草江1丁目の生活道・横話

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本編では草江1丁目の生活道および派生する記事をまとめて載せている。
《 秘密の基地 》
中川の管理道から伸びる枝道を見て昔のあることを思い出した。


この先は私道と思うので進攻はしなかったが、何の気なしに右側の枝道を眺めていて昔の「秘密の基地」を思い出したのである。


確かこれほど家が建ち並ぶ前のことで、この先に工務店か何かの廃材置き場があった(と思う…別の場所だったかも知れない)。
積まれた大量の木材はこの場所からも見えていて、進入路には別に柵やロープなどはなかったと思う。

誰かが誇らしげに語っていた。
「この奥に俺らの”秘密の基地”があるんだぞ。」
誰だったか覚えていないけどそいつは私たちをこの通路の奥へ連れて行った。
「誰にも言うなよ。」
大量に積まれた廃材から子どもの力で動かせる材木を「中抜き」したのだろう…トンネル状に通路ができていたのだ。
私たちは突き出た部材や釘などに頭をぶつけないよう気をつけながら奥に進んだ。木材のトンネルは単純な直線ではなく、枝分かれ部分もあった。しゃがみ込み腹這いになってやっと通れる場所もあった。別の出口も造られていたと思う。
一番奥では既に中へ入った級友が待機していた。廃材の隙間から光が差し込むせいか真っ暗ではなく、友達の顔は見えた。そこで持ち込んだ駄菓子を食べた。そんなに大規模な基地ではなかったが、よく拵えたものだと感心した。そして一緒に基地の「拡張工事」も手伝ったものだった。

もっとも秘密の基地に潜入したのもその一度だけで、次に遊びに来たときには廃材は全部片付けられていたか、基地そのものが壊されていたと思う。
後から思えば場所がここだったか自信がないが、絵空事ではなく積まれた廃材の山から木材を抜き取った”基地”に入って遊んだのは確かだった。
「誰にも言うなよ」と約束だったのだが…ネットで記事化してしまった^^;

同じ時期か廃材が片付けられ広っぱになってからの事だが、同じ場所で当時の同じメンバーでろくむしや助け鬼などをして遊んだ。
広っぱの端には真砂土が土手のように積まれて高くなっており、ブロック塀との間が溜まり水になっていた。何処かからか水が流れ込んでいたのかも知れないが、晴れた日でも常に緑の汚い水が溜まっていた。
鬼ごっこのとき、私は何の考えもなくサンダル履きのまま溜まり水の水際をパシャパシャ走り回っていた。友だちは入らん方がええぞと言っていたが、意味が分からなかった。

その後で溜まり水の中にオタマジャクシのように黒いけどちょっと形が違って、奇妙に伸びたり縮んだりする見たこともない生き物がわんさか蠢いていることに気づいた。一部は陸に上がって石ころなどにへばり着いていた。
友達から「あれはヒルだ。触ったら吸い付いて血を吸われるぞ」と教えられた。元からミミズなどの環形動物は嫌いだったが、そいつは濃い緑色で背中に奇妙な縦筋があった。二目と見たくない気持ち悪さにゾッとした。
それ以降自分にとってヒルは天敵となり、用水路や田んぼにその姿を見るだけで卒倒しそうになった。
死ぬほど嫌いだと知ると木の枝に引っ付けて追いかけてくる悪ガキも居た

中川の水路にも住み着いていたようで、今まで気がつかなかっただけだった。それ以降、幼少期の自分は淀んだ汚い溝には決して近づかなくなった。
現在では田んぼそのものが激減したし、このような用水路に生活排水を流さなくなってからは殆ど見かけなくなった。ヒルは元々中程度に汚れた水に棲む生物なので、それだけ水質改善されたのだろうか…
《 宇部アイス・スタジアム 》
情報この記事は現在の草江1に存在していた宇部アイス・スタジアムについて記述しています。
同じ建物に併設された宇部第2ボウルについては こちら を参照してください。

赤岸にあるアルク恩田店の店舗建屋の右横にコンクリート建てだが古そうな事務所らしきものがある。

中川水路から撮影している。
買い物客が往来しているのでとても正面から撮影できない…sweat


飛散防止の鉄線が入ったガラス窓だ。記憶が確かなら当時から変わっていない。この内側に上がり口か下駄箱があったと思う。


ここはかつて西日本随一を誇る一大アミューズメントスペースだった。
ボウリング場の名称は「第2宇部ボウル」で、公式戦にも対応可能な40レーンを有していた。何よりも特筆すべきことは、スケートリンクが併設されていたことだ。

当時、県内の近いスケート場と言えば徳山か下関しかなかった。第一次ボウリングブームの時流に乗り、市内にも多数のボウリング場が造られた。しかし当時ボウリングは大人が嗜む娯楽とされており、現在ほど子どもが慣れ親しむ遊技ではなかった。スケート場が存在することで大人も子どもも楽しめる一大遊技場に成長した。

振り返って撮影。
スケート場の入口はボウリング場とは別にこの建物の現在見えている左側にあったと思う。
後で掲載する看板の通りなら正面玄関と一緒だった可能性もある


現在はアルク恩田店の社員向け設備となっているので当然中には入れない。
買い物客が多い…正面に立って直接カメラを向けることも憚られた
そこで遙か昔の記憶を思い起こしてみると…

玄関を入ったすぐ左にガラス窓のついた受付所があり、窓口でチケットを買い求めた。チケットは恐らく3時間券とフリー券が存在していた。3時間券が450円くらい、フリーが800円くらいだった。チケットは白色と黄色で、やや横長の長方形をしていた。
貸しシューズは入って奥に別のカウンターがありそこで借りた。別料金が要ったと思う。フリー券を買えば好きなだけ滑っていることができたが、靴を借りてフリーで遊ぶと千円を超え、当時の遊技代としてはかなり高額だった。
そのため数回に一度しかフリーで遊ばせてもらえなかった

靴を持ってリンクに入るときチケットにゴム印を押してもらうか、回収されたと思う。フロントから先は一段高くなっていて、エッジのあるスケート靴で歩き回っても床が傷まないように黒いラバーが敷き詰められていた。
スケートリンクは通常のトラック形式で、外側に手すりが着いていた。最初のうちは当然滑れないのでリンクの中央まで出ることができず手すりを伝ってグルグル回るだけだった。
些か揶揄して「手すり掃除」と言っていた

いつ行っても大変に人が多く、リンク上には常に数十人が滑っていた。客同士ぶつかる等のトラブルはしょちゅうだった。慣れたスケーターは後ろ向きで滑るのだが、見えていないので当然衝突した。自分からぶつかってきておきながら「滑れないガキがリンクの中ほどに出てくるな!」と逆に怒鳴られた。格好をつけて正規の出入口からではなく手すりをジャンプしてリンクに飛び込む客も目立った。危険行為は禁止されていたのだが後を絶たず、手すりから飛び込んできた人間にエッジで頭を蹴られたことがあった。スケートのときは必ず毛糸の帽子を被っていたので大怪我はしなかったが、さすがにうちの親も黙っていなかったようだ。

それでも助走してバランスを保てば足を動かさず移動できる感覚は魅力的で楽しかったし、少しずつ氷上の感覚に慣れて滑ることができるようになった。
このため今でも一応滑ることはできる…格好は極めて悪いが…

小学3〜4年生のクラスの同級でプロ級に滑れる女の子が居て、ときどき練習に来ていた。クラスでは大人しく目立たない子だった。レンタル靴は黒だが、マイシューズは白なのですぐに分かった。
4年生の途中で転校していった

スケート場は年中営業していたのではなく、夏場は広いリンクを低温維持するのに電力消費が嵩むのでローラースケート場として営業されていた。
ただしローラースケートの開催期間に行ったことは一度もない

スケート場は併設の第2宇部ボウルに先立って昭和40年代半ば頃に閉鎖された。私たちが恩田へ越してきて1年も経たない時期だった。その後も第2宇部ボウルは暫く営業していたが、第一次ブーム終焉でこちらも昭和50年代に入るまでに閉鎖された。

スケート場がなくなったことは当時の市民には大変に惜しまれた。子どもの大きな遊び場がなくなり、スケートを楽しみたい人は下関まで行かなければならなくなったからである。
回数は少ないが下関まで滑りに行ったことがある
もし現在まったく同じ場所でスケート場を再開できるとするなら、充分に収益性が見込めると思う。人々の娯楽が多様化しており、近隣地域にない種の娯楽は必ず相応の需要が見込まれるからだ。

娯楽を志向する人々にとってはスケート場がスーパーに生まれ変わったことは全く残念な転用と映ることだろう。しかし恩田に暮らしていた一住民の所感としては、永い目で見れば決してマイナスではなかったと考えている。
スケート場は休日に娯楽として利用するための施設だが、買い物は曜日を問わず日常的に必要とされる。とりわけ当時市街地にしかなかった何でも揃うスーパーは求められている施設の一つだった。恩田に最初の大規模店舗が出来たことによって生活の利便性は飛躍的に増し、結果的に恩田地域の発展を支えたとも言える。遺憾ながらスケート場のままだったら地域の発展は若干遅れていたかも知れない。
スケート場が閉鎖された後にスーパーが出来ると知られたとき当時の人々の反応は「何でスーパーなんかに…マチに出ればいくらでもあるじゃないか」が目立った…そして暫くはその意見が多かったのも事実

周知の通り、丸信が倒産して営業譲渡される過程で、丸久が店舗を引き継ぎアルク恩田店として再出発することになった。
私たちが恩田を去った後のこと…引き継ぎがスムーズに行ったかどうかは分からない

このスケート場は「宇部アイス・スタジアム」と呼ばれていたらしい。
信じ難いことだが、スケート場の単純な宣伝ではなく新装オープンを伝える看板の存在が知られている。


私たちがスケートを楽しんだのは昭和47〜48年頃のことなので、この看板が昭和40年代中期かそれ以前に制作・設置されたものであることは確実だ。

この看板ではボウリング場については何も触れられていない。そのことからボウリング場との同時新装オープンという形態でなかったことが確認できる。
また、三角屋根のイラストは現在の建屋をよく反映している。実際の配置もこの通りならスケート場の玄関も建屋の横ではなく正面に設置されていたことになる。
スケート場が先に出来て第2宇部ボウルはその後なのかも知れない

なお、この看板は今から3年前にある方より情報を頂いて現地撮影してきたものである。当時を伝える非常に貴重な看板であり、剥がされるなどの改変が懸念されることから看板の設置場所などの情報掲載は差し控える。この記事を書く段階で看板が健在かどうかは分かっていない。
【 記事公開後の変化 】
項目記述日:2018/12/25
写真にみえているアイス・スタジアムやボウリング関連の事務所や建屋は、2014年の年明けにアルク恩田店がリニューアル改修工事を行ったときすべて取り壊された。また、新たに店舗を建設するとき土砂を入れて敷地全体を若干高くし国道との高低差を緩めている。

宇部アイス・スタジアムの運営母体であった会社は宇部スケートリング株式会社であり、創立は昭和43年9月20日となっている。当時の取締役社長は波木多平氏であった。[1]
第2宇部ボウルと呼んでいたボウリング場の運営母体については調査中である。
出典および編集追記:

1.「続・宇部市民手帳」(ウベニチ新聞社)p.143

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