二反田堤

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記事作成日:2021/7/25
最終編集日:2021/7/27
情報この総括記事は内容が古くなった旧版をコピーして再構成されました。旧版は こちら を参照してください。旧版の編集追記は行わず将来的に削除します。

二反田(にたんだ)堤は、小串の東桃山寄りにある古い溜め池である。
写真は堰堤からの撮影。


二反田堤の余水吐を中心にポイントした地図である。


二反田堤は二反田池とも呼ばれる。流入する河川はなく、専ら小串台の湧水を貯留する灌漑用溜め池である。
《 概要 》
二反田堤は桃山中学校へ向かう道(市道桃山中学校線)の途中にあり、車でも容易に立ち寄れる。
堰堤と市道の交差部に二反田バス停がある。


堰堤の反対側から撮影。
県道琴芝際波線から来ることはできるが、経路が複雑な上に道幅がかなり狭い。


堰堤上を通る道は、市道桃山中学校線を横切った先も直線的に続いており、その角地に猿田彦大神の石碑が据えられている。このことから、小串台の南寄りを経由して堰堤上を通って桃山の高台や中山方面へ抜ける昔からの近道だったようである。

余水吐は市道寄りにあり、市道の幅を拡げたとき道路側に擁壁を築いて整備されている。
現在は樋門側で排水されるため、ここを余剰水が流れることは殆どない。


樋門は堰堤のほぼ中央にあって、取り出し口はゴミが入らないように金網の箱が被せられている。
関係者だけがバルブ操作できるようにハンドルは外されている。


堰堤に沿ってネットフェンスが設置されているため水際に近づくことは困難である。このせいか遊泳や釣りを禁止する立て札はないものの、釣りをする人の姿を見たことはない。

水位が下がると堰堤から数メートル離れた池の中に木杭の列がみられる。
用水の取り出し口周辺にゴミが流入するのを防ぐ網を固定するもので、堰堤近くの水深が浅いことが分かる。


湛水面積は広いものの水深は何処もかなり浅い。
2021年初頭の寒気にはうっすらと池全面に氷が張る現象がみられた。


二反田池で水際に接近できる場所は極めて少ない。堰堤周辺はネットフェンスが張り巡らされ、西側は私有地に接している。僅かに東側の地区道より藪を経て接近できる場所がある。


溜め池の北側は深い沢地になっていて、小串より中山方面へ抜ける道(現在は県道琴芝際波線)は、この沢地を大きく迂回していた。
平成期に入って斜面を10m以上盛土することにより直線化する道路改良工事が行われた。


この道路改良区間の真下は垂直壁になっている。近くにある山大医学部線の鉄塔メンテナンスで中国電力の作業員が通行する索道がある。夏場は藪に埋もれて通行困難である。
《 歴史 》
二反田堤に関する資料は少なく、正確な築堤年や築堤責任者が誰であるかは分かっていない。鵜ノ島開作の領域が西へ伸びていく過程で、灌漑用水を確保するために造られた補助池と推測される。

桃山中学校に向かう道(市道桃山中学校線)と堰堤の交差する場所に二反田堤の概要を記した標識柱がある。
平成12年5月に新川ふるさと運動により設置されたもので、この標識柱では築堤年を享保19年(1734年)としている。


しかしこの築堤年に対して疑義が差し挟まれ、実際はもう少し早かったのではないかと考えられる。[1]

これは地下上申絵図の小串村周辺を接写した画像である。
絵図にはこの写真の左端に「二たん田つ々ミ」と記載されており、溜め池として存在していたことが分かる。
出典: 地下上申絵図(山口県文書館所管)


東側にある「ウシロ山」は集落名で、いくつか描かれている○は当時存在した家を表している。現在でも後山は小字名として存在している。
二反田堤周辺の小字図を示す。


地下上申絵図とは江戸期に藩が各村の地勢や道、河川、土地利用などをつぶさに調べさせ上申させた資料で、小串村・宇部村・川上村などを包括する絵図に関しては享保19年に完成し藩へ上申されている。この絵図に二反田堤が記載されているなら、同年に築堤されたとは考え難い。

同様の問題として、小羽山地区にある蛇瀬池も地下上申絵図には記載がなく「じゃで田」と描かれているのみである。このことに呼応するように、蛇瀬池の築堤を享保17年(1732年)とする資料が最近知られた。地下上申絵図が享保19年に提出されていながら蛇瀬池が描かれていないのは、絵図の制作から提出までのタイムラグと考えられている。このことにより、二反田堤の築堤は少なくとも享保19年よりはかなり早かったのではないかと思われる。

天保12年(1841年)に藩から各宰判に実態調査が命じられ作成された防長風土注進案には、小串村・宇部村・川上村に当時存在した32ヶ所の堤が収録されているのだが、この中に二反田堤もしくは同堤と推定される溜め池は収録されていない。蟻ヶ坂堤、焼石堤の次に「後山堤迫 水面壹町三反」とあり、これは当時の蛇瀬堤(壹町五反)とほぼ同規模であることから、後山堤として上申されたのかも知れない。
《 個人的関わり 》
母が通っていた編み物教室(手編みではなく当時出回り始めた編み機)が二反田池近くにあり、幼稚園児か小学校低学年児について行ったことがある。二反田バス停で降りて歩いた筈だが、今となっては家の場所は分からない。個人的に溜め池のことはまったく記憶にないが母は二反田池のことを知っていた。

中学校の課外クラブで桃山中学校へ練習試合か先輩の試合の応援に行っている。このときも恐らくバスで行っている。近くを通っただけであって二反田池そのものは目にも留まっていなかっただろう。

手元にある二反田池を撮ったもっとも古い画像は2010年5月撮影のものである。生活拠点を西梶返アパートに構えて市内の道路や溜め池の写真を撮って回っていた頃のものであろう。
出典および編集追記:

1.「FBタイムライン|二反田堤ができたのは享保年間よりも早かったのでは
《 地名としての二反田について 》
二反田(にたんだ)という小字名は市内に複数箇所観測されている。小串村においては二反田池の位置に相当する字二反田堤と、その南側エリアの字二反田が存在する。
写真は市営バス路線時代のバス停サイン。


地域を問わずX反田という地名が至る所に存在する。反は尺貫法における面積の単位で、現在の10アール(10分の1ヘクタール、1,000m2)に近い値を示す。一般にはそれほどの広さを持つ共同開発された田に由来する。市内に観測されている地名としてもXの値として2の他に5や8が知られる。もっとも多いのはX=5に相当する五反田である。

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