千崎の3線立体交差

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記事作成日:2021/9/20
ここでは、山陽本線において山陽小野田市千崎にみられる3線オーバークロスの遺構を千崎の3線立体交差として記述する。
写真は管理農道からの撮影。


位置図を示す。


昭和後期まで隆盛を極めていた貨物輸送を円滑に行うため、既存の山陽本線に追加された第3の路線が上下線を跨ぐ形で造られたオーバークロスである。竣工は昭和42年3月とみられる。宇部〜厚狭間は山陽本線が3線となる唯一の区間[1]だった。鉄道による貨物輸送が衰退した後に3線は廃止されレールも撤去されたが、当時の構造物が今も遺っている。特にオーバークロス構造を含む里道および河川との立体交差を行う構造体は第一二の瀬橋りょうという名称が与えられている。
《 概要 》
石灰石をはじめとする鉱石の産出地は美祢にあり、それらの需要地は宇部および小野田であった。輸送には美祢線、小野田線、宇部線が使われた。美祢線は山陽本線の北側にあるのに対し、小野田線と宇部線は山陽本線の南側にあるため、貨物輸送を行うには既設の山陽本線を横切る必要があった。

当時の貨物輸送は今では想像つかないほど頻繁だった。それはかつての宇部港駅が貨物取扱量が日本一であったことからも窺える。山陽本線と平面交差させるとダイアの調整が必要で、重貨物輸送を担う上での障害となっていた。このため既存の山陽本線による旅客・貨物輸送との調整を行うことなく常時往来可能にする第3の線路を敷設し、小野田市千崎にてオーバークロスさせる構造としたのである。

3線化は恐らく昭和40年前後に着工され、昭和42年3月に完成している。千崎のオーバークロスを建設するために単純に第3の線路を造ったのではなく、用地確保のために既存の山陽本線の線形も若干動かしている。里道のアンダーパスを潰して近くを流れる二ノ瀬川と共に付け替えてオーバークロス箇所の下をくぐらせる変更を行っており、元の里道は既存の山陽本線よりも更に高く盛土して3線の経路を確保するなど、大規模な工事だったことが窺える。

塞がれた里道のアンダーパスは、近くの民家に隣接して今も遺っている。[2]


銘板などは確認されていないが、3線工事を行う前の第一二ノ瀬橋りょうの名称だった可能性がある。
【 客観資料 】
以下の映像はいずれも国土地理院の航空映像が出典である。

これは昭和49年度に撮影された地理院地図の航空映像である。未だ現役で第3線が運行されている。


昭和37年に撮影されたほぼ同じ場所の航空映像写真。[3]まだ第3線が建設されていない。


先の昭和49年度版と比較すると、写真の中央付近にあるアンダーパスに向かう農道の線形が明らかに異なっている。工事前は市道から分岐して田を巻くように左カーブしてそのまま山陽本線のアンダーパスに向かっていたが、現在は元のアンダーパス箇所で農道も河川も山陽本線の土手下を沿って暫く北上した後に第一二ノ瀬橋りょうに向かっている。特に初期のアンダーパスより西側は、工事前は周辺の田と変わらない。この農道部分を全部埋め潰した上に更に高く盛土して第3線を敷設したことが分かる。

塞がれた隧道部分の真上は、元の山陽本線の経路と考えられる。これより東側にある鎌田橋りょうも現役線と第3線の立体交差とは別に、レンガ積みの橋台跡がみられる。


即ち第3線を建設するとき既存の山陽本線を第3線側へ寄せると共に全体を高く上げている。東側の鎌田橋りょうの橋台が低く通行に支障を来たすこと、建設前の農道のアンダークロスも隧道形式でかなり狭いことから、第3線向けのオーバークロス構造を造るにあたって地元との協議で通りやすくなるよう改良したのではないかと推測される。
《 構造体の詳細 》
現在の農道の西側から撮影。
3階建て構造となっていて一番下を農道と二ノ瀬川がくぐる。中段を現役の山陽本線が通り、最上段に第3線を通している。


この構造体の柱外側に名称と竣工年月を記したプレートが貼られている。


現役線の外側より撮影。
オーバークロス構造を造るには上部を支える強固な柱が要る。この建設場所を確保するために山陽本線全体を西側へ若干移動し、上下線をやや分離して柱を造り付けるスペースを確保している。


構造体の最上段。
上下線の真上にずらした構造体を建設し、その上を斜めに第3線が横切っている。


ちなみに第3線のレールは既に除却されており、コンクリート製の枕木とバラストのみが遺っている。

下部構造は太い橋脚で造られており、柱やスラブ構造に目立った綻びはない。


但し現役線に面した柱の一部に外側のコンクリートが剥落して鉄筋が露出している部分がみられる。

構造体の内側は残土が適当に盛られているのみであり、施工当時のまま永遠に日の当たらない空間ができている。


構造体の下部へ侵入する雨水を排除する目的で、農道に向かって竪排水溝が造られている。
《 リスク評価 》
【 踏査におけるリスク 】
3線が廃止されて数十年が経過しており、現地は激しく藪化していて接近は非常に困難である。現役線へ立ち入ることなく接近できる経路は存在するが、野生動物との遭遇やヘビ、スズメバチなどの不快害虫が多い。3線の構造体も極めて高いコンクリート建造物であり、構造体の端が藪で隠れていて足を踏み外し転落するリスクがある。[4]

前述のように構造体下部の残土を突き固めないまま放置したせいか、埋戻し土が陥没している場所がいくつもある。雨水の浸入で空洞ができている可能性があり、踏み抜きリスクがある。以上のリスクにより現地に接近せず下から眺めるに留めることを強く推奨する。
リスク回避のためここでは現役線に接する場所および最上段への接近ルートを案内しない
【 構造体の存続リスク 】
オーバークロス構造をそのままにすると山陽本線の運行にリスクを生じる。(→鉄道の跨線橋が抱える問題)構造体の経年変化は随時チェックされている筈だが、農道と二ノ瀬川の立体交差構造部分のみを残して上部構造が除却されるかも知れない。なお、2度目の撮影に赴いた2021年9月では鎌田橋りょうの横から線路敷に向かう場所にバックホウが置かれ、最近作業した形跡が窺えたが、詳細や関連性は不明である。
2011年に初めて自転車で現地を訪れたときの踏査レポート。全3巻。
外部ブログ記事: 山陽本線・3線区間立体交差を訪ねる【上】
2011年5月6日の記述であり、今ほど容易に客観資料が閲覧できず知見もない時期に作成された記事なので、現地へ向かうとき最初に見つけた塞がれた隧道状の構造物は正体が分からないと書いている。
出典および編集追記:

1. 山陽本線の3線については「Wikipedia - 山陽本線|概略」に若干の記述がある。

2.「FBタイムライン|明日の踏査予定地

3.「地理院地図|1962/5/22(昭和37年)MCG624-C5-8

4.「FBタイムライン|本日のベストショット
《 個人的関わり 》
外部ブログ記事でも言及しているように、幼少期厚狭へ一人で電車に乗って訪れていたときから気付いていた。すぐ横に別の線路があることに気付き、それが段々と高くなって見えなくなった頃に電車は巨大なジャングルジムの中を通過していった。気が付くと先の線路は反対側へ移っていたので、立体交差であることにすぐ気付いた。しかしそれが一体何の目的で造られたのかを知るには年月を要した。

2011年に現在のような活動(まだ宇部市内限定ではなかったが)を始めたとき、幼少期の想い出の場所を外から眺めてみたいという気持ちから自転車で訪れている。当時はまだ現在のような深掘り観察に程遠く、未だ観光地を訪れたときのような感覚だったので自転車でわざわざ訪れておきながら現地の写真が十数枚しかなかった。

それから10年後に再訪した折りには、この物件の周辺だけで300ショット以上を撮影している。更に客観資料を活用することにより、現地在住者に尋ねることなく塞がれた隧道構造が昔の里道であったこと、第3線のみを建設したのではなく既存の山陽本線も手を加えていたこと、大規模な盛土で地形がかなり改変されていることを見出した。大雑把な記録のために撮影した10年前と、いつ頃どのような手順で建設されたかの解析を含めた深掘り観察に、取り組み方の違いが分かる物件の一つである。

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