国道190号・山陽小野田市吉部田

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記事作成日:2023/1/15
ここでは、吉部田(きべた)の記事タイトルで主に幼少期の個人的関わりを記録している。
写真は吉部田の地名が表示されている国道190号サイン。


この場所をポイントした Google map を載せる。


国道190号沿いであり、車で何度も通過した場所である。顕著な史跡題材として吉部田八幡宮玉泉庵跡がある。玉泉庵跡とは棚井山田の石畳道など現代で言うインフラ整備に貢献した西岐波村出身の千林尼終焉の地である。

この記事を作成した同年同月の14日に初めて現地に車を停め、ある題材採取目的で半径数百メートル程度を歩いて撮影した。目的は千林尼題材となる玉泉庵跡の撮影と、幼少期に測量の手伝いをしたときの非常に古い想い出を記事で再現するためだった。

玉泉庵跡など千林尼関連の記述は今後予定されているコラム題材で取り上げることとして、以下では幼少期の個人的関わりを記述する。まったくの想い出話であり検証可能な客観資料が殆どないため記録としての価値は殆どない。
《 測量の手伝いをした場所 》
先の写真で見えているコンビニから更に西へ進み、吉部田の表示がある押しボタン式信号のある辺りが高度の極大点である。そこを過ぎて右に入る道があり、狭い路地を進んだ先に玉泉庵跡がある。


押しボタン式信号を過ぎると、国道は一旦緩やかな下りになる。

道路は真っ直ぐ下った先で大きく左にカーブしながら山の尾根の先端を登っていく。
おおむねここからカーブまでが想い出深い話の舞台であった。


道路を横断して反対側の歩道から撮影。
もちろん当時は道の両側に歩道はなかったと思う。


いつのことだったか検証可能な資料がないが、私が小学校低学年〜中学年くらいと思うので、昭和40年代半ばから後半のことである。親父がこんな感じのことを言った。
以下台詞などは当然ながら当時の想像であり厳密性を欠いている
「吉部田ってところに行って仕事の段取りをしちょこうと思うが、測量のてごをしてくれんか?」
当時、親父は吉部田のこの辺りの道路工事で現場監督をしていた。疲れることを手伝わされるのは敬遠したが、家にじっとしているよりは車で何処かに連れてって欲しがる子どもだった。だからこの時に限らずよくついて行っていた。

途中の何処で車を停めたかなどはまるっきり覚えていない。だけど先掲の写真の地点近くだった記憶がある。親父はそこへ私を連れていって、物差しのお化けみたいな目盛りのついた長尺を渡して言った。
「大体でいいから、ここでこの棒を身体の中央でしっかり持って立っとってくれ。俺が向こうに見えるカーブのところから望遠鏡で覗くから。このメモリを遠くから読み取るから出来るだけ動かんといてくれ。俺が頭上でマルを描くポーズを取るまでそのまんまでおってな。」
「わかった。」
そう言うと親父は灰色のケースに入った機器と三脚を抱えて先の方に歩き去った。

今からすると信じがたいことだが、歩道がないどころかそもそも砂利道だった。道路の端とは言えそんな場所に子どもが機器を持って立ち尽くすなんて危険極まりないように思うだろう。当時は車が通るにしてもたまにしか来なかった。工事で全面通行止めにしていたのかも知れない。とにかく車が往来するイメージがまるでなかった。

親父はカーブの中ほどに三脚を据えて望遠鏡のようなものを載せると、こちらにレンズを向けて私が持っていた長尺を凝視し始めた。
大体この辺りだったと思う。


暫くすると親父は両手で頭上にマルを示すポーズを取ったので、少し身体を楽にして待っていた。親父は機器をそこへ据え付けたまま私の方へ戻ってきた。
「今度はこの辺りで同じように立っちょってくれ。さっきと同じようにするから。」
そして再び機器の方へ戻って望遠鏡で覗き、頭上にマルを描いてみせた。それを数回繰り返したと思う。あるいは最初に地面に何か印をつけて、俺が頭上にマルを描いたら次の場所へ移動して同じようにしてくれと言ったかも知れない。自分がやったことで覚えているのはこれだけである。
【 解説 】
言うまでもなく当時の自分は何をしているのかまるで理解していなかった。これはレベルを定点に据えて私に箱尺(スタッフ)を持たせて現地盤高を測ろうとしていたのである。今思えばスタッフで現地盤高をあたるにも測点が明確でなければあまり意味がないから、路肩に測点を示す何かの印が既にあって、そこにスタッフを持って立つよう言われたかも知れない。

レベルを据え付けた絶対高度のデータが必要だから、スタッフを持って親父に近づきながら読み取ってもらった最後にベンチをあたっている筈である。それが何処にあったのかまるで覚えていない。

カーブから先は、現在では山陽自動車道がオーバークロスしている。
当然だが測量の手伝いで行ったときには影も形もなかった。


そもそも道路沿いに民家が殆どなくまったくの田舎道だった。山陽オートの看板もなかったと思うが、カーブの中ほどから分岐する吉部田砕石は既にあったし、親父が機器を据えた近くにあったコンクリートの直方体をした設備もあった。


当時とまったく同一のものが存在しているとは限らず、後年コンクリートで造り替えているかも知れない。ただ同種のものが確実にあったことは、周囲に何も目立つものがなかっただけに強く印象に残っていた。

なお、撮影当日は雨で傘を差しながらの撮影である。レンズに水滴が着いたり曇ったりするのを拭いながらの撮影で、一部の写真に曇りが写り込んでいる。一連の景色や構造物はすぐになくなるものではないので、好天時に現地を再訪する機会があったら撮り直しを考えている。
【 記憶の再確認 】
現地で写真を撮った後、そのまま一旦野山へ戻った。このとき親父に吉部田砕石前のカーブで測量の手伝いをした話をしたところ、私が記憶している内容と同じことを言った。吉部田砕石の横にある正体不明な電信ボックスのような建物の存在についても、写真を見せることなしにそれが当時から既に存在していたことを証言した。
《 吉部田砕石 》
個人的関わりはまったくないのだが、後に土木の仕事に従事したとき若干の記憶があるので記述しておく。
写真は国道カーブから撮影。


親父がこの道路工事の現場監督を務めていたように、市外区間の工区を受け持つことは珍しいことではない。土木工事では基礎工に砕石が必須であり、運送費を節約するためにできるだけ現場近くの砕石所から買って運んでいた。この目的で会社は複数の砕石業者と取引があった。吉部田より更に西側、殆ど下関市に近い埴生でも工区を受け持っており、それらは殆ど吉部田砕石で調達していた。

埴生歩道工事か何処か別の現場で砕石が要りようになったとき、現場から自分で2tダンプを運転して吉部田砕石まで調達に行ったことが一度だけある。砕石や真砂土のような資材は運送費の比率が大きく現場まで持ってきてもらう(現場渡し)と高くつくので、ごく少量のときは自社ダンプで取りに行く(山渡し)のが通例だった。

帰りに歩道を歩いていて、吉部田砕石の下に当時を思い起こさせる石材を見つけた。


わざわざ近くまで行って撮影している。
これは道路資材向けに砕石とする前の現地由来の石材だろう。


市内では大字川上字太郎田にある金重砕石をはじめ、会社はいくつかの砕石所と取引があった。そこから運ばれてくる道路資材向けの粒径を整えた砂利(クラッシャーラン)は、黒みを帯びた不定形だった。現在でも多くの未舗装路で補修材として使われており、砂利道の固定的なイメージとなっている。

現役時代に吉部田砕石で調達し、ダンプから降ろしたところ赤茶色を帯びた特徴的な色彩の砕石に驚いたことがある。今となってはこのような石質は珍しいものではなく市内でも随所で見つかっている。他の色調の砕石と品質に差はないが、平成期に入ってからはリサイクル気運の高まりとコスト削減から建物などを取り壊したとき生じるコンクリート殻を破砕して粒径を整えた再生クラッシャーラン(RC-40など)が使われるようになった。
出典および編集追記:

1.

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