祈祷台池

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記事作成日:2015/1/20
祈祷台(きとうだい)池は野中1丁目にあって夫婦池に次いで常盤池に近い灌漑用溜め池である。
写真は堰堤東寄りからの撮影。


余水吐の位置を中心にポイントした地図を示す。


地図でも分かるように、祈祷台池は角の欠けた平行四辺形をしている。かつては常盤台病院のあった敷地部分まで溜め池の先端部であった。周囲をほぼ完全に道路の堰堤や家屋のブロック塀で囲まれていて自然な土手の形の汀は殆ど存在しない。
堰堤の上を市道梶返野中線が通じている。この道は梶返東西道路として古くから知られている。[1]

祈祷台池は灌漑用水を貯留する常盤池に対する補助池のうち最大のものである。同様の補助池は昭和中期頃まで現在の常盤中学校北側付近を始め数ヶ所あったとされる。明治期から存在していて恐らく沢を堰き止める形で造られた人工の溜め池である。水位の下がる冬場は昭和中期頃まで子どもたちによる格好のスケートリンクとなっていた。[2]
元から浅い溜め池のため貯水量は少なく、昭和初期の大旱魃では完全に干上がっている。現在でも水位が下がれば中央部を残して干潟のようになる。ただしスケートリンクができるほど全面が氷結したことは近年恐らくない。

堰堤上から5分割で撮影している。
池の対岸に見える白い建物の常盤台病院は2014年に取り壊され存在しない[3]


祈祷台池は小さな溜め池なので灌漑用水需要期とはあまり関係なく水位が大きく変動する。流れ込む河川はなく北側に微細な雨水管接続がみられる程度である。

樋門は堰堤の中央に存在する。樋門の操作や清掃のときガードレールで塞がっていては作業しづらいせいか、かつてはこのスパンだけは取り外し可能な短いガードレールに置き換えられていた。
溜め池関連の子どもの事故が多いせいか、2014年に市道に沿ってネットフェンスが設置された。


樋門は建築ブロックで囲まれ、降りていく階段がついていた。


市道を進み、堰堤の端まで移動する。ガードレールの切れ目から池の中へ降りていく道がついていた。
市道折れ点のガードレール切れ目部分には施錠されたフェンス門扉が設置され汀へ降りることはできなくなった。


多分進展はないと思うが、新しい知見が得られれば続編を書くことにしよう。
出典および編集追記:

1.「琴芝ガイドマップ」(琴芝まちづくりサークル)

2.「野中今昔物語」(参考資料)による。

3. 2014年1月より解体が始まり4月には更地になった。
《 個人的関わり 》
注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

堰堤の上を通る市道は梶返から常盤公園へ行くときの勾配が比較的緩く疲労度が少なくて済むので、自転車での第一選択経路となっている。このとき常に祈祷台池の水位を確認している。午後訪れると日射の加減が良く晴天だと常盤中学校の校舎が青空に映えるので、既に撮影済みながら再度写真撮影することもある。
《 祈祷台について 》
項目記述日:2017/1/18
溜め池の名前となっている祈祷台(きとうだい)はこの溜め池がある場所の小字である。書籍によっては簡略字体を用いず祈禱台と書かれることもある。現在は野中1丁目となっている。
祈祷台の「祈祷」とは明らかに人の所作であり、地名の由来になることは通常稀である。一説として「人々が祈祷を行った台地」に由来するとなれば、祈祷とは雨乞いであると考えられる。

稲作を生業とする時代から長大な河川に乏しい宇部はしばしば旱魃に悩まされた。当時は神に祈りを捧げ雨乞いをする以外なかった。千把焚きという習慣があって空を焦がすほどの稲藁千束を燃やせば雨が降ると信じられていた。この風習は昭和期まで市内随所で行われていたことが確認されており、特に昭和初期の大旱魃では恩田山の端(現在の陸上競技場がある辺り)で過去最大規模の千把焚きが行われている。祈祷台は恩田山からそれほど離れていないので、この小字が雨乞いや千波焚きの祈祷に由来する可能性は高い。

最近入手した資料[2]によると、沖宇部村野中小村に下紀藤田(しもきとうだ)という小名の記載が確認された。更に防長風土注進案には水面六反三畝をもつ紀藤田堤として収録されている。[3]このことより祈祷台は元々は紀藤田という名田由来の地名であり、後年になって雨乞いを頻繁に行うようになってからその風習に合わせる形で明治期以後に祈祷台に書き換えられたのではないかと考えている。「きとうだ」と「きとうだい」は音読レベルで類似しており、しかも現在常盤台と呼ばれる台地の端にあたるという地勢面でも祈祷台という地名に変わる素地があったと言える。
紀藤姓は市内でも地下(じげ)姓の一つと考えられており、有名どころでは宇部市第3・6代市長である紀藤閑之介が知られる。祈祷台池のある紀藤田との直接の関連性を断定するにはまだ十分ではないが、市内には各地に紀藤家由来の開拓田が存在していた。

祈祷台という地名は市内の他の何処にも知られていない。そして現行の地図にも祈祷台池の名称は記載されているものの、今のところ祈祷台という地名を明示した築堤記念碑などは確認できていない。この意味で祈祷台池の存在のみがこの地名を伝える最後の砦である。仮に祈祷台池が神田池のように埋め潰され新興住宅地などに転用されたなら、祈祷台という地名は完全に歴史の闇へ送り込まれることになるだろう。
初回に作成した祈祷台池の記事。
派生記事: 祈祷台池【旧版】
出典および編集追記:

1. 近年、押し入れから写真が見つかったのでデジカメ接写した画像を収録した。この他に教室の黒板などを撮影した写真が2ショット存在する。(2017/1/18)

2.「山口県地名明細書」(山口県文書館専門研究員 田村哲夫著)p.135

3.「防長風土注進案」p.453

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