市道笹山岬台線・横話

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ここでは、市道笹山岬台線の派生的記事をまとめている。

《 末岡酒舗 》
現地撮影日:2013/5/12
記事編集日:2015/1/23
市道恩田八王子線と本路線の交点にはかつて個人の酒屋さんが存在した。
右側の店舗…現在は個人宅となっているので意図的にアングルを外して撮影している


名称はうろ覚えだが確か表記の通りだった。

当然ながら幼少期は飲酒とは無縁なのでまったく個人的な関わりはなかった。しかし恐らく私たちが恩田へ越して来た以前からあった酒屋で、ビールをよく呑む親父の需要に応えるために配達をお願いしていたと思う。このため酒舗の銘が入った日めくりを毎年頂いていた。当時の日めくりは未使用状態のまま現在も保存している。[1]

車を運転するようになると、あまり好ましくない影響もあった。市道長沢源山線から本路線を経由して市道恩田八王子線へ出るとき、店舗に用事がある車がしばしば店の前に停まっていた。そうすると恩田八王子線へ出るとき左からの車がまったく見えず危険だった。現在はこの酒屋は閉店して通常の民家となっている。[2]

当時はビール券なるものが商品券と同程度に贈答向けの地位を保っていた。確か配達に来られたときビール以外の飲料でも取り扱えると聞いて、当時から好きだったミルクセーキ飲料に替えてもらった記憶がある。[3]
個人的に店を訪れたのは覚えている限りで2回で、バイオレットフィズの素とメロンリキュールを購入したときだった。
メロンリキュールは叔父さんの家にあって炭酸で割って飲むとガムのような香料があって見た目も美しく甘かったので、自分でも作ってみようとリキュールベースを買いに行っている。バイオレットフィズは学生時代に流行っていたおしゃれ感覚で飲めるアルコール飲料だった。そして缶チューハイなどスーパーで売られている軽微なものは除いて、瓶入りアルコール飲料を買ったのは後にも先にもこの酒店以外にない。恩田に暮らしている間は最後までこの酒店でビールを買い求めていたと思う。お店が閉まったのは私たちが恩田を去ってから更に後年のことであった。
出典および編集追記:

1. 日めくりを使わなかったのは当時は行きつけの店がカレンダーなどを配ることが頻繁に行われていて余っていたからだった。各部屋に一枚ずつカレンダーや日めくりを掛けてもまだ余っていた。
最近(2014/12/17)押し入れで探し物をしている過程で件の未使用の日めくりが数点見つかった。


写真のモデルはジュディ・オングである。袋から出された状態で放置していたため部分的に日焼けし保存状態は悪い。しかし殆ど40年前の未使用状態でありオークションで売れるかも知れないという声があった。「FB|【押し入れタイムスリップ - 日めくり】」参照。(要ログイン)
この他に1980年代の日めくりもあり、そちらは袋に入っていて保存状態は良好である。

2. 閉店か移転かは分からないが、それほど広くないT字路の角に店舗があり、交通量の増加で駐車車両があると危険になったのもこの場所での営業を取り止めた遠因かも知れない。

3. 実際にはビール券はビールだけでなくその他の飲料品にも交換できる。「Wikipedia - ビール券|引き換えに関する問題」を参照。
《 生協の共同購入グループのあった家 》
記事作成日:2014/4/12
今は付き合いのない個人に関する内容なので詳細なことは書けないが、この近辺に生協の共同購入グループの世話人が住んでいらした家があって注文していた商品を取りに行くお使いでしばしば訪れていた。


恐らく裁縫関連の教室で母と知り合った方と思う。生協の共同購入というシステムがあって、何人かまとまって班を作ればあらかじめ注文していた商品をグループ宅まで配達していた。商品は一週間に一度、決まった曜日と時間にまとめて代表者宅へ届けられることになっていた。当時母はまだ車の免許を取得しておらず、家からはちょっと離れた場所なのでしばしば私は自転車で注文の商品を取りに行くよう頼まれた。中学1年生の頃だったので昭和50年の前半である。

今でこそ生協の共同購入はよく知られていて品目も多いが、当時は取り扱っている商品の種類がそれほどなかったと思う。記憶のある注文商品は500ml入り牛乳パック、おがくずを練り固めた風呂の焚き付け用燃料だった。牛乳パックは紙パック入り商品が出回り始めた頃で、生協のは形状がサイコロに近い形をしていて赤いパッケージだった。4〜6個くらいがビニールで包装されていた。おがくず燃料は六角柱をしていていくつか穴が開いていた。当時はお風呂を焚くのに紙ゴミや建築廃材、石炭を使っていたのだが、廃材と石炭のストックがなくなってからは燃料を買う必要があった。風呂用のボイラーは一般家庭にはまだ殆ど普及しておらず、バーナーを焚き口に設置して沸かす方式が出回り始めた頃だった。

母の命を受け、私はその方の家まで自転車を走らせた。元から同年代と遊ぶより大人の中に入って話をすることに抵抗を持たない子どもだったので、嫌々お遣いに行っている感覚はなかった。世話人さんの名前は当然知っているし顔も覚えている。共同購入のグループ代表を務めるくらいなので、明るく積極的な方だった。こうして我が家の注文分をまとめて渡され、前に籠のついた母の自転車に積んで帰っていた。このお遣いは恐らく私が中学2年生になる頃まで続いた後に解散した。恐らく他の参加者が退会してグループの最低人数に満たなくなったからだった。私のお遣いはそれで終わったものの世話人さんと母との付き合いはその後もずっと続いていたようだ。
《 岬台について 》
岬台(みさきだい)は現在の五十目山町および草江3丁目に存在する地名である。
写真は岬台自治会館。


岬台という地名は小字絵図にはなく、昭和中期から後期にかけて新興住宅地を整備し、岬よりは若干高い丘陵部にあるということで岬台という名称を与えたようである。実際、岬台は一般に認識されている岬からは離れている。校区も岬校区ではなく恩田校区に含まれ、自治会区としては恩田17〜20区が割り当てられている。

古くからある地名を元に、それより高い位置にある団地や住宅地を「〜台」と命名する例は桃山台や小串台などが知られる。派生的地名の一つと言える。
住居表示改定が普及した現在では岬台の地名が公称される場面は少ない。しかし地元在住民向けの店舗や岬台自治会館などに名前がみられ、現役地名としての地位を保っている。

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