大迫池

溜め池インデックスに戻る

記事作成日:2017/2/8
情報大迫堤とは異なります。際波地区にある大迫堤については こちら を参照してください。

大迫池という名前の溜め池は市内にいくつか存在する。ここでは藤山校区に存在する大迫(おおさこ)池について記述する。
写真は堰堤からの撮影。奥に見えるのは文京台3丁目の住宅地である。


余水吐の位置をポイントした地図を示す。


上記の地図は等高線がなく分かりづらいが、大迫池そのものが沢地全部を湛水領域にするほどの大きさがある。即ち堰堤以外の三方は尾根で塞がれていて流入する河川は皆無である。現在は西側が高く岩鼻公園の中に国土地理院の三角点(標高43.9m)が存在する。東側は昭和中期以降に宅地開発され均されている。

堰堤はかなり高い。
下側を通常の石積みで拵えて上部はアースダムの如く土盛りにしている。


堰堤上から撮影。
すぐ下が岩鼻児童公園となっている。


この高い堰堤故に湛水面積がかなり広く、単一の溜め池としては藤山校区でもっとも大きい。築堤最初期から堰堤が高かったのかは調査を要する。後述する灌漑用水の汲み上げ貯留目的で後年堰堤を嵩上げした可能性もある。

溜め池の東側は駒ヶ迫住宅などでほぼ埋まっている。西側は岩鼻公園の一部となっており、途中まで整備されかけたまま放置されている遊歩道がある。これは過去に池を周遊する園路を造ろうとしたときの施工という。詳細は岩鼻公園の以下の派生記事を参照。
派生記事: 岩鼻公園|未成園路
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

堰堤へ上がる道はちょっと分かりづらい。岩鼻公園へ登っていく道の駐車場の後ろに堰堤へ向かう細い道が伸びている。


民家の横を通るコンクリート路を真っ直ぐ登る。


登ったところがT字路になっていて右側が堰堤である。


T字路を左に進む道もある。岩鼻公園へ通じるこの道はこもれびの小径と呼ばれている。
後述の地名の項目に掲載した案内板に書かれている…通る人はそれほど多くはない模様

堰堤から全体像を3分割で撮影している。


余水吐は堰堤の東の端にある。
土手道の先は平原墓地へ続いている。


現在は自然降雨のみが水源であるため、水の入れ替わりに乏しく池の透明度は極めて低い。現在では釣りをする人の姿も殆ど見ない。
《 成り立ち 》
栄ヶ迫の三段堤と並んで旧藤山村領域に存在する主要な溜め池である。三段堤には中堤に石碑があり築堤時期や築堤者も判明しているが、大迫池には築堤に関する記録が未だ調べられておらず現地にも記念碑などはない。居能開作の水源となっていたことは明らかで、用水需要が旺盛だった時期には東に隣接する谷地の治郎請迫にも溜め池が存在していた。
溜め池の名称や存続時期など詳しいことはまだ調べていない

居能開作の主な水源は中山川で、浜田で堰いて松崎地区を経由する用水路で請堤に送っていた。継続的な給水にはこの用水路に頼り、大迫池も補助的に水源としていたようである。この水路は明治初期に造られた記録があるものの現在はほぼ全部が喪われ経路が分からなくなっている。詳細は以下の記事を参照。
派生記事: 請堤への用水路
(記事が書き上がり次第リンクで案内します)

前述のように大迫池の堰堤は市内全域にある溜め池と比較してもかなり高い。これは自然降雨のみに頼るのではなく後年厚東川の水を汲み上げ貯留していたことに依ると思われる。

岩鼻児童公園側から見た堰堤は、下側を石積みとし上部を盛土で造っている。
夫婦池が同様の造りとなっている


これは単純に石材の節約のためかも知れないが、後年河川水を汲み上げて貯留するようになってから容量拡張の目的で上部を嵩上げした可能性も考えている。
【 揚水ポンプ 】
大迫池に揚水を汲み上げていたポンプについてここで記述する。将来的に新開作用水の項目を作成した折には以下の記述は移動される。

居能開作におけるコメ作りの最盛期にあたる昭和初期では浜田からの用水だけでは足りなくなり、干潮時に厚東川の水を利用していたようで新開作用水として慣行水利権を持っていた。後年、ポンプが普及するようになると動力ポンプで干潮時に河川水を汲み上げるようになった。この水は請堤へ送る水路へ流すのではなく一旦大迫池に揚げていた。

揚水ポンプは戦前まで機能していたが、戦後の混乱によりポンプの盗難に遭っている。その後ポンプは再度取り付けられることはなかった。やがて居能開作に工場が進出し、更には宅地整備によって稲作面積が減少した。これにより灌漑用水は大迫池の自然貯留分のみで賄えるようになったため、上開作用水の慣行水利権はそのまま自然消滅している。[1]請堤に送る浜田からの用水路も廃止され請堤自体も昭和40年代に埋め潰された。

請堤は湛水面積は広いものの平野部の皿池なので貯水量に制約がある。灌漑用水需要が高いため大迫池へ河川水を汲み上げ貯留していた。溜め池の北側より松崎地区に通じるトンネルは、一定水位より上になった場合に松崎地区への給水または緊急的排水を行う目的で造られたと考えられている。詳細は以下を参照。
派生記事: 松崎の用水路
厚東川の水をポンプアップして大迫池へ揚げていたのは歴史的事実であるが、何処で汲み上げていたかは未解明である。松崎地区で発見されたレンガのポータルを持つ隧道には前面に円筒形のコンクリート部分があり、一時は揚水ポンプ場の基礎跡ではないかと思われたが、最近の地元聞き取り調査により否定されている。
【 その他の利用 】
大迫池には釣り客の姿をまったく見かけない。水質の兼ね合いもあり現在は殆ど魚類は棲息していないように思われる。しかし平成初期頃までは鯉などが捕れていたという報告がある。
昭和中期頃までは最寄りの中学校水泳部の遊泳練習場のように使われていたという。[2]
出典および編集追記:

1.「宇部の水道」p.77

2.「FBページ|2017/2/1の投稿(要ログイン)
《 近年の変化 》
・2014年の始めに堰堤に埋設された樋管の空気抜きと思われるパイプが追加設置された。この作業に伴い堰堤中央部の草が刈り取られていた。


・2015年6月頃文京台3丁目の溜め池に面する斜面で崩落があったらしく2016年の3月頃までボーリングによる地質調査と斜面および道路の補修工事が行われていた。


・2016年2月頃堰堤の樋門に関する一部改修工事が行われている。
工事の詳細は分からないが堰堤に資材を置くスペースを造るために一定期間足場のようなものが組まれていた。


《 個人的関わり 》
初めて訪れたのは市街部へ拠点を移して自転車を乗り回すようになってからのことである。

注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

《 地名としての大迫について 》
同名の溜め池がいくつか知られるように、大迫(おおさこ)という地名は市内の複数箇所にみられる。 写真は岩鼻公園の駐車場に設置されている案内板にみられる大迫池。


この溜め池周辺の小字が大迫である。溜め池の大きさから推察されるように、かつて北へ切れ込む大きな沢地だったことが分かる。この他には際波にも大迫という地名があり、同名の溜め池が存在する。地図では大迫堤と書かれていることが多い。

迫(さこ)とは山間迫った地勢を表現したものであり、山間部へ分け入ればごく普通に見られる地形故にこの漢字および読みを含む地名がきわめて多い。同様の地形で流れ出る水に視点が向く場合は沢(さわ)ないしは浴(えき)が用いられる。このうち浴では多くの地名で後年迫に書き換えられた事例が知られる。上宇部校区の風呂ヶ迫が代表例で、元は風呂ガ浴であった。

大きく特に目立つ地勢に対して大迫という地名が生まれる背景があるため、小さく目立たないものに対しての地名発生は少ない。実際、小迫(こさこ)は市内でも存在するものの知名度が低い小字としてしか観測されていない。

ホームに戻る