西見峠【2】

峠インデックスに戻る


(「西見峠【1】」の続き)

どうしてここまで昔の様子を鮮明に覚えていられたか…
全くプライベートな内容で西見峠ともかけ離れるので淡々と書いておこうと思う。
幼少時代、遊びに行っていた親戚が厚狭にあった。
幼少期は元から内向的で、近所の子どもとは殆ど遊ばない自分だったが、2つある親戚の家にはよく遊びに行っていた。従兄弟たちと遊ぶのが好きというよりも車であちこち連れて行ってもらい、普段は目にしない景色を眺めるのが好きだったようだ。
厚狭には母方の親戚があって、お盆と正月には必ず親父の運転する車で訪問していた。宇部から厚狭へ行くなら小野田を経由した方が近道なのだが、盆や正月では先に親父の親元へ寄るので国道2号を通るのが常だった。

親元から厚狭へ向かうとき、厚東と船木の境にある吉見峠、船木と厚狭の境にある西見峠という2つの峠を越える。地図が好きで、車でちょっと遠方に出掛ければ窓の外の景色に興味を示す子どもだったから、いずれの峠も名前を知っていた。
当時から景観の利かなかった吉見峠はあまり印象に残っていないものの、通った回数がより少ないにもかかわらず西見峠の景観は子どもの私の記憶に焼き付いていた。

越えるべき峠の存在を予感してか、逢坂の集落を出る前から国道は早めの登り坂にかかる。しかし完全に登り詰める前に、聳え立つ山で進路を阻まれる。
そこで道は高度を上げることを諦め、その先に隧道のポータルが現れる…というのが全国の道路構造としてよく見られるパターンだろう。

しかし西見峠は隧道という形を取らなかった。
そこには普通車が離合可能な幅でほぼ垂直に切り取られた崖があった。それも私が物心つく遥か昔から。
モータリゼーションが加速し、四輪の車両通行が重視された時代背景からか、当時は歩道などなく、崖も車が通れる幅だけ切り取ったといわんばかりの状態だった。削り取られた岩は剥き出しで、もしかすると初期は落石防止柵すらなかったかも知れない。

振り返って撮影。
感じとしては、宇部側車線の側帯が引かれている部分まで崖が迫っていたと思う。


歩道を歩いて宇部側に向かう。
一番狭くて険しかった部分も今は充分に幅の広い歩道に変わり、レンガの花壇も設置されている。
しかし何故か花壇の内側に土が盛られずコンクリート詰めになっている


コンクリート吹き付けの斜面に何やらトンネルの坑口のようなものが見えている。


斜面に埋め込まれた祠だ。恐らく昔からこの場所にあったのかも知れない。もっともかつては昼間でも暗い堀割だったので、幼少時代には全く気づかなかった。


失礼してちょっと中を覗き込んだ。
コンクリートとレンガで拵えた雛壇の奥に一体の石仏があり、花も生けてある。


雨の日など、手を合わせに来る人が濡れないようにという配慮だろうか…折りたたみ傘が置いてあり、中を掃除する簡単な箒まで備わっていた。
私を含めて殆どの人が知らないだけで、昔からのものを守り、引き継ぎ、きちんと管理し伝えていく人の存在があるということだ。

西見峠は、山陽小野田市と宇部市の市境になっている。
かつては船木と厚狭の町境だった。


反対側。


そして西見峠を案内する国土交通省による標示板。
読み方から標高まで記載されていて、ここを通る人々のランドマーク的役割を果たしている。
県道へ降格になる以前に設置された標示板である


反対側、宇部から撮影。
峠の標識は建設省時代から引き継いだものだが、今もよく管理されている。


市境標識の脇にアルミ梯子が掛かっており、登りたい衝動に駆られた。


しかし上がり口はチェーンが掛かっており車も結構通るので自重しておいた。

歩道側から振り返って撮影。
西側の崖が際だっている。


厚狭側から走れば、宇部入りして見える峠越えの映像はこんな感じだ。
西見峠までほぼ直線的に登ってきている。この眺めは昔からほぼ同じである。
交差点改良のため国道2号分岐点が若干変形して一部は廃道化している


西見峠からは若干離れるが、県道に格下げになり移動した国道2号についても軽く触れておこう。
以下の部分は将来的に厚狭・埴生バイパスの記事を書いた折には移動するかも知れない

以下の5枚は、3年前の初夏に自転車で厚狭・埴生バイパスを走ったときのものである。
逢坂(あいさか)の交差点を下関側から撮影している。左から割り込んでくる県道がかつての国道2号だ。


逆から撮影。
現在はここが厚狭・埴生バイパスの起点になっている。


”見通し確保のため交差点はなるべく直角に近い形に整える”方針で、西見峠に向かうにも直角に右折するよう道路改良された。この結果、かつて山の斜面に沿って直進していた旧国道2号の線形の一部が廃道化されて遺っている。


ちなみに厚狭・埴生バイパスは他の諸々のバイパス同様、元に何もなかった場所へ人工的に作った”人間が刻んだ道”である。したがって峠などという概念はない。
市境標識はあるが、それは逢坂交差点からきつい登りを進んだ途中に存在する。

宇部市入りする標識。
前方に逢坂交差点の青看が見えている。


山陽小野田市入りの標識。
この辺りはすべて山を大きく削って造られており、高台に取り残された市道が跨道橋で通じている。


この跨道橋だが…
前の記事で掲載したこの道から続いている。


今となっては気づく術もないのだが、この市境より若干宇部寄りの厚狭・埴生バイパスの下に大きなボックスカルバートがある。確か沢を埋めるに先立って水の道を確保するためだったと思う。
厚狭・埴生バイパスの未着工区間が殆どだった初期の頃、この大きなボックスカルバートを施工する現場ハウスがあの看板のところから入った先にあったのだ。
ボックスカルバートは極めて早期に竣工したものの、厚狭・埴生バイパスの逢坂杣尻(そまじり)間は全通する最後まで未成区間として残っていた。西見峠へ向かう今の県道から見えていたものだった。
用地買収で最後まで揉めていたらしい
平成時代に入ってからのことなのに、これとて今となっては遙か昔の想い出のように感じられる。

逢坂交差点を頂点として、西見峠に向かう県道と厚狭・埴生バイパスに挟まれた部分は、かつては大きな沢だった。今は広範囲に盛土され昔の面影はない。この記事を書く現時点ではまだこの広大な敷地に何が出来るのか分かっていないが、少しずつ幼少期の景色が書き換えられていくのは確かなようだ。
標高たったの57m。
嶮岨な山に囲まれ、千メートルクラスの峠がごろごろしている中部地方の人々にとっては、西見峠という名を与えられていようがこんなの峠のうちにも入らないと鼻で笑われてしまいそうだ。
しかし標高はともかく、旧国道2号時代はもちろん恐らく山陽街道の頃から峠を越えて行き交う人々には充分な知名度があった筈だ。

名前もその景観に大いに呼応している。
西が見える峠。遥か昔、逢坂から越えてきた人々は、現在の掘割の恩恵など受けるべくもなく、一番高いところまで歩いて登り詰めていた筈だ。今の旧国道よりもずっとずっと「西が開けて見える」峠だったことだろう。

暗闇にも等しい掘り割りを通過すると、突然、対照的なほど日の光を浴びて解放感のある空間へ放り出された。道はゆったりとしたカーブを描き、その先には厚狭の街並みが見えていた…
ああ、厚狭に来たんだ…
いつも子ども心ながらそう思える峠だった。

「厚狭の叔母ちゃん」は、いつも子どもの私が来るのを喜んでくれた。昔の田舎の叔母ちゃんというものは一体にそういうものだったが、大人の中で育った私に対しては特にそうだった。帰るときにいつも聞く叔母ちゃんの「またおいでね」の言葉が寂しげだった。
「よう来たね」の声を聞きに西見峠を越え、「またおいでね」の声をお土産に再び西見峠を越えて帰っていく…
今思えば西見峠は、厚狭の叔母ちゃんが住む町と、僕らが暮らす町とを繋ぐ扉のような存在だった。

叔母ちゃんの声を聞くことはもう二度とない。それどころか家も失われた今、もう厚狭という地には何の繋がりもない。しかしそこで紡いだ想い出や得られた体験は、私の後世のために繋いで行かなければならない。

---

自分の脳裏の映像を記録に遺せないのが残念だが、昔はこうだった…という記述と現在の映像を今、しかとネットの世界へ保存した。
撮影を終えた後、私は現実世界の自身へと戻り、この日の踏査地である新山口変電所に向かったのだった。

ホームに戻る