り台代わりにお尻で滑っただけだったと思う。服はそれほどでもなかったがズボンが致命的に汚れていて、親が迎えに来たとき当然ながら叱られた。そのままでは車が汚れるので、後部座席にビニルシートを敷いてその上に座らされ家まで帰ったのを覚えている。

しかし私の記憶する限りこの「まべべごっこ」は少なくとも2度はやった。そして2回目のときにペンギンの腹滑りまでやって全身が泥だらけになった。
さすがに汚れ方が泥遊びの領域を逸脱していて、子供心にもこのままでは家に帰れないと思った。夏の暑い時期だったので、国道の向かい側にある善和川に入って泳ぐついでに服に着いた泥を洗い流した覚えがある。流れの速いところでは足が底に届かないほどの水量があった。
上のマップの■印で示されたあたりだった

小学校中学年頃が公園遊びの最盛期だった。従兄弟の家には中学時代までは割と頻繁に遊びに行っていたが、遊びの舞台は公園ではなく家の近辺か従兄弟の部屋になっていた。そして高校生になる頃には遊びに行くこと自体も殆どなくなっていた。

大学生や社会人時代は全く公園のことは頭になかったし、野山へ引っ越して数年暮らしている間も家族の間で話題に上ったことは数えるほどしかない。
デジカメで記録を遺すことの重要性に気づいたのは私が野山を後にする半年くらい前のことだったし、自然へ還っていく想い出の公園を記録に遺すべきだと気づくまで更に数年を要したのである。

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何十年も経った今では自分自身の記憶とて確証はもてない。
元から公園内にありながら見落とされていたものがないか気になった。

あの滑り台の上に登れば公園全体を見渡せるだろう。
しかし全体錆だらけの滑り台がどれほど今も強度を保っているか分からない。


雑草をかき分けて撮影。滑り台の一番下の部分である。


数十年も昔、私や兄貴、従兄弟のズボンは幾度となくこの鉄製パイプを磨いていたはずだ。


この上にお尻を載せる勇気はなかった。
パイプは幾本も外れかかっていて、当時の数倍ある私の体重を支えきれるとは思えなかったからだ。

当時塗られたペンキが部分的に遺っていた。
かつては全体がこの水色で覆われていた。しかし当時からペンキがひび割れ始めていて、不用意に触ると破片が手に刺さって痛い思いをした。


もし出来ることなら、もう一度この滑り台の上に登って周囲を眺めたかった。

それは叶わないだろう…酷く錆び付いた部材を見る限り、子どもでさえもたないかも知れない。
梯子部分はお立ち台の接続部分がぐらぐらして今にも外れそうだったからだ。


梯子自体も殆どが錆となって地面に還っていた。
片手で簡単に動くし、ステップも痩せ細っていた。


一番下のステップは落ちてしまっている。
遺憾ながらこの件については心当たりがある。犯人は私だ。一昨年にここを訪れたとき、足を掛けて登ろうとして落としてしまったのだ。


健全なときの姿を保ったまま藪の中に屹立しているだけでも幸運だったのだ。もしかすると鋼管の根元部分が腐食していて、私が体重を載せることによって梯子どころではなく全体が倒壊してしまうかも知れなかった。

最初に進攻した場所から動画撮影してみた。
画面が動くので写真では分かりづらい藪に埋もれた遊具がいくらか見えやすいと思う。

[再生時間: 1分3秒]


何もしなければ、遊具たちは笹藪に身を隠したまま最終的に土へ還ってしまうだろう。
それとも土地の有効利用などを根拠に撤去され更地になるのだろうか…


高い場所から見下ろせば、もし何か見落としたものがあれば気づけるかも知れない。
鉄塔のある東側からこの公園の上段に接近してみた。


一段低い場所が公園のグラウンド部分である。
笹藪だけではなく結構な高さの木まで生えている。かつてはきれいに草取りされ、真砂土や粘土性の土が露出していたなど、誰が信じるだろうか。


やや公園の話からは離れるが、善和のこの地区には住民の集会所がない。地区の集まりがあるときは善和八幡宮を根拠地にしているという異常な事態になっている。昔からそうだったらしい。
何年も前から指摘されていながら集会所を造る話がまとまらないという

この先もし集会所を造る運びになれば集落の中心に近い場所になるはずで、元から集落の持ち物であったこの公園の敷地が候補地となる可能性が高い。

私個人としては幼少期にお世話になった公園ではあるが、今しかと写真を遺したし、自分の脳裏にも当時の映像や想い出が記録されている。だから今やここの住民ではない私がこの廃公園をどうするかについて何も言わない。土地の有効利用という話から撤去され新たに集会所ができるなら便利になるだろうし、どこかの事業所に転売されるもよし、このまま放置されるも善しだ。

現在、国道490号は善和交差点まで善和川の付け替えを伴う国道の線形改良工事が進んでいる。先々では白石交差点からここまで4車線化される計画になっており、人や車の流れが変われば善和を生活拠点として選ぶ人が増え始めるかも知れない。
ただしそれは私の目の色が黒い間に実現されるとは思えない
その折りに公園が撤去されて新しい何かに生まれ変わるなら、それも世代交代の定めと思うのであった。

貴重な想い出をありがとう…
いつまでも忘れないよ。

出典および編集追記:

1. 最近、この台詞がまったくの思いつきから生まれたのではなく、当時視ていた「トムとジェリー」のある回でトムが歌っていた台詞の模倣だったことが分かった。

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