請堤

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記事作成日:2016/11/28
最終編集日:2020/9/6
請堤(うけづつみ)[1]は、かつての大字藤曲字一の割(現在の岩鼻町5〜6)に存在していた灌漑用調整池である。
写真は堤があったと思われる場所。


元の堰堤より東を向いて撮影。
既に現地の改変が著しく、請堤があったことを示す遺構や石碑などは何も存在しない。


後述するように、請堤は昭和中期に完全に埋め潰され既に存在しない。上記の地図では余水吐のある堰堤部を底辺とする台形状に水路が通っているように見えるが、概ねかつての請堤の概形を示している。厚東川に沿って南下する排水経路は市の管理する岩鼻水路となっている。

堰堤部は市道厚東川東通り線市道平原厚東川線を連絡する地区道となっている。地図でも分かるように、地区道の両側が低い排水路となっていることから、土を盛って堰堤にしていた部分を拡げてそのまま通路に転用していることが分かる。

堰堤より北側を向いて撮影。
殆どが住宅地になっている。また、北側の端は岩鼻西児童公園と岩鼻自治会館に転用されている。


岩鼻西児童公園の入口横にみられる溝状領域。
敷地の下に石積みがみられる。この石積みは請堤がまだ存在していたときのものと考えられる。


以下の記述は、その殆どすべてを[2]に依っている。
《 成り立ち 》
請堤は藤山村の居能開作の灌漑用水を確保する目的で明治8年のこと、藤山村の秋富重太郎により設計された。中山川(旧汐差川)の水を浜田で堰き、松崎を通る導水路により送られ、途中には隧道がありかなりの難工事だったとされる。[3]ただしこの導水路自体は、戦後の道路拡幅などにより喪われている。岩鼻公園の北にある大迫池の余剰水を松崎方面へ取り出すための隧道が知られているが、この用水は先述の導水路へ流れ込んでいた。

請堤に溜められた用水は順次取り出され、居能開作の田を潤した後は居能開作の南の端、沖土手下十の割にあったダブと呼ばれる余剰水を溜める緩衝池を介して海へ排出された。面積の大きな請堤と一連のダブが降雨量の変動を緩和するため、日照りが続いても旱魃に悩まされることがなかったという。

田の作付面積が減少するにつれて灌漑用水需要も少なくなり、昭和中期に入る頃には葦などの湿地性植物が進入しかなり浅くなっていたようである。浅い場所は干上がり固くなっていたため長靴でも進入できたという話もある。[3]昭和49年頃には埋め立てられ、現在の岩鼻西児童公園や住宅地に変わっていった。

これは昭和30年代半ばに撮影された国土地理院による航空映像である。
請堤全体の様子が写っている。


それでも北側の頂点部分近くは埋立が始まっていたのか一部がグラウンドのように見えている。

昭和49年度版の地理院地図による請堤の様子。


住宅地のある東側に僅かばかり湿地状に遺っているだけで殆ど埋め潰されている。
出典および編集追記:

1. 受堤とも書かれていたようである。小字絵図の台として使われた地図にはそのように記載されている。

2.「なつかしい藤山」(田中信久)p.27, p62, p159

3.「FBページ|2016/11/28の投稿」の読者コメントによる。
《 個人的関わり 》
溜め池が存在していた時期にこの方面を訪れたことがなく溜め池の実体を見たことがない。学童期は宇部線の電車へ独りで乗ることもかなりあったが、線路からは見えないのかそこまで観察していなかったからか全く分からない。
これに対して字十の割にあった重蔵ダブは学童期に電車からも観察していた

請堤の存在自体は[2]により知っていたが、つい最近まで大迫池の下と勘違いしていた。書籍には請堤の跡を岩鼻公園にしたと記述されており、この公園を岩鼻西児童公園ではなく大迫池の下にある岩鼻児童公園と誤認していたためである。現在では岩鼻公園と言えば後年整備されサクラの名所ともなっている大迫にある公園を指す。

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