市道弥生町線

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記事作成日:2014/3/19
最終編集日:2018/4/25
市道弥生町(やよいちょう)線は、昔からの通りである市道上町線から分岐するごく小さな認定市道である。
起点を地図で示す。


地図上でこの場所が起点となる道と言えば一つしかなさそうだ。何処へ向かうかも推測できる短い道のようである。

市道上町線から本路線の入口を撮影している。
かなり注意していないと見過ごしてしまいそうだ。


反対側から撮影。
写真には写っていないが2軒先の奥まったところに助田郵便局がある。


この道なのだが…
市道と言われてもそのようなイメージが湧かない。民家に出入りする通路のようだ。


一応、車は通れる幅はあるし舗装もされていた。若干登りになってすぐ下るようだ。
先に見える踏切が妙に狭い。


前方に踏切が見えている。踏切がある以上、行き止まりでないのは確かだ。しかし幅が狭く明らかに車では先へ進めない。


そして些か唐突だがこの踏切を直前にして本路線は終点となっている。
およそ見て分かるのだが念のために車輌通行止めの標識が設置されていた。


終点の原田踏切前から振り返って撮影。当初から車を通す予定がなかったようで、錆び付いた鉄柵で通路の幅を絞っている。
認定市道となっていること自体が驚きだ。昔からある道なのだろう。


この市道の経路である。
辛うじて国土地理院の地図に記載されていた。
踏切を示す記号は記載されていない


たったこれだけで、道路としては特に言及すべき内容はない。興味の対象は、この先にある踏切、その先の道路との取り付け状況、そして本路線に与えられた名称である。むしろそれら一連の情報を記録するためにこの記事を作成したとも言える。
【路線データ】

名称市道弥生町線
路線番号645
起点市道上町線・分岐点
終点原田踏切前
延長約40m
通行制限特になし。
備考原田踏切は車両通行止め

延長など各データの正確性は保証できません。参考資料とお考えください
では、引き続いてそれらの情報を本編に盛り込んでおこう。
《 原田踏切 》
情報この記事はカテゴリ整理の過程で暫定的にこの場所へ移動されています。将来的に単一記事に分割されるなどで再度アドレスが変わる可能性があります。

市道の終点は踏切の手前なので、その先は地元管理の道ということになる。
本路線の終点にあたる踏切は原田踏切という名が与えられている。


人の姓を思わせるこの名称は、踏切の名称としてちょっと当惑させられるかも知れない。


それと言うのも本路線は市道弥生町線という名称であり、この「原田」というのが地名だとすれば出どころは何だろうということになるからだ。
手元の小字絵図で調べると、原田とはこの近辺一帯の小字であったことが判明する。[1]原田という小字は旧宇部村中に限定してもここの他にも存在することが分かっている。[2]踏切の名称は素直にこの場所の小字に由来している。

認定市道でないというだけで、歩行者などの通行に制限は何もない。生活道として機能しており警報機と遮断機の付属する踏切となっている。


敷かれている踏板は明白に四輪より狭い。特に反対側からは車では物理的に入れないのは明らかなので車両通行止めの標識は市道終点部分のみだった。


もはや市道を離れて完全に鉄道カテゴリになるのだが、宇部新川駅側を撮影。
線路は単線ながら架電柱が幅広の門型柱になっている。通常なら片方に電柱を建て腕金で架線を固定するタイプの筈だ。


居能駅側を撮影。
架電柱は更に幅が拡がっているのが分かるだろう。


架電柱が片架けになっていないのは、以前はこの辺りから線路が分岐していたからである。現在の宇部線は軽く左へ曲がっているが、かつては上町踏切の手前でやや右へ逸れる分岐があり、宇部新川電車区に向かっていた。レールが撤去されたのは平成期に入ってからのことである。架電柱は分岐が始まる部分を含んでいるので門型となっていたのだ。
一連の記述は鉄道カテゴリの記事へ移動するかも知れない

踏切を渡った先が地形的にみて面白いことになっている。
線路より下の道がかなり低いのである。


スロープ部を降りて下から撮影している。
平坦と思われるこの近辺でこれほどの段差が生じているのは意外かも知れない。


踏切の下を通る道は市道鵜の島南浜町線である。
この市道からの高低差は家半軒分程度ある。大した差ではないにしてもそのまま直線的に擦り付ければ車は往来できない。


この高低差の理由は、常盤通り・松山通りの丘陵的地勢と同じと考えられている。内陸部に向かって一旦標高が下がるのは、遙か昔に河川から運ばれた砂ないしは海から打ち寄せられた砂が堆積し丘陵部を造っている。
実際、宇部線を宇部新川駅方面にたどったとき、次に出会う浜通踏切も海側に向かって軽い登り勾配になっている。他方、国道190号の中通踏切付近ではほぼ平坦路である。これは砂嘴が居能方面へ近づくにつれて低くなっていることに符合する。この起伏は標高5m以内に収まるので、国土地理院の地図では把握できず現地を歩いたり自転車で通ることによって初めて体感される。

本編の市道の話に戻って、一般に認定市道の経路は行き止まりでない限り最寄りの公道に接続する場所までに設定される。本路線が市道鵜ノ島南浜町線まででなく原田踏切の手前を終点にした理由は明らかではないが、かつて助田駅があった場所であり、駅前線が大元ではないかとも推測される。

もう一つ、市道路線名に現れる弥生町について触れておかなければならない。
《 弥生町について 》
弥生町(やよいちょう)は現在では地図に現れなくなってしまった町名である。しかしその知名度は今でもそれほど低くはない。ほんの数年前までネット大手の地図配信元でもその表記がみられた。とりわけ宇部興産(株)の関係者や沖ノ山炭鉱住宅をご存じの世代は弥生町というキーワードは非常に馴染み深く、現行の町名と同程度の知名度を持っている。
しかし現在では行政を含めて弥生という町名が現れるのは本路線の認定市道名、企業の物資輸送専用路である弥生道路と一部の遺構程度となっている。いずれも現地を訪れたり資料をあたることで初めて目にする程度に露出度が下がっており、30代以下の世代は殆ど知らない。それ以上の年代の市民でもこの地に関わりがなければ同様であろう。

かく言う私自身も弥生町について知ったのは、数年前にYahoo!地図で宇部興産ケミカル工場付近を閲覧していたときが初めてである。地名表記として小串弥生町と記載されていた。この表示は2〜3年前に取り除かれた。だから私もこの近辺にあった町名という程度の知見を持つだけで、具体的にどの範囲が町内になるのか、町名の由来や発生時期などはまったく分からない。
今回掲載した市道は弥生町線という名を与えられており、同様の認定市道として弥生町2号線が存在する。ただしこの近辺を含めて弥生町と呼ばれていたかどうかは分からない。しばしば電線柱・電信柱には認定市道と同様に古い町名をもつ路線名が与えられるが、上町という表示はあったものの弥生町の文字はみられなかった。したがって現時点ではどの範囲が弥生町なのかについては分からない。

この近辺は江戸期以前は海に面した砂浜であり、藤山村の方から少しずつ移動して人が住むようになった地である。地名明細書には助太鼻沖ノ山といった小字が収録されており、小串村の南の端に位置していた。現在工場敷となっている領域は後年の石炭採掘による残土を海へ押し広げて造られた陸地なので、人との関わりが始まってからの歴史は浅い。
弥生とは現在では暦の上での3月の別称であり、「草木がいよいよ伸びるさま」という意味がある。[3]炭鉱住宅として繁栄し人口密度が高かった時代に町名が与えられたなら、この地を拠点に活動する企業の発展・繁栄を願って「いよいよ栄える」という意味で弥生町と命名したのではないかと考えられる。いわゆる文化由来地名であり、新規に造られた町名の多くが該当する。炭鉱住宅時代には弥生町の他に扇町・山海町・厚生町・福進町の4つの町が存在していた。この町名は炭住が解体され工場敷へ転化された折にすべて喪われ、弥生町のみが暫く後年にわたっても使われ続けてきた。

昭和12年に作成された宇部市街図には弥生町という町名は見えない。これは地図へ記載するスペースがなく省略されたのかも知れない。
牛岩神社には弥生町一丁目一同と刻まれた手水舎が存在する。そこには昭和14年12月吉日の年月が確認できる。


また、同神社内には彌生神社と書かれた鳥居が設置されている。牛岩神社自体まだ充分に調べられておらず今後の情報整理を要する。
出典および編集追記:

1. 制作年の新しい小字絵図では、現在の産業道路(市道小串通り鍋倉線)を挟んで北側が原田、南側は既に南浜町一丁目と記載されている。しかし古い小字絵図では北から順に北原田、原田、沖原田という小字が確認できる。

2. たとえば、現在の神原小学校付近の小字も原田であった。
そこより津出し道(参宮通り)を挟んで東側、現在の保健センター付近が上原田(かみはらだ)で、その地名に因んで上原田炭鉱と呼ばれていた。現在の神原という地名は渡邊祐策の名付けた上原田炭鉱に由来するというのが通説である。詳しくは神原の項目を参照。

3.「デジタル大辞泉 - 弥生

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