小沢跨線橋(仮称)

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記事作成日:2023/3/22
最終編集日:2023/4/1
小沢跨線橋は、東岐波地区西小沢のJR宇部線に架かる跨線橋である。
写真は丸尾側からの撮影。


位置図を示す。


古殿から黒崎へ降りる昔からの道にある跨線橋で、この区間自体は市道磯地線に属する。
跨線橋の正確な名称が分からないので、暫定的に跨線橋が存在する自治会(東岐波18区)の通称名を与えている。所在地の字名そのものは石鍋ないしは勘田山である。


正確な名称が判明次第修正する。
《 概要 》
鉄道を跨ぐ橋が架けられた当時に近い姿を遺している跨線橋である。
鉄道に直角に架かっているため前後の道はクランク状に曲げられていて、幅もかなり狭い。
ただし通行車両の制限標識は出ていない模様


橋台全体がレンガ積みで、後年電化されたとき架線の設置に支障がなかったようで、レンガ壁を取り壊すことなく架線を設置できている。


昔からある構造体を使っている跨線橋の中ではもっとも高い。
周囲の藪が伸びたせいもあり、全体を一度に観察するのは困難である。


下側半分。
部分的に鉄板で補強されている。


道路横断部は補強されたコンクリート床板構造である。


コンクリート床板の接続部をズーム撮影。
レンガ橋台部を加工した形跡がなく、初期の構造のままと考えられる。


レンガ橋台の跨線橋は宇部線の東側に集中しており、西岐波地区に近接して2箇所、東岐波地区にはこの跨線橋とは別にもう一つある。そのいずれもが上部を改変された状態で使われている。
【 芝中跨線橋の初期構造の推測 】
初期構造から殆ど手を加えられていない小沢跨線橋は、後年改修された芝中跨線橋の初期構造を推測する参考になる。

芝中跨線橋は昭和初期から立体交差でありながら、完全に造り替えられていて元の構造はいっさい遺っていない。これは電化時に架線が支障したか、更に後年道路幅を拡げる際に頑強なものに造り替えられたからと考えられる。最初期は架線がなかった分今よりも低い立体交差だったと思われる。

山陽線にはアンダーパス構造にレンガアーチを築いたものが見られ、小野田線では下木屋暗渠のように排水部に拱橋構造を取り入れたものがある。しかし宇部線にはこの種の構造体はいっさい観測されていない。暗渠部分に関しては昭和期の西暦年がみられるコンクリート基礎がみられるので、後年すべて改修された可能性もある。
《 Googleストリートビュー 》

《 最近の状況 》
この総括記事を作成した後で、この跨線橋が管理上は「無名橋(黒崎跨線橋)」と命名されていることが判明した。[1] 既に小沢跨線橋(仮称)として作成しており、ファイル名を変えると下記の地名記述を分離しなければならなくなるので現状のままとする。
《 地名としての小沢について 》
小沢とは、東岐波に存在する小字名である。現在も東岐波18区自治会の通称名として使われている。

冒頭に掲載した小字絵図でも一部現れているように、字名としては西小沢、東小沢がある。住居表示エリアではないので現在も登記簿などの正規な所在地名ではこれらの字名が使われているだろう。

率直な読みでは「おざわ」となりそうである。但し現地在住者に確認していないので異なる可能性がある。そして少なくとも最初期の字名では小沢(こざお)と読まれていた。地名明細書では黒崎小村の配下にこの読みが記されている。


当初の読まれ方との相違は、他の地区でもあり得る。上の岐波浦小村配下にある水落は率直な読まれ方が記載されているが、東岐波地区の郷土読本などでは「みぞおち」の読みが優勢である。丸尾原小村の永ヶ久保も現在では地元民は「えがくぼ」と呼んでいる。

小沢は姓名にも用いられる一般的なものである。しかし興味深いことに字名としては、少なくとも市内エリアでは一般的ではない。旧宇部村エリアには小沢という字名はおそらく存在しない。読まれ方が特異であることから、字名の由来が”小さな沢”といった地勢由来ではなく別のものの可能性もある。西岐波村の西の端にある大沢は、地形由来(大きな沢の存在)ではないことが示唆されている。
出典および編集追記:

1.「山口県 道路鉄道連絡会議|■跨線橋の点検結果及び修繕状況」p.17

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