市道平原浜田線・横話【1】

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現地踏査日:2013/8/27
記事公開日:2013/9/4
ここでは、市道平原浜田線に関する派生的項目をまとめている。
《 新設道路標 》
市道平原浜田線の起点、藤山歩道橋の橋脚のすぐ横に他では観られない立派な石碑が据えられている。


平原浜田・平原中山と併記された下に新設道路標と楷書体で陰刻されている。
「道」の字のしんにょうが二つ点になっている…旧字体なのは分かるとして妙に点が離れている気がする

新設という名の通り、この場所から北に向かう道が新しく造られた経緯を記録する標識柱とも言える。

市道の起点部分に立って石碑の横を撮影している。
石碑の後ろに少しばかり見えかけているのが藤山小学校の校舎だ。
以下も同様だが往来する車が極めて多く一連の写真撮影には非常に苦労した


金幾ら也…の文字が見える。
この道路を造るために費やされた金額が記載されているようだ。


石碑は結構大きく人の背丈ほどもある。ましてゆっくりカメラを構えていられる余裕がない場所なので、取りあえず全体の文字が読み取れるように2枚に分割して撮影した。

上半分。


下側。


テキストに変換して記載しよう。
金五十二万二千十五円 市縣補助
金五十七万九千三百八十五円 寄付者 秋富久太郎
この記録からも新設された道路が一個人の寄付と市・県の補助によるものだったことが分かる。
ここに現れる個人名・秋富久太郎とは…

Wikipediaには項目がないが、一般検索にかけると藤山地区に住んでいた地域の有力者で、同地区の開作尽力とか香川学園の学校運営を支援などというページがヒットする。[1]
道路関連の記述について書籍をあたると、この道路を造るにあたって私有地の多くを提供し、市と関連地主の協力を得て道路を拡幅した[2]とされる。

道路標正面の上部に「平原浜田」と「平原中山」が併記されているのは、双方の工事が時期をずらして施工されたためである。即ち昭和15年5月に平原浜田間の1,440mを整備し、その後昭和24年3月に後述する由利野峠から中山までの702mを完成し、この道路標が設置された。[2]

裏側の面には道路標を設置した年月が陰刻されていたのだが、太陽の真反対になっていたせいか撮影したものの文字が読み取れなかった。[5]
以下の2枚は良好な写真が撮れた折りに差し替えを予定している



この道の誕生以前から藤山地区より浜田を経由して船木方面へ往来する古道があったらしく、それは現在の市道上条金山線の途中にある西の宮八幡宮から藤山小学校の裏の畑道を通って由利野峠に向かっていたとされる。[3]
《 藤山歩道橋付近の交通状況 》
由緒正しきこの道からいきなり現実世界に引き戻されてしまうのだが、秋富久太郎氏の尽力によるこの市道の拡幅も、モータリゼーションの著しい現代にあっては尚も収容力として充分とは言えなくなってしまった。

歩道橋の横に佇むと、まったく呆れるほどに交通量が多いことを思い知らされる。
例えば藤山交差点からこの旧国道190号である市道藤曲厚東川線を走ってきたとして、本線は直進でも殆ど半数近くの車がここで右折して市道平原浜田線に向かう。極端な話、自分の前を3台以上の車が走っていたなら「少なくとも1台は必ずこの市道へ右折する」に賭けてもいい。

それほどの交通量なので、逆方向から本線に出て来る車も当然多い。道路幅がそう広くもなく歩道が横切っているので、少なからず事故が多いと予想される。こういう場所の出入りはそれなりの注意が要る。

下の写真は、起点を振り返って撮影したショットである。


本線両側の動向が見やすいように正面にミラーが設置されているが、もしこちらから本線へ出る場合は双方からの車よりもむしろ歩道を往来する自転車に注意する必要がある。
夕刻時は特に混み合う。特に目立つのは、本線からこの市道へ右折で入ってくる車との交錯だ。双方同時には曲がれないので、自分より先に右左折で入ってきそうな車があるなら、停止線前で待機しなければならない。
ただし、相手が先にこちらを退出させようと本線で待機している場合は、むしろ早く退出しなければお互い迷ってしまう。この辺りは相手の車の動向と言うか空気を読む必要がある微妙なところだ。

自転車でここを通る場合、こちらを認識していないうちは車の傍をすり抜けるのは厳禁である。たとえ車の後ろでも本線からの車を入れてやろうと自転車に気付かずいきなりバックしてくる危険がある。
歩道橋は車との交錯を避けるのに大いに貢献しているとは言え、橋脚や階段部分が歩車道の視認性を悪くしているのも事実である。ここに信号機を設置すると夕刻時の渋滞が余計に深刻化するので、現状のまま双方が注意し合って通行する以外ないだろう。
《 平原接合井までの管敷設路 》
平原配水槽付近から市道を斜めに分岐する道には工業用水管が埋設されている。
右下に写っている鋳鉄蓋は工業用水ではなく汚水桝の蓋


分岐の入口には、この道が公道ではなく企業局の管理する通路であることが明記されている。


以前はこんなタイプの表示板だった。[2009/12/6]


この進入路の先にも同様の標示板が立っている。詳細な情報は、平原接合井の記事を作成したときに記述する。
収録内容が増えればリンクのみ残してこの項目を平原接合井に移動する予定
《 埋め立て中の神田池 》
民家のブロックが僅かに切れたところに溜め池埋め立て中を示す工事看板が立っていた。


排水路らしきパイプがあり、その先には埋め立てに使用している真砂土の山が見えた。


地図では確かにここに溜め池が表示されている。しかしこの看板を見るまで溜め池の存在にまったく気付いていなかった。

ちょっと自転車を停めて偵察してくることに。


注意喚起する立て札があったが、溜め池の姿はとうに失われていた。
水は完全に抜かれていて奥から順次埋め立てているらしかった。


この近辺には用水を利用しそうな田畑が見当たらない。すべて住宅地やアパートに置き換わっており、用途廃止することになったのだろうか…


相当量の残土が搬入されている。少なくとも見えている範囲は地山ではなく外部から運んだものだろう。
何処に搬入経路があるかさえ見当もつかなかった。


名前が分からないこの溜め池は市道の坂道途中にある。車なら僅かなこの隙間など気付かないだろうし、自転車で峠越えしていた高校生時代は坂を登るのに一生懸命で、溜め池に目を遣る余裕などなかっただろう。

余水吐と思われる排水路は意外に小さい。
コンクリートで巻かれたパイプの径も小さく、この程度で済むならそれほど大きな溜め池ではなかったのだろうか…


この溜め池の余水吐にあたる位置を中心にポイントした地図である。


峠を越えた先に現れる開作堤とは違い、この溜め池の名称は地図に明記されていない。しかしかつて溜め池だったときの面積は開作堤をはるかに上回っている。
航空映像モードに切り替えてみるとより明瞭になる

この溜め池の名称が判明し、何か特徴的な情報があれば新規記事を作成するかも知れない。[6]しかし私自身何の知見もなく、現在の状態を記録するだけに終わるだろう。
なくなっていく溜め池を私が掌握していないだけで、使われなくなり残せば草刈りなどの管理が大変という理由で姿を消した溜め池は市内でも数多く存在する。次にここを訪れたときには完全に埋め立てられた後に整地され、分譲住宅地になっているかも知れない。
【 記事公開後の変化 】
記事作成日:2015/8/10
その後神田池は完全に埋め立てられ24区画から成る新興住宅地(サンシティー藤山タウン)に変わり既に半数近くが売約済みとなっている。神田池に関する遺構としては余水吐からの排水路に僅かばかり石積みが遺るのみとなっている。
《 意味不明な横断ペイント 》
市道の最高地点付近に以前から意味不明な横断ペイントがあり、気になっている。


まるで横断歩道のように道路を横切って白いラインが引かれている。しかし横断歩道特有のゼブラは引かれていない。


この横断用のペイントは、私が野山に暮らしていてパルセンターまでこの道を車で走っていた頃から存在していた。したがって10年近く前から引かれている筈だ。登下校する児童にここで道路の反対側へ移動するように促す意味なのだろうか…分からずちょっと気になっている。[4]
これほど掠れた状態で放置されているので、さほど重要度を持たないか現在では使われていないもののように思われる。
出典および編集追記:

1. Bing 検索による結果。

2.「なつかしい藤山」p.53

3.「”ふるさとの道”(山口県ふるさとづくり県民会議編)」

4. 市道浜中山線の終点から100m程度戻ったところに同じパターンのペイントが見られる。
そこでは単管バリケードが設置され、横断ペイント部分が通路の一部を形成しているので、歩行者横断用の仮ペイントではないかと思われる。
また、9/8に由利野峠を再訪して市道藤曲中山線の途中にも同様の白い帯を見つけている。

5.「昭和二十五年十一月建之」と陰刻されている。このことより[2]と併せてこの新設道路標が平原中山間の改修を行った後に設置されたことが分かる。

6. ゼンリン©地図により神田池であることが確認できた。また、小字絵図にも神田池の名称が記載されている。読みは「かんだ」という地元在住者からの報告があった。(要ログイン)
2014年1月中旬の段階で神田池は埋め立てが進んでおり、造成され住宅地になる予定である。

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