芝中跨線橋(仮称)

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記事公開日:2017/9/27
情報この記事は国道190号とJR宇部線の立体交差部分の橋りょう構造について記述しています。
かつて同じ場所に存在していたと思われる芝中橋については こちら を参照してください。

芝中跨線橋は、国道190号とJR宇部線が立体交差する場所に架けられている床板構造の橋である。
写真は宇部線から撮影した跨線橋。手前に見えるのは芝中第3踏切


位置図を示す。


現在この場所はコンクリート床板構造の立体交差となっているだけで、橋名を記した親柱やプレートなどは知られていない。記事名の芝中跨線橋は仮称である。

国道190号がJR宇部線と立体交差する跨線橋は2箇所あり、もう1箇所は厚東川バイパス平原跨線橋である。ただし平原跨線橋が昭和40年代のバイパス建設に伴い誕生したのに対し、芝中跨線橋の成り立ちは戦前期まで遡る。後述するように初期の成り立ちがよく分かっていない跨線橋であり、情報収集が求められている。
《 国道190号から 》
以下、芝中跨線橋の現在の状況を撮影している。撮影時期はそれぞれ若干異なる。

恩田町より東芝中方面を向いて撮影。


東芝中より恩田町方面を向いて撮影。


立体交差前後の民家はどれもフラットな場所に位置しており、鉄道と立体交差するために外部から土砂を運んで盛っていることが分かる。実際の地勢は恩田側が若干高く、鉄道と同じ方向にごく浅い浴筋が通っている。

道路部分の構造。
自歩道と車道はガードレールで仕切られてている。


ごく狭い中央分離帯があって同様にガードレールが設置されている。これは車道部の初期は対面交通であり、昭和50年代初頭に4車線化したとき追加施工されたためと思われる。

距離標換算では起点より18K750辺りとなる。
ガードレールは恐らく4車線化時代そのままだろう。


対面交通時代は恐らく自歩道が付属しておらず、歩行者や自転車は車道の橋を通る以外なかった。[1]4車線化の拡幅は道路幅を北側へ押し広げる形で施工されている。
《 JR宇部線から 》
以下の写真は、2012年に立体交差以前の痕跡がないか調査したときの映像である。
芝中第3踏切より線路沿いに踏査している。


芝中跨線橋は単線の宇部線に対して過剰設計とも思える長さを持っている。どうかすれば複線化にも対応可能かも知れない。

橋脚と下から見た床板構造。
前述のように、芝中跨線橋を使う国道190号は当初対面交通で運用され、後年4車線化された。しかし目視する限りでは双方の床板構造も同じ外観に見える。


これは4車線拡幅時に元からあった片側車線分を合わせて更新したか、当初から橋脚だけは4車線分造られていて後から床板部分のみ同じ仕様のものを設置したからだろう。

橋脚の下部に浅く削られた階段状のものがみられる。
この写真を撮りに来た5年前は、芝中第2踏切であった痕跡だろうなどと考えていた。


後述するようにこの仮説は現在では否定されている。これは中央分離帯のところから滴り落ちた雨水が削った痕跡に過ぎない。橋脚付近にある粘性土もコンクリート土台を造るとき外部から運び込まれたものと考えられる。
《 調査を要する点 》
芝中跨線橋の現状とその前身にあったと思われる立体交差構造に関して、以下の疑義がある。
(1) 最初期の立体交差はいつ建設されたのか?
(2) 最初期の立体交差はどんな構造だったのか?
(3) 跨線橋のスパンが異様に長いのは何故か?
このうち最初の2点は現在の松山町二丁目交差点から恩田方面へ向かう現在の国道部分の道をいつ建設したのかという問題に帰結される。現在は立体交差となっているが、最初期から道があったとするなら平面交差していた筈である。

現在のところ、芝中跨線橋の前身と考えられる立体交差はこの道路建設を行ったときにまで遡るのではないかという仮説を立てている。即ち厚東川バイパスと同様、元々は広範囲な田であった場所へ盛土し道路を造ったという考えである。

この仮説を補強する客観資料が3つある。
(1) 郷土資料館に芝中橋という宇部鐵道の親柱が保存されていること。
(2) 宇部市街図でこの場所を鉄道の立体交差として記載されていること。
(3) 芝中第1踏切のすぐ北側に第2踏切があったと考えられること。
郷土資料館の中庭には、芝中橋および宇部鐵道と刻まれた一対の親柱が保存されている。


これは現在のJR宇部線に関連する橋ということになるが、芝中にはこれほど重厚な親柱を要するような河川は存在しない。したがって現在の芝中跨線橋のところにあったとしか考えられない。

昭和12年発刊の宇部市街図では、現在の国道190号の前身を府縣道小郡宇部線と記載している。そして宇部鐵道との立体交差部分を道路が上になるように記載している。


当時の宇部鐵道と道路部分との交差はすべて平面交差(踏切)であり立体交差はここだけだったと考えられる。そのことを反映するように、宇部市街図で鉄道と道路の交差に関して道路側を上に配するように記載しているのはこの場所だけである。

当時から立体交差であったとしても道路自体まったく新規だったとは言えないかも知れない。宇部市街図で芝ノ中通りと記載されている道が古くからあり、元々は宇部鐵道と平面交差だったものを昭和12年までに立体交差へ変えた可能性も捨てきれないからである。しかしその点についても否定的に考えている。その理由は、踏切の命名の仕方による。

平面交差を元に考察した場合、五反田通りの交差部に芝中第1踏切があり、芝中跨線橋のすぐ北側に廃用化されている芝中第3踏切が現存する。芝中第2踏切が存在しないことから、初期は芝中跨線橋以前に平面交差の道があり、第2踏切が存在していたという仮説を立てていた。しかしその後の調査により、芝中第2踏切は第1踏切のすぐ北側に存在していた証拠[2]が見つかったことによりこの仮説は否定されている。

以上のことより、立体交差部を含めたこの区間は芝中と恩田を連絡する目的でまったく新規に造られた道路と予想する。宇部鐵道への社名変更の時期[3]と宇部市街図の掲載状況から、初期の立体交差は大正10年(1921年)から昭和12年(1937年)の間に造られたと考えられる。しかし具体的な建設時期は全く知られておらず、竣工当時の道路や親柱の設置された橋の写真も見つかっていない。一連の情報を記録した書籍も知られていないし、高齢の市内在住者に尋ねてみるものの今のところ何の情報も得られていない。

現在の芝中跨線橋はコンクリート製である。橋脚部は4車線分造られており、鉄筋入りのコンクリート柱を横へ敷き並べた構造となっている。橋の長さは現在の宇部線の倍以上あり、線路沿いの両側に作業用管理道を造ったとしてもなお余りある。いつからこの幅になったのかという問題がある。
西岐波以東に現在もいくつか遺っている跨線橋は、すべてがレンガ積み構造でその幅も車両限界ギリギリしかない。したがって最初期の芝中橋時代も同様だったのかも知れない。他方、当時から既に現在と同じ幅があり、芝中跨線橋として造り替えたときに昔の橋台位置を流用した可能性もある。

写真でも分かるように現状の芝中跨線橋の幅は些か過剰設計である。もしかして最初に現在の跨線橋を架けた段階で将来的な宇部線の複線化の可能性も考慮していたのではないかとも思える。
出典および編集追記:

1. 4車線化と同時に自歩道を整備したのではなく、自歩道は恐らく更に後年の施工である。少なくとも跨線橋前後で立体交差下へ昇降するスロープが造られたのは4車線化より後だった。

2.「宇部東部(M114)1947/03/12(昭和22年)米軍撮影の航空映像」で芝中第1踏切付近を観察すると、五反田通りより分岐して北側へ伸びる道が平面交差していることが確認される。
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3.「Wikipedia - 宇部線|歴史
《 個人的関わり 》
注意以下には長文に及ぶ個人的関わりが記述されています。レイアウト保持のため既定で非表示にしています。お読みいただくには「閲覧する」ボタンを押してください。

跨線橋のところで停まってカメラを構えたのは、前述の芝中第3踏切を見つけたときが初めてでありつい最近のことである。自分の思い出せる範囲では、芝中跨線橋は昔から今と同じ構造だった。

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